第28話 神聖語

 立ち昇る白煙の向こうで、先生が掌をこちらへ掲げたまま微笑んだ。


「素晴らしい反応です」


 先生は孫でも褒めるような声でそう言うと、背後のシンシアさんへ視線を移す。


「思ったより早いお目覚めですね。もう少し念を入れておくべきでしたか」


 振り返ると、彼女は対照的に歯を食いしばり、悲しげに先生を見つめ返していた。


「先生……? どういうことですか……?」

「思考を他者へ委ねるということは、生殺与奪の権を手放すに等しい行為です。お伝えしたでしょう? 危機的状況を生き抜くためには、考える力が必要だ――と」


 先生は言いながら双眸に指を添えると、噛み締めるようにゆっくりと瞼を伏せる。


「何故なら、窮地とは往々にして理外にあるものだからです」


 再び開かれたその瞳には、金色に灯る五枚の開花聖痕が浮かんでいた。

 その光景に、渓流での記憶がフラッシュバックする。


「仮面の……征伐師……!?」


 そう呟きながら、しかし自分の言葉に現実味が伴わない。今回の事件を引き起こした容疑者と、あの優しい先生の姿がどうしても結びつかなかった。

 また何かの試験だろうか、と益体もない考えが脳裏を駆け巡る。しかしそんな願望は、彼我の間を包む、突けば破裂しそうなほど張り詰めた空気に打ち砕かれた。


「先生が……やったんですか……?」


 懇願するように言葉を零す。どうか否定して、悪い冗談だと笑い飛ばして欲しい。しかし彼は対岸の火事でも見るように微笑みを浮かべたまま口を噤んでいる。


「どうして……こんなことを……!!」


 これは現実だと、俺たちの関係はとっくに破綻しているのだと、心の底で直感していた。しかしそれを認めたくなくて、八つ当たりするように言葉を荒らげる。


「理由ですか。そうですね……強いて言えば知的好奇心でしょうか」


 しかし先生はこちらの訴えなど意にも介さぬ様子で、核心を避けた口ぶりを続ける。尚も食い下がろうとした次の瞬間、心の中からこちらを呼ぶが生まれた。


『ナツさん。先生に悟られないように聞いてください。理由はどうあれ、彼が敵対したのは事実です。実力差は歴然――この場を乗り切るには、シンシアを解放するしかありません』


 その言葉は熱くなった思考を冷水のように打ち、僅かながらの冷静さを取り戻す。


『けど……一体どうやって……』

『方法はまだ分かりません。ですから今は少しでも時間と情報が欲しいです。ナツさんは可能な限りそのまま会話を引き延ばしてください』


 改めて先生へ視線を戻す。彼は背中へ手を回したまま何かを仕掛けてくる様子はない。彼とは訓練を通して何度も手合わせしたが、終ぞ彼が本気を見せることはなかった。しかし彼がその気になれば、俺など赤子の手を捻るように始末できるだろう。

 だとすれば、それ以外に目的があるということだ。


「シンシアさんに……何をしたんですか……?」

「ご心配なく、彼女は無事です。ですが、余計なことは考えないほうが良いですよ?」


 そう言って掲げた指を軽く揺らすと、背後でシンシアさんが苦しげに息を吐いた。彼女は首を押さえて浅く反ったまま、打ち揚げられた魚のように口を開閉している。

 咄嗟に駆け寄ると、目を見開いたまま声にならぬ声を漏らす彼女の顔から、見る見るうちに血の気が引いていく。まるで見えない手に首を絞められているようだ。


 悶え苦しむ彼女を前に狼狽していると、風船が割れるように彼女は息を吹き返した。ぐったりと顔を伏せて、口端から涎を垂らしながら荒く呼吸を繰り返す。


「リッカさんのサポートもあるかと思いますが、時間を稼ぐというのは正しい判断です。そしてシンシアさんの救出を目指すのも最善と言えるでしょう。良いコンビになりましたね」


 そう言って微笑む先生は、恐ろしいほどに普段通りだ。

 一緒に食事を取りながら談笑したときも、シンシアさんを締め上げたときも、その様子に一切の変化が見られない。

 その刹那、今更ながら気付く。先生の開花聖痕は五枚――つまり彼の感情は以前のリッカと同じように、ひとつしか残されていない。


 そしてそれは恐らく、喜怒哀楽愛憎の――喜。

 彼は変わらないのではなく――変われないのだ。


 先生の柔らかな微笑みが、今は張り付いた仮面のように見える。


「正解のささやかな褒美として、先の質問にお答えしましょう。これは私のもうひとつのセフィラが生み出す聖霊術。荘厳開花ティファレト・キャスト――燔祭の楔イテッド・ハオーラ


 そう言って手を掲げると、先生の掌上に光の柱が顕現する。


「今の彼女の心には、神の言葉――理性や本能すら差し置いてでも優先すべき使命が打ち込まれています。そしてその言葉を代弁するのは、私。呼吸を止めろと言えば、彼女は命に代えてもそれを遵守するでしょう」


 絶対遵守の聖霊術――その異質さに背筋が凍る。

 つまりあれを打ち込まれれば、その時点で生殺与奪の権を握られるようなものだ。形こそ違えど、ある意味シンシアさんの矢より恐ろしい必殺の術と言えるだろう。


「ですが安心してください。今、彼女に課している使命は聖霊術の使用禁止だけです。大人しく協力していただければ、お二人に危害は加えないと約束しましょう」

「協力……?」


 呟くこちらに対して、先生は浅く両腕を開きながら歩みを寄せる。


「ええ、ナツさんにしかできないことです」


 彼はこちらの横を通り過ぎ、無防備な背中を晒しながら壁際まで進んでいく。他が衝撃的過ぎて気付かなかったが、入り口から見て奥の壁は他と材質が異なるようだ。

 その既視感に思い至るより先に、先生が手元の装置を起動したことで正体が判明する。壁一面に浮かんだ光の文字を見た瞬間、頭部を殴られたような衝撃に襲われた。


「ナツさんには、この神聖語を翻訳していただきたいのです」


 ――神聖語。前有史時代に使われていた禁忌の文字。


「何を……? ナツ君に神聖語が読める訳が……」


 シンシアさんの言葉がやけに遠くから聞こえて、鐘の音のように脳裏を木霊する。


 ――ありえない。どうしてこれがこんな場所に?


「何を言って……いるんですか……?」


 俺は目の前の事実を拒絶するように、否定の言葉を零す。


 ――違う。そんなはずがない。何かの間違いだ。


「これは……神聖語なんかじゃ……ありません」


 俺は口元を震わせながら、縋るように言葉を零す。


「これは……日本語です」


 背後でシンシアさんが息を呑み、心中では流石のリッカも困惑の色を浮かべている。しかし先生だけが冷静に、獲物を捕らえた獣のように笑みを深めていた。


「どうして……日本のものが、この世界に……?」

「それは……これを読んでいただければ分かるでしょう」


 そう促されて、改めてモニターの文章へ視線を向ける。どうやらこれは手記のようだ。闘病期間を含めれば約二年ぶり――懐かしさすら覚える日本語を読み上げる。

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