第32話 決別

「マイナデスは――私の娘です」


 驚愕に続いて湧き出したのは、忌避と罪悪が入り混じる泥のような感情。

 思わず視線を上げると、水槽の中では相変わらず生物とは思えない醜悪な異形が、揺りかごで眠る赤子のように漂っている。

 この絶対悪と見做していた虚殻の正体が――先生の娘。

 善悪の価値観が逆転したような錯覚と眩暈に吐き気を覚える。


「虚殻になった人を救うなんて……一体どうやって……?」


 呻くようなシンシアさんの言葉に、先生は左右の指を交差させながら口を開く。


「応用ですよ。儀式を行うことでリッカさんの魂を御柱へ移植――同時にマイナデスから娘の魂を抽出し、リッカさんの肉体へ移植する。要は魂の入れ替えです」


 確かに理屈は通っているかも知れない。ほとんど机上論ではあるが、移植に関しては自分という成功例がある以上、その全てが妄言とは言い難いのもまた事実だ。


「これならば里も娘も救われます。姉妹であれば移植のリスクも少ないでしょう。リッカさんが現れたのも何かの縁――姉を助けると思ってご協力いただけないでしょうか?」


 しかしリッカの件は話が別だ。

 確かに額面通りに受け取れば、当初の目的を果たしつつ娘さんを救えるのかも知れない。だが裏を返せば、彼女に死んでくれと言っているのだ。

 拒絶の言葉が口を衝く直前――突き放すように身体の主導権が奪われる。


「協力する代わりに、二人に手を出さないと約束してください」


 あまりにも呆気ない諦念の言葉は、まるでそれを望んでいたかのようにすら聞こえた。


「誓いましょう」


 こちらへ手を差し出した先生は、慈悲を与える仏のように穏やかに言った。


『駄目だリッカ!! 儀式を行えば……死ぬんだぞ……!?』

「あなたは以前、両親の願いがあったからこそ生きてこられたと言いました。ならば巫女として育てられ、犠牲になることを望まれた私にとっては、これこそが存在意義なのです」


 その言葉に、俺は二の句が継げなくなる。

 彼女はずっと、死ぬために戦ってきたのか。


 出会った頃の彼女の怒りと、それを失った後に残された厭世観。

 どこか自分とは一線を画す少女の、孤独な葛藤。

 その心の一端に、俺は皮肉にも初めて触れた気がした。


 リッカは迷いなく歩みを進め、差し伸べられた慈悲へ手を伸ばす。

 絶望、悲嘆、忸怩、瞋恚――様々な感情が嵐のように心を掻き乱す。

 信念も、矜持も、覚悟もない。けれど……


 この手を伸ばすことに――迷いもない。

 

 主導権を奪い返すと同時に、掲げた腕を爆音と衝撃が伝い、視界が白煙に覆われる。これが――俺の意思。


 これで本当に――決別。


 リッカの考えは分かる。先生の想いも、分かってしまう。

 きっと誰もが正しくて、きっとこの選択に正義はないのだろう。

 けれどここでリッカを見殺しにしたら、俺は一生――自分を信じられない。


「……それが、あなたの答えなのですね」


 立ち込めた蒸気の帳を、銀の腕が一閃にして薙ぎ払う。

 相対する先生は、相変わらず微笑みを湛えていた。心を闇に潜め、慈悲を押し殺すように、狩人は再び仮面を被る。


――敵対するのか、あの先生と。


 恐怖に粟立つ本能が問いかけてくる。彼の実力は未だ底が見えず、勝機など針の先ほども見えていない。しかし戦わなければリッカが犠牲になるのだ。


『……やめてください。こんな争いは無意味です。言ったでしょう、これは私が望んだことでもあるのだと。私のためだと言うなら、それは余計なお世話です』


 リッカが微かに語気を強めながら、突き放すようにそう言った。それが本心なのか、気遣いなのかは分からない。しかしどちらにせよ、優しいな――と思う。

 本当にどうでも良いなら放っておけば良いのに、きっと本人だけがそのことに気付いていない。


「リッカの考えを否定することは……できない。同じ立場だったら、きっと俺も同じ選択をしていたと思う。だからリッカに生きて欲しいと思うのは、俺の我儘だ」


 本人からすれば路傍の石でも、俺たちにとって彼女の存在は、宝石よりも尊いものだ。その光が消えようとしているならば、それだけで戦う理由は十分だ。

 掲げた掌上へ霊力を集束し、腕を走る寂光の路――その先を見据えながら覚悟を紡ぐ。


「言っただろ。俺が戦うのは――後悔しないためだって」

「……残念です。手荒な真似はしたくなかったのですが」


 そう呟いた彼の表情には、言葉とは裏腹に嬉々とした色が浮かんでいた。


「霊装――蹂躙の銀脚アガート・ルーラ


 義足が床を打ち、硬質な音を響かせると、それを覆うように鈍色の脚が現われた。

 彼の代名詞とも言える聖霊術――神の義肢。

 しかし今までとは明らかに用途の異なるそれは、篭手より二回り以上小さいにも拘わらず、抜き身の刀のように剣呑としている。


「やはり、馴染みますね」


 彼は感触を確かめるように踵を鳴らすと、


「本来の使い方ができるということは、即ち性能を十全に発揮できるということです」


 そう言いながら義足で床を蹴った次の瞬間――視界から姿を消した。

 咄嗟に身体を動かしたのは、訓練で嫌というほど叩き込まれた危機への条件反射だった。額を床へ打ち付けるように上体を倒すと、靡く襟足をギロチンのような蹴りが薙ぎ払う。

 床に手を突きながら身体を捻ると、背中越しに冷たい双眸と視線が交差した。


 ――退くな!!

 萎縮する心を鼓舞するように、強く一歩前へ踏み込む。

 心は熱く、されど頭は冷静に。この踏み込みも決して無謀な行為ではない。

 俺の聖霊術――昇華は近距離でこそ真価を発揮する。

 先即制人のつもりだったのかも知れないが、中距離からの攻撃手段を持ちながら自ら接近してくれたのは僥倖だ。引き絞った掌に結晶を生成し、掌底を放つと同時に開放――昇華の狂飆が炸裂する。


 至近距離からの爆風に両者の身体が弾かれ、床を削りながら制動する。視線を上げた先で、昇華を受け止めた銀の篭手が分裂するように諸手と化した。

 無論、この程度で決まる相手だとは思っていない。俺は間髪入れずに距離を詰める。今は何より攻撃の手を止めず、後手に回らないことが重要だ。迫りくる拳を最小限のステップで回避しながら再び掌底を放つ。

 芸はないが、これが今の自分に取れる最善策だ。


 接近戦を選んだのには、自分の適正距離である他にもうひとつの理由がある。

 掌握の銀腕――仕組みとしては単純だが、質量にものを言わせた攻撃は脅威だ。

 例えるなら巨大なハンマーを振り回しているようなもの――だが、そこは同時に弱点にもなり得る。


 簡単に言えば、その大きさ故に小回りが利かないのだ。近距離で振り回せば術者自身が巻き込まれかねないため、必然的にパフォーマンスも低下する。


「ぉおおおお――!!」


 雄叫びと共に繰り出す昇華の猛撃を、先生は最小限の動きで捌いていく。

 手中には、確かな手応え。

 予想通り相手は篭手の使用を控えて、足技を中心に切り替えている。攻防一体のそれは驚異的だが、足を回避に回せばそれだけ攻撃回数も減る。

 このままいけば持久戦に持ち込める――と次の瞬間、居合のような蹴りが頬を掠めた。


 ――速くなっている……!? 


 頬を伝う血を拭いながら、違和感に気付く。

 こちらの息切れに対して、相対する先生は呼吸ひとつ乱れていない。あちらが加速しているのではなく、こちらが遅くなっているのだ。

 年齢や戦闘経験の差を考慮しても明らかにおかしい――と、


「私の聖霊術にとって、義肢の顕現は副次的なものに過ぎません。その本質は武功の支援――主の身体能力を極限まで引き出し、無尽蔵の体力を供給することです」


 こちらの動揺に気付いた先生が、追い打ちとばかりに種明かしをする。


「接近戦に持ち込んだのは良い判断です。ですが物事が順調であるほど思考は淀み、それが用意された虎穴だとも知らずに潜り込んでしまう。もう一度言いましょう――」


 そう言って横薙ぎに腕を振るうと、六本の篭手が主を守る番人が如く顕現する。


「思考を止めたら、死にますよ」


 気付いた時には手遅れだった。

 動揺に足が止まり、この位置関係を取られた時点で、相手は距離を詰められないように篭手を振るうだけで、一方的にこちらを制圧できる。

 しかし後悔する暇もなく、質量の暴力が隕石のように降り注ぐ。

 息を吐く暇もない猛撃に防戦一方を余儀なくされて、気付くのが遅れた。

 先生の姿が、消えていることに。


 背後から響いた着地音に振り返ると、踏み込みと同時に引き絞られた掌上には、黄金色の柱が死神の鎌のように輝いていた。

 篭手の死角、意表を突く接近、真の狙い――走馬灯のように渦巻く思考の中、掌底と共に繰り出された柱が腹部を刺突し、身体が宙を舞う。

 内臓を抉るような衝撃と痛みが――無い?


 背中から床に叩きつけられ、絞り出すような声を漏らしたのは――リッカだった。


「リッカ――!? なんで……!!」


 咄嗟に身体の主導権を奪い返すと、


『身体が……勝手に……』


 譫言のようにそう呟いた彼女の意識が、指の隙間から零れるように薄れていく。


「燔祭の楔が機能していない……なるほど。心が二つあると、そうなるのですね」


 先生は掌の感触を確かめながらそう呟くと、


「ただし、この奇策が使えるのは一度きり。もう逃げ道はありません」


 振りかざした掌上に光柱を、そして左右に銀腕を控えさせながら先生が言う。

 絶望が冷たい手のように心臓を鷲掴み、恐怖に喉が絞められて声も出せない。


『ただ……』


 ぽつりと零れ落ちた言葉に我に返ると、リッカが絞り出すように言葉を紡ぐ。


『……あなたが傷付くのは……見たくない……』


 そう言い残して、彼女の意識は眠るように沈黙した。

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