第22話 選択

 翌日――試験が行われたのは、鶏も眠る早朝だった。

 場所は里の外れにある小さな空き地。俺たちが辿り着くと、そこには既に里長とシンシアさんの姿があった。こちらに気付いた二人が会話を止めると、シンシアさんがおもむろに前へ進み出る。


 俺が隣に立つ先生を一瞥すると、彼は柔和な笑みを浮かべてひとつ頷いた。

 それに頷きを返し、こちらも彼女へ向かって足を踏み出す。数メートルの距離を空けて示し合わせたように足を止めると、僅かな間をおいて彼女が口を開く。


「ナツ君……昨日の答えを聞かせて」


 その言葉には落ち着いた立ち居振る舞いとは裏腹に、矢のように鋭い意志を孕んでいた。俺は萎縮する心を奮い立たせるように深く息を吸うと、意を決して言葉を返す。


「……里長から話は聞きましたよね? 皆、疎開に同意してくれました。里を諦めれば、少なくとも皆の命は助かります。それでも、一緒に逃げるつもりはないんですか?」


 それは、己の裡にいるリッカへ向けた言葉でもあった。


「里が大切なことは分かっているつもりです。でも命があれば……生きてさえいれば――」

「本当に大切なのはばしょじゃない。皆が手放そうとしているのは、希望だよ」


 彼女はこちらが言い終えるのを待たずに、浅く目を伏せながらそう言った。


「皆が里に残っていたのは、大切な人たちが帰る場所を守るため。どんなに生存は絶望的だと言われても、微かな希望を信じて生きてきた。けれど里を手放すということは、それすら諦めてしまうということ。確かに命は助かるかもしれない……けど、それは本当に生きているって言えるのかな?」


 悲し気に投げかけられた言葉が、鉤のように重く胸を掻く。

 命はあっても生きてはいない。

 それはまさしく、かつての自分を指す言葉だった。希望のない世界で生きるのは辛い。それこそ、自ら死を選びたくなってしまうほどに。


「ねぇ……ナツ君。君にとって、生きるってどういうこと?」

「俺にとって……生きること……?」


 無意識にシンシアさんの言葉を反芻する。自分はかつて不治の病におかされ、病床に伏せる中で、同じ自問を数えきれないほど繰り返した。

 心臓は動き、呼吸もできている。しかし何も生み出せず、何も得られない。

 ただただ無為に時間を浪費するだけの生――それは死よりも無意味だと思っていた。ならば何故自分は生きているのか?


 ――生とは何か?


 そんな疑問を抱いていたことすら、病を克服した喜びで忘れてしまっていた。そんな浅はかな自分とは裏腹に、シンシアさんは宣誓のように胸の内を明かす。


「私にとって生きることは、大切な人と共に在ること。だから……私は戦う。皆が諦めても、たった独りでも。それが、私の生き方だから」


 痛いほどに真っ直ぐな言葉が心を抉る。彼女の正義は眩しいほどに正しくて、こちらの軽薄な影を暴かれたような気がして、それ以上反論することはできなかった。


「だったらせめて……俺も一緒に戦わせてください」


 そんな言葉が生まれたのは、精一杯の抵抗。いや――保身だったのかもしれない。

 縋るようなこちらの視線を受けて、彼女は憐れむように眉尻を下げた。


「……どうして? 君は、何のために戦うの?」

「それは……皆が……」


 何を言っても嘘になる気がして、続く言葉を口にすることができなかった。


「……やっぱり、君を連れていくことはできない」

「そんな、手合わせしてもいないのに――」


 半ば意地になって食い下がるが、彼女は小さく頭を振ると窘めるように口を開く。


「戦う以前の問題だよ。今の君からは意思が感じられない。君は今、誰かの想いを代弁して、誰かの望みに追従しているだけ。君が今そこに立っているのは、本当に自分の意志?」


 それは、自分でさえ気付かなかった深層心理。他人に指摘されたからこそ、それが正鵠を射ていることが、痛いほどによく分かった。

 今の自分は、全てが中途半端で、他者に依存している。頭で考えていても心が伴っておらず、どうすべきか以前に、自分がどうしたいかさえ分かっていない。


 そんな心の奥底の迷い。人としての浮薄を見透かされている。

 けれどやっぱり、自分がどうしたいかなんて――正解なんて分からない。


 里を捨ててでも皆を守ろうとする里長。皆の希望を守ろうとするシンシアさん。父の遺志を継ごうとするリッカ。

 それぞれの想いは噛み合わなくても、きっとそのどれもが正しい。

 どれも正しいなら、俺はどうすればいい?


「……なんて、言葉で言われても納得なんてできないよね。今は納得も、理解も、共感もしなくていい。それに約束だから、試験も君の気が済むまで受けるつもり」


 そう言って深く息を吐きながら目を伏せ、ややあってからおもむろに瞼を持ち上げた彼女の表情は、氷のように鋭く無慈悲なものに変貌していた。


「だから……ごめんね」


 そう言葉を残して浅く膝を曲げた次の瞬間、彼女の姿が視界から消えた。右方から聞こえた砂を削る音に振り返ると、眼前で美しい金髪が躍った。

 直後、腹部を襲う衝撃と共に、視界が前方へ吹き飛んだ。骨が軋む音と共に肺から空気が押し出され、地面に身体を打ち付けながら数メートルほど転がる。


 痙攣する横隔膜を押さえつけながら、必死に浅い呼吸を繰り返す。

 しかし痛みに悶える暇すらない。歪む視界の中、こちらへ掲げられたシンシアさんの掌中に蛍色の輝きが収束し、幽玄の弓矢が番えられる。


 まさか――という淡い期待は、視線が交差した瞬間に打ち砕かれる。

 その瞳からは普段の優しい光が消え、鋭い闇を湛えていた。

 悪寒が背筋を走るよりも早く放たれた光の矢が、右の太腿を撃ち抜くと、焼き鏝を押し当てられたような熱と激痛が走った。


 噛み締めた歯の隙間から絶叫が漏れ、反射的に患部へ手を押し当てる。

 以前に見た虚殻のように風穴を開けられたと思いきや、どういう訳か肉体的な損傷は無いらしい。しかし射貫かれた足は未だに痺れるような激痛と共に痙攣し、まともに動くことは叶わない。


「これが実戦だったら、今ので君は死んだよ」


 地面に頬を擦りながら視線を上げると、シンシアさんは突き放すようにそう呟いた。彼女はこちらを見据えてはいるが、弓を持つ手は下げたまま追撃する気配はない。


 彼女の真意は分からないが――これは試験だ。

 このままでは不合格と見なされるのは間違いないだろう。

 俺は射貫かれた足を引きずるようにして何とか立ち上がると――


「あとは君が立ち上がるたびに、これを繰り返す」


 ――肩口と左足、続けざまに二発の矢が身体を貫く。

 折り重なる激痛の波濤が容赦なく意識を刈り取ろうとする。

 脳裏を揺さぶるほどの警鐘に視界が明滅し、痛みから逃げようと薄れゆく意識の中に、シンシアさんの声が遠く響いた。


「君は優しすぎる。皆の考えを尊重して、全員が幸せになる未来を望んでいる。だけど……それは叶わない。全てを救うことは出来ない……残酷だけど、それが現実なの。術師は常に犠牲と隣り合わせ。失う覚悟がない者に戦場に立つ資格はないわ」


 ――犠牲。


 脳裏にシンシアさんの声が木霊する。

 虚殻との戦いで俺は記憶を、そしてリッカは心を失った。


 ――俺は……間違っていたのか?


 これが覚悟もないまま戦場へ立った代償なのだろうか。

 力を持たぬまま蛮勇に酔い、あげく他人まで巻き込んだ愚か者への戒めなのだろうか。だとしたら、俺がしたことは……


 ――俺の選択は……間違っていた――


『――本当にそう思いますか?』


 暗闇の中に生まれたのは、静かな声。

 それは一筋の光のように、薄れかけた意識を呼び起こす。


『あの戦いで、私たちは大切なものを失いました。それを悲しみ、怯えるのは当然……ですが悲しむことと後悔することは違います。貴方は今、失ったものしか見えていません。思い出してください……私たちは失った代わりに、守り抜いたものもあるはずです』


 リッカは淡々と――しかし諭すように、そして祈るように――言葉を紡いでいく。


『私や里長が虚殻の前に倒れた時、貴方は戦うことを選びました。それは誰に頼まれた訳でもなかったはず。貴方はあの時、何のために立ち向かったのですか?』


 ――何故、戦うことを選んだのか?

 彼女の問いが、鐘のように脳裏を反響する。

 その答えは、自分でも驚くほどすんなりと手中に落ちてきた。


 それは正義感のような利他的な感情ではなく、純粋な予感だった。

 俺はただ、あのとき二人を見殺しにしたら、一生後悔すると思ったのだ。


『その結果、あなたは後悔しているのですか? 里長と私を守ろうとしたことを』


 リッカの言葉を、今一度――己に問う。

 ――俺は、あの選択を後悔しているのか?


 彼女は人としての根幹とも呼べる心を失い、俺は心の拠り所である思い出を失った。それはきっと最善の結果ではなかった。けど――


 ――あの時の気持ちに、後悔はない。

 

 鈍い音と痛みが走り、意識が現実へ引き戻される。

 ぼやけた視界では、無意識に地面へ打ち付けられた拳から血が滲んでいた。か細い意識の糸を手繰り寄せるように、腹の底から咆哮を漏らしながら身体を引き起こす。

 全身を襲う痛みは尽きず、意識も朦朧としている。しかし、もう迷いはなかった。


「最後は……従え……」


 右腕に巻かれた包帯を外しながら、知らず口をついたのは――里長の言葉。


「自分の――心に!!」


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