第19話 星の鳥と連理の枝
風呂から上がり、簡単な食事を取って自室へ戻ろうとしたところで、玄関から扉をノックする音が響いてきた。シンシアさんはまだ帰ってきていないので代わりに対応すると、扉の前に立っていたのは先生だった。先の訓練を思い出して思わず肝が冷える。
「そう身構えないでください」
先生はそう言って薄く苦笑いを浮かべると、柔和に相好を崩しながら続ける。
「少しお手伝いいただきたいのですが、お時間いかがでしょうか?」
断る理由もないので承諾すると、先生の後に続いて夜の街路を進む。十分ほどして彼が足を止めたのは、中央広場から少し離れた位置に佇む教会堂の前だった。
一見すると塔のように細長いシルエットの建築物は、外壁こそひび割れてくすんでいるものの窓にはしっかりとガラスが嵌め込まれており、他の家々のような老朽化は見られない。
先生は大きな正面扉を通り越して裏口へ回ると、懐から取り出した鍵で扉を開ける。恐らく正面扉が参拝用の一般入り口で、こちらは関係者用なのだろう。彼の後に続いて足を踏み入れると、そこには目の覚めるような空間が広がっていた。
向かって左側にはカーペットの敷かれた身廊と、それを挟むように並べられた木製の長椅子があり、右側の一段高くなった内陣には質素な祭壇が置かれている。
そして何より吹き抜けになった天井まで続く高い壁には、精緻な模様のステンドグラスが嵌め込まれており、銀色の月光を受けて万華鏡のように輝いていた。
体の芯から清められるような荘厳さに、思わず感嘆の息が零れる。
「リッカさんにとっては馴染みのある場所ではないですか?」
先生の言葉に意識を胸中へ向けると、程なくしてリッカが言葉を作る。
『この教会は父が管理していたもので、私も幼い頃から礼拝に同行していましたから』
その言葉は自分にしか届いていないはずだが、先生はそれを補足するように言葉を続けた。
「リッカさんのお父上――ナザリオさんは司祭だったのですよ。私が聖都にいた頃、何度か彼の下で仕事をさせていただいたこともあります」
「先生も司祭だったんですか?」
「ええ、私は元々そちらの出身ですから。医者の真似事は数年前にこの里に来てから始めたことなのですよ。最近ではすっかりそちらが本業のようになってしまいましたが。それに……」
先生はそこで短く区切ると、遠くを見るように目を細めながら言葉を続けた。
「……私自身、もう何年も祈りを捧げていませんから」
その言葉がどこか寂しげで、或いは懺悔のように聞こえて――思わず尋ねてしまう。
「どうして……祈らなくなったんですか?」
「私の祈りが、誰が為のものではなくなったから……でしょうか」
先生はステンドグラスを仰いだまま独り言ちるようにそう言うと、ややあってからこちらを振り返り、いつもの微笑みを浮かべながら言葉を続ける。
「この地下には資料や祭具の保管庫がありまして、今は薬品の貯蔵に利用させていただいているのです。ナツさんをお呼びしたのは、それを診療所まで運ぶのを手伝っていただきたく」
先生はそう言って踵を返すと、祭壇の裏にある扉へ移動しながら言葉を続ける。
「地下は暗いですし薬品もあって危ないので、ここで待っていてください。その間、教会の見学でもいかがですか? 特にここのステンドグラスは逸品ですよ」
先生の背中を見送ると、彼の言葉に従ってステンドグラスへ目を向ける。色とりどりのガラスはどれもため息が零れるほど美しいが、その中でも一際目を引くものがあった。
その作品は祭壇の後ろに位置しており、それだけ模様ではなく一枚の絵画になっているようだった。描かれているのは――一羽の鳥だ。H型の枝に止まった純白の鳥には後光が差しており、透過する月の光も相まって本当に輝いているように見えた。
ふと、胸中のリッカからもステンドグラスを注視する気配を感じた。そう言えば、この教会は彼女の親父さんが管理していたと聞いたばかりだ。
「……綺麗だな」
『ええ……父がよく眺めていたのを覚えています』
「こういうのってモチーフがある印象なんだけど、この絵も何か意味とかあるのかな?」
『〝星の鳥と連理の枝〟――それがこのステンドグラスの題名です』
初めて聞く言葉に疑問符を浮かべていると、リッカが律儀に補足をしてくれる。
『聖拝教において鳥は聖霊を、樹は聖命樹を表す神聖なものとされています。そして連理の枝とは、異なる樹の枝が癒着して木目が連なったもので、人と聖霊――異なるもの同士の繋がりを表すものとして特別視されているのです』
その言葉に改めて止まり木を注視する。言われてみればH型の枝というのは珍しい。つまりこれは二本の枝が繋がりあって生まれたものということだろう。込められた意味を知ると、確かに手を繋いでいるようにも見えてくるから不思議だ。
『そして星の鳥。これは聖霊が初めて顕現した際の姿だと言われています。星が司る象徴は――希望。虚殻樹によって窮地に追いやられたとき、人々の前に降り立った聖霊の存在は、まさに希望そのものだったのでしょう』
「……星の鳥って、もしかしてカササギのことか?」
『いえ、鳩だとする説が有力ですが――どうしてカササギだと?』
「前の世界には織姫と彦星……えっと、星を人に見立てた伝説上の恋人なんだけど、その二人を妨げる天の川に、一年に一度だけカササギの橋がかかることで二人は出会えるっていう話があるんだ。けど、言われてみればカササギは白黒の鳥だから違うよな」
『二人にとっての希望の架け橋ということですか。それは……素敵な物語ですね』
噛み締めるように呟かれたリッカの言葉は、どこか空虚で寂しげだった。きっと彼女は素敵だと頭で理解していても、それに心という実感が伴っていない。そんな自分すらも俯瞰で観察できてしまう彼女は、いったいどんな気持ちなのだろうか。
「繋がりと……希望……」
「まるで、お二人のようだと思いませんか?」
その声に振り返ると、台車に木箱を乗せた先生が、いつの間にか背後に立っていた。
確かに状況だけ見れば、俺とリッカの状況は連理の枝に似ているのかも知れない。
しかしこんなに近くにいても、彼女の気持ちを分かってやることすらできない。そんな俺たちの間に、本当の意味での繋がりなんてものは存在しているのだろうか。
「繋がりは言わずもがな、亡くなったと思われていたリッカさんが、こうして戻ってきたのです。それはつまり他の人にも同じことが起こり得るということ。口にはしませんが、シンシアさんや里長、そして私たちにとっても、お二人の存在は一筋の希望なのですよ」
そこでふと疑問が脳裏を過る。先生がこの里に来たのが数年前だとしたら、十年前の事件が起きてからということになる。だとすれば彼がこの里に残る理由は――
「先生は……どうして里に来たんですか?」
そう問いかけると、先生は遠くを見るように目を細めながらぽつりと呟いた。
「……マイナデスを追ってきたのです」
意外な言葉に理解が追い付かずにいると、先生はステンドグラスを見上げたまま「少し昔話をしましょう」と呟き、おもむろに言葉を続けた。
「この国にかつて王都があったことはご存じですか?」
「確か……十五年前、最初に結界が消えて滅んだっていう」
「……ええ。この里より南は禁忌の土地となっていますが、そこはかつて王都が広がり繁栄を極めていました。国王を長とする騎士団が南から統治し、教皇を長とする教会が北から救済する。これら二本の柱によってこの国は支えられていたのです」
そこで短く句切ると、僅かに声のトーンを落としながら言葉を続ける。
「ですがご存じの通り王都は結界が消え、虚殻の軍勢によって一晩にして滅びました。しかし一説によれば、とある虚殻は結界の外ではなく、内側から現れたというのです」
先生は襟元から首にかかった細い鎖を引くと、その先に掛かっていた楕円形の物体――ロケットペンダントを手のひらに乗せてチャームを開いた。
「その虚殻こそ、マイナデス。私の故郷を滅ぼし……娘を奪った存在です」
淡々と放たれたその言葉に愕然とする。いつも穏やかで優しい先生に、そんな壮絶な過去があったなんて思いもしなかった。だとすれば彼が戦う理由は――
「復讐……ですか……?」
思わず無遠慮に尋ねてしまうが、先生は気に障った様子もなく穏やかに言葉を作る。
「虚殻を討伐したところで、娘は帰ってきません。ただ、私は……知りたいのです。何故、娘が犠牲になったのか。どうして娘でなくてはならなかったのかを」
俺が何も言えずにいると、先生はペンダントをしまいながら視線をこちらへ戻す。
「私もかつて、今の貴方たちのように選択を迫られたことがあります。そして、たったひとつの選択が後の人生に大きな影響を与えることもある」
こちらの迷いを見透かすような視線を、奥歯を噛んで真っ直ぐに受け止める。
「私が伝えられるのは手段と選択肢だけ。答えはお二人にしか出すことはできません。ですがすぐに答えを出す必要もありません。悩むのはそれだけ向き合っている証拠ですからね」
先生はそこで短く句切ると、いつもの微笑みを浮かべながら言葉を続ける。
「悩んで、悩んで、悩み抜いて、どうか――悔いのない選択を」
俺はその言葉を心の中で反芻しつつ、決意する。
――残り七日間。
この短い時間で、俺にできることは限られている。ならばせめてその限られたことだけは精一杯やり遂げよう。地獄のような特訓も、耐え抜いてみせよう。
そして自分の意志で道を決められるように、最後の最後まで精一杯悩み抜こうと。
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