第21話 自分の心に

 気が付くと、俺は暗闇の中にいた。

 視界は漆黒に塗り潰されており、自分が目を開けているのかさえ分からない。


 ――ここは……どこだ……?


 朧げな意識を巡らせるが、まるで靄がかかったように思考が整然としない。

夢現のまま揺蕩う意識に身を任せていると、どこからか電子音が響いてきた。


 秒針のように規則的な音と共に、消毒剤の臭いがツンと鼻腔を刺す。

 ここが病室だと気付いた瞬間、全身に怖気が走った。

 咄嗟に身体を起こそうとするが、意識が肉体と切り離されたように動けない。


 ――誰か……!!


 声も出せずにもがいていると、電子音に聞き慣れない異音が混じっていることに気付く。ぐじゅ……ぶちゅ……という水音の混じった不快な音と共に、腰のあたりに痛痒いような不気味な感触が走る。


 足元へ目を向けると、そこには二つの肉塊があった。無数の人体を無造作に繋ぎ合わせたような肉塊が、這いつくばるように蠢いている。その口元は地面をねぶるように爬行し、散乱したもうひとつの肉塊を貪っている。


 見下ろす視界に映るのは――己の胸と、腹、腰、そして肉塊。所々に白が混じる赤黒く湿ったそれは、己の下半身があるはずの場所に散らばっている。


 こちらに気付いた異形が面を上げて嗤うと、吊り上がった口端から肉片が零れ落ちた。


――――

――


 声にならない絶叫と共に身体を跳ね起こすと、打ち揚げられた魚のように酸素を求めてベッドから転がり落ち、己の生存を確かめるように冷たい空気を必死に肺へ送る。


 次第に現実が輪郭を帯び、あれが悪夢だと認識したことで、ようやく少しだけ落ち着きを取り戻した。脂汗を手の甲で拭うと、目尻から一筋の雫が零れていることに気付く。


『……大丈夫ですか?』


 ナイトテーブルに手をついてよろよろと立ち上がると、胸中から控えめな声が生まれた。


「ああ……ごめん、起こしちゃったか?」

『いえ、目は醒めていたのでお気になさらず。それより、こちらこそすみません。大分魘されていたようだったので、起こすか迷ったのですが』

「……大丈夫。ただの夢だから」


 自分に言い聞かせるようにそう呟きながら、壁に背を預けて深呼吸をする。

 虚殻に襲われて以来、同じ悪夢を繰り返し見るようになった。

 以前からベッドで眠るのは闘病生活を思い出すため拒否感があったが、今は輪をかけて深刻になっている。


 この影響で近頃まともに熟睡できず、精神的にも肉体的にも負荷がかかっている。訓練の疲労で気絶するように眠れば、ある程度避けることができるため、逃げるように訓練に打ち込んでいたのだが、今日は最終日ということで軽かったせいか、より鮮明に悪夢を見てしまった。


 その上、開花で記憶を失ったことが悪影響を及ぼしている。以前は闘病生活の中で唯一の救いだった両親との思い出があった……はずだが、今はそれが欠落している。

 地獄のような闘病生活さえ乗り越えた心の支え。縋るものが、今の自分にはない。


 テーブルの時計を見ると、まだ日付が変わる前だった。今から再び眠る気にもなれないため、寝巻のまま部屋を出て玄関へ向かうと、リッカが『夜は冷えますよ』と呟いた。


「少しだけ……夜風に当たらせてくれ」

『……分かりました。リビングにストールがあるので、せめてそれを羽織って下さい』


 リッカの気遣いに感謝しつつ厚手のストールを羽織ると、心地よい手触りと石鹼の香りが少しだけ心を軽くしてくれた。改めて靴を履いて外に出ると、静寂に包まれた夜陰が冷たく肌を刺す。確かに防寒なしでは風邪をひいていたかもしれない。


『最近……よく眠れていないようですが』


 遠慮がちなリッカの言葉に、深く息を吐きながら頷きを返す。


「眠るのが……怖いんだ。目が覚めたら、また病院のベッドに戻っている気がして」


 そう言って掌上へ視線を落とすと、感触を確かめるように拳を作る。


「痛みが消えて身体が動くようになったと思ったら、夢だったことがある。背中の筋肉が腐る悪夢を見たと思ったら、現実だったこともある。だから、たまに思うんだ……この世界も命も全部、ただの夢なんじゃないかって」


 ずっと胸の奥にこびり付いていた不安。言葉にしたら現実になってしまう気がして、恐る恐る口にする。息が詰まるような静寂の後、リッカがおもむろに言葉を零す。


『あなたは……生きていますよ。頬を抓ってあげることはできませんが』


 意外な言葉に呆気に取られながら、その意味を考える。もしかして、彼女なりの冗談だったのだろうか。そう思うと、自然と微笑みが溢れた。

 目を伏せて深く息を吸うと、澄んだ空気が肺を満たす。先ほどまでは冷たく感じた夜風も、今は涼風のように心地よい。自分が今、ここに生きているという実感が湧いてくる。


「……そうだよな。……うん。生きてて……良かった」


 遠く夜空を望みながら、噛み締めるようにそう呟く。

吸い込まれそうな漆黒の夜空には、数多の星が宝石のように散りばめられていた。


 そう言えばこちらの世界へ来てから、こうしてゆっくりと空を見るのは初めてだ。回りの環境は一変しても、月と星はこうして変わらず輝いている。

 その刹那、首筋を撫でるような違和感を覚えた。

 その正体が手中に落ちかけた次の瞬間――背後から聞こえた足音に振り返る。


「……眠れないのか?」


 そう呟いたのは、厚手のコートに身を包み、ランプを下げた里長だった。慌てて会釈をしつつ頷きを返すと、彼は逡巡するように息を吐いた。

 燻る白煙越しに視線が交差する。ややあってから里長は浅く目を伏せると、コートを脱いでこちらの肩にかけながら言葉を続ける。


「……ついてきなさい」


 踵を返した里長の後に続いて、戸惑いながらも歩みを進める。里外れから崖上へ続く坂道を登りきると、彼は崖に向かって並んだベンチのひとつに腰かけた。


 こちらもそれに倣って隣に座る。以前も同じように並んで里を一望したが、その時とは色んな意味で景色が一変していた。

 里はまるでぽっかりと空いた穴のような暗夜に覆われており、その中心には御柱の光が薄ぼんやりと浮かんでいる。以前は月のように煌煌と輝いていた御柱が、今はまるで風前の灯火だ。御柱の寿命が、今まさに尽きようとしている。


「御柱が……」

「……ああ。だが、代わりに見えるようになったものもある」


 そう言って里長が指さした先へ目を凝らすと、御柱から少し離れた暗闇の中に、小さなオレンジ色の明かりが散見されることに気付く。


「あれは……ランプの灯ですか?」


 ベンチの脇に置かれた同色の火を見ながらそう言うと、里長はひとつ頷きながら答える。


「御招霊の迎え火。ああやって家の前に火を吊るすことで、死者の魂を迎え入れて供養し冥福を祈る行事だ。十年前の事件では住民の殆どが死亡ではなく行方不不明だったからな。愛する者の死を認めたくなくて、暗黙のうちにずっと中止されていたのだ」


 その言葉に、改めて里に揺れる灯を見つめる。

 どこか怪しさを湛えた幻想的な光は、言われてみれば魂のようにも見えてくる。

 死者の魂を供養する行事――それが今になって再開されるということは、住民たちに心境の変化があったということだろうか。


「……里は大切だ。だが……お主たちの命と天秤にかけられるものではない」

「もしかして……」


 予感を口端から零すと、里長がひとつ頷きながら言葉を続ける。


「里の者たちは皆、疎開に同意してくれた。未練に縋るあまり、これまで多くの者に迷惑をかけてきたからな。これはワシらなりの……ケジメだ」

「そう……ですか……」


 里を脱出すれば、少なくとも皆の命は助かるはずだ。そのことを喜ぶべきか、それとも里が放棄されたこと悲しむべきか分からず、思わず言葉を濁してしまう。


「だが……それでもシンシアは、きっと独りでも戦うと言うだろう」


 その言葉にハッとする。確かにシンシアさんは、里を放棄することに反対していた。自分たちのために放棄したと知ったら、彼女は迷わず遺跡へ向かうだろう。

 つまり、どうあっても虚殻との戦いは避けられないということだ。


「……お主はどうする?」


 我に返って隣を振り返ると、里長はこちらを一瞥したまま口を引き結んでいた。

 俺は咄嗟に俯いて目を逸らすと、懺悔するように言葉を零す。


「……分かりません。何度考えても……分からないんです。誰のために、何をするべきなのか……何が正解なのか。どれを選んでも、何かが犠牲になる気がして……」


 やっとのことでそう言い終えると、ややあってから里長がぽつりと呟いた。


「お主を見ていると、孫を思い出す」


 その言葉に顔を上げると、彼は迎え火を瞳に灯しながら言葉を続けた。


「誰よりも臆病で、努力家で、優しい子。亡き父の背を追って術師になり、いつも戦う意味を考えているような子だった」


 里長は独り言ちるようにそう呟くと、浅く目を伏せながら言葉を続ける。


「十年前……里が襲われたとき、ワシは避難誘導の指揮を執った。戦える者を集めて防衛線を張り、住民たちが逃げる時間を稼ぐよう指示をしたのだ。そして……」


 里長は短く句切ると「その中には孫もいた」と、苦虫を嚙み潰すように呟いた。


「怖かったはずなのに、率先して引き受けてくれた。ワシは孫を信じて避難誘導に従事し、里へは戻らなかった。その判断は里長として正しいものだったと確信している。しかし……孫はそのまま帰らず、後になってボロボロの制服だけが見つかった」


 里長はそう言って深く息を吐くと、こちらへ視線を移しながら言葉を続ける。


「今のお主は、ワシによく似ている。他者に多くを望まれ、その全てに応えようともがき苦しみ、誰かのことを考えるあまり自分の気持ちを見失っていた、かつてのワシに」


 ――意外だった。

 いつも毅然とした態度で皆を導く里長に、そんな過去があったなんて。


「他者を想う気持ちは尊いものだ。だが、それに意思を委ねてしまうのは、自分を否定するのと同じこと。辛いときは逃げてもいい……だが、自分の気持ちからは逃げてはいけない」


 俺は里長の視線を真っ直ぐに受け止めながら、彼の言葉を噛み締めるように耳を傾ける。


「お主はこれからも多くの岐路に立たされ、多くの期待を背負い、その重圧に苛まれることもあるだろう。そんな時は大いに悩めばいい。悩むということは、戦っているということだ。悩んで、苦しんで、迷って、それでも諦められなかった願い――」


 静かに、しかしはっきりと呟かれた言葉が、冷たい夜の空気のように体へ染み込んでくる。


「――最後は、自分の心に従え」

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