第24話 後悔

「――付け焼刃って言うんだよ」


 今度はこちらが瞠目する番だった。咄嗟に後方へ跳躍すると、彼女はそれをあっさりと見逃した。束の間の硬直――再び視線が交差し、背筋に冷や汗が流れる。


 無論、一撃でどこうできるとは思っていない。

 しかしこうも簡単に対処されるとも、正直思っていなかった。どうやら彼我の実力は想像以上に隔たりがあるらしい。無意識に眉根を寄せるが、こちらの動揺をよそにシンシアさんはどこか悲しげに目を伏せる。


「この世界はね……努力だけで生き残れるほど甘くはないの」


 その言葉と共に再び弓が引かれる。

 しかし先ほどまでとは違い、その穂先が狙うのは――空だ。

 天を示す弓の引分けが完了すると同時、上空に無数の玉響が顕現する。


終天開花ネツァク・キャスト――木漏れ日のクリパスキュラ・レイズ


 逆行する流星のように撃ち上げられた矢が玉響に触れた瞬間、矢がまるで鏡に写されたように分裂した。矢は次々と玉響に反射・分裂を繰り返し、ねずみ算式に増えたそれは数秒で空を覆い尽くした。

 それは例えるならば――死の弾幕。


『ナツさん』


 絶望と忘我の裡にあった意識が、リッカの静かな声に呼び戻される。半ば無意識に両脚へ霊力を集めると同時、天を覆う穂先が――射出された。

 一斉に降り注ぐ矢はまさに、光の雨だ。今までのような点ではなく面で制圧する拡散射撃に対して、両脚の昇華を駆使した二連続の跳躍によって回避を試みる。


 しかし完全な回避は叶わず、脇腹と片足を射貫かれる。拡散によって一発あたりの威力は低減しているようだが、それでも針金が貫通したような鋭い痛みが走った。

 体勢が崩れたことで着地に失敗し、無様に地面を転がるが――痛みに呻く暇もない。こめかみを撫でるような悪寒に対してノールックで右腕の昇華を振るう。


 焼け石に水をかけたような蒸発音と腕を伝う衝撃で、矢を打ち落としたことを直感する。今の回避は技術ではなく勘によるもの。単純に運が良かっただけだ。

 焦る心を必死に抑えながら、矢が飛来した方向――燻る白煙の奥へ視線を向けるが、そこには閑散とした地面だけが広がっていた。疑問が去来すると同時、背後から砂を削る音が響く。


 咄嗟に振り返る間もなく、脇腹にシンシアさんの回し蹴りが突き刺さる。

 肋骨が悲鳴のような軋みを上げ、肺から空気が絞り出される。

 糸の切れた人形のように吹き飛ばされ、地面に全身打たれながら数メートルほど転がってようやく止まる。


 全身を襲う灼けるような痛み。涙で歪んだ視界は明滅し、呼吸すらままならない。芋虫のように身体を丸めて蹲りながら、自分の意志とは裏腹に、思考が走馬灯のように駆け巡る。


 気配を一切感じなかったのは、意図的に聖霊術を発動しなかったからだろう。霊響に対して過敏になっているからこそ、かえってそれを伴わない動きには鈍感になる。


 聖霊術を隠れ蓑にした体術。

 言われてみれば単純な手だが、その一手が増えるだけで戦略の幅は格段に増える。

 自分のような素人では、その全てに対応することは不可能だ。


 ――勝てない。

 実感を伴う予感が、確信となって脳裏を支配する。

 俺はシンシアさんに喰らい付くことはおろか、影を踏むことすら叶わない。


「これで分かったでしょう。理想だけじゃ……現実は変わらない」


 朦朧とした意識の中に、子守歌のような優しい声が響く。


「逃げることは決して悪じゃない。ナツ君だって傷付いたり、大切なものを失ったりするのは嫌でしょう? 君は十分すぎるほど頑張ったわ。もう……戦う必要なんてないんだよ」


 それは甘い蜜のように心に染み渡り、意識を柔らかなまどろみへ誘い込む。

 きっとこの先には幸せな夢が広がっているのだろう。

 俺をずっと支えてくれた、優しい夢が。


「……戦うのも、傷付くのも……。失うのも……嫌だ――」


 俺は譫言のようにそう呟くと、内心で誰にともなく言葉を続ける。


 ――ありがとう。

 

 だけど、幸せな夢は……もう見飽きた。


 どんなに辛くても、俺が生きたいのは――現実だから。


「嫌だ……けど、後悔を抱えたまま死んだように生きるのは……もっと嫌だ。全てを諦め、救われるのを祈るだけの日々じゃ……あの頃と変わらない」


 忘れていた――どうして、もう一度生きたいと願ったのか。


「俺にとって……生きることは――」


「――後悔しないことだ」


 血液をふり絞るように身体を引き起こし、薄れゆく意識を鼓舞するように言葉を紡ぐ。


「例え傷付いても、失っても、それで大切なものを守れたら。後悔さえしなければ……生きていてよかったと思えるから。だから俺は――戦います」


 その言葉に、シンシアさんは強く歯噛みすると、


「その気持ちだってッ……死んだら元も子もない!! 皆そう言って、理想を追いかけたまま……帰ってこなかった。残された人のことなんて考えないで……ッ!!」


 絶叫するように言葉を吐き出しながら、八つ当たりするように弓を引いた。

 もう、こちらに避ける気力は残っていない。我武者羅に放たれた矢が肌を削り、容赦なく身体に突き立てられていく。それでも意識が続く限り、何度でも立ち上がる。


「やめて!! もう……諦めてよ!!」


 シンシアさんは震える指で弓を引き、両目いっぱいに涙を溜めながら言葉を呟く。


「ずっと……ずっと……止められなかったことを……後悔し続けた……」


 目の前に揺れる穂先が迫り、あと一歩というところで、糸が切れたように力が抜けた。膝から崩れ落ちた身体を、温かいものが包み込む。


「もう……大切な人を……失いたくないだけなのに……」


 抱きしめられていると気付くまでに、どれくらい時間がかかっただろう。


『ありがとうございます……ナツさん』


 朧げな意識の中に声が生まれた次の瞬間、身体が浮遊感に包まれる。


「……大きくなりましたね、シンシア」

「リッカ……ちゃん……?」


 顔を上げた彼女の頭に、リッカはそっと手を添えると――優しく撫でる。


「この十年、貴女がどんな気持ちで過ごしてきたか、私には想像もつきません。私のことも里のことも――ひとりで受け止めさせてしまいました」


 淡々と話すリッカは相変わらず無表情だが、不思議と冷たい印象は受けなかった。

 彼女は薄氷を摘まむように言葉を選び、ゆっくりと――溶けてしまわぬように――紡いでいく。


「だからせめて、今度こそ――貴方の側にいさせてください」


 その言葉を皮切りに、シンシアさんの瞳から涙が溢れて頬を伝う。彼女は俯いてリッカの服を握りしめると、肩を震わせながら言葉を零していく。


「……ズルいよ、リッカちゃん……」


 時間が止まったような冷たい空気に、ひとつの嗚咽が木霊する。

 どれくらいの間そうしていただろうか。いつの間にか静まり返っていた広場に、ぽつりと言葉が生まれた。


「ごめんね……もう平気」


 シンシアさんはそう言って身体を離すと、腫れた目を擦りながら言葉を続ける。


「ナツくんは……大丈夫?」


 こちらへ意識を向けたリッカと心の中でコンタクトを取ると、無言のまま主導権が入れ替わる。身体には痺れが残っているものの痛みはほとんどなく、意識もはっきりしていた。

 俺は咄嗟に返す言葉が見当たらず、話の接ぎ穂を失って口を噤んでしまう。

 そんなこちらの様子に、彼女は浅く目を伏せて小さく息を吐くと、


「折れなかった……君の勝ち」


 そう言って、眉尻を下げながら淡く微笑んだ。

 俺は未だ返す言葉が見当たらず、心のままに深く、頭を下げることしかできなかった。シンシアさんはもう一度笑みを浮かべると、踵を返して広場を後にした。


 遠ざかる足音に対して、近づく足音が二つ。

 振り返ると、里長と先生が対照的な顔を浮かべていた。


「心は決まったようだな」

「――はい」


 どこか覚悟を決めたような里長に、俺は首肯と言葉を返す。今回も多くの人に支えられてここまでこれた。しかし最後の決め手となったのは里長の言葉だった。

 だからこそ俺ができる恩返しは、ただひとつ。己の心を信じることだ。


「やはり……よく似ている」


 里長は懐かしむように目を伏せると「これを」と言って、風呂敷包みを差し出した。

 包みを解くと、そこに仕舞われていたのは、折り畳まれた服だった。黒地に銀の装飾、胸元に徽章のついたそれは、シンシアさんが着ている制服とよく似ていた。


「教会の制服を仕立て直してもらった。軽量かつ頑丈――やや旧式だが、虚殻との戦いを想定された造りになっている。少なからず生存率に貢献してくれるはずだ」

「もしかして……お孫さんの……?」


 疑問はすぐに確信へと変わった。里長はおもむろに首肯すると、


「ワシは十年前の選択を、里長として正しいものだったと確信している。だが同時に……」


 心の底に秘めていた罪を告解するように言葉を零していく。


「この十年間……後悔しなかった日はない。あの時里へ戻っていれば、少しでも家族のそばにいてやれたら、違った未来があったかも知れない……と」


 遠く悲しげな眼をしていた里長は、未練を断ち切るように今へ視線を戻すと、


「だからお主は、後悔しないように――真っ直ぐに生きろ」


 そう言って踵を返した背中を、俺は思わず呼び止める。里長の後悔を推し量ることはできないし、他人が踏み込むべきではないのかも知れない。


「俺には……お孫さんの気持ちは分かりません。けど……」


 けれど、彼の過去が全て間違いだったかと言われれば、それは違うと思う。


「俺が同じ立場だったら、里長に信じてもらえたこと――きっと誇らしかったと思います」

「……ありがとう」


 里長は背を向けたまま空を仰ぐと、ややあってから絞り出すようにそう呟いた。彼の背中を見送ると、程なくして背後から「お疲れ様です」と声がかかる。


「先生……ありがとうございました。先生のおかげです」

「努力したのも、選択したのも、そして答えを掴み取ったのも――貴方たちです」


 彼はそう言って、何かを見透かすように目を細めながら言葉を続けた。


「……不安ですか?」


 その言葉に、この人には本当に何もかもお見通しなのか――と思わず苦笑いを浮かべる。


「決めたことに後悔はありません。ですがやっぱり……怖いです。自分のしたことは本当に正しかったのか……って。里長やシンシアさんの言う現実の残酷さも、きっと真実ですから」

「それで良いと思います。信じることと迷うことは、正反対のようで矛盾しません」


 その言葉に視線を上げると、遠くを見つめる先生の横顔から、ふと笑みが消えた。


「かくいう私も、いつだって自問の連続です。私の進んでいる道は本当に正しいのか……と」


 しかしそれも束の間、先生はいつもの柔和な笑みを浮かべながら言葉を続ける。


「迷うということは、それだけ貴方が進もうとしているということですから、どうか存分に迷ってください。私もこの道を選んだ以上、最後まで――見届けます」


 そう言い残すと先生も踵を返し、閑散とした広場にひとり残される。

 俺も後を追おうとしたが、正直立っているだけでも限界だったので、地面に身体を投げ出して空を仰ぐ。


 いや、正確には独りではない。

 そう言えばまだ肝心な人に礼を言っていなかった。


「リッカも……ありがとな。あのとき背中を押してくれなかったら、俺は、きっと折れていたと思う。それに結局……俺じゃシンシアさんを説得できなかったから」

『もし私の言葉が届いたのなら、それは貴方が諦めなかったおかげです』

「……そっか。少しでも力になれたなら……良かったよ」


 そう呟きながら傷だらけの手を空へかざすと、


「何というか……こっちの世界に来てから、お礼を言ってばっかりだ。けど、それくらい助けられているってことだよな。だから――」


 何かを掴み取るように拳を握りながら言葉を続ける。


「今度は、俺が返す番だ」

『……そうですね。明日で……全て終わります。私たちも……きっと――』


 ややあってから呟かれた言葉の意味を、そのときの俺は深く考えていなかった。

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