第18話 神秘へ至る路

 訓練の内容は、端的に言って――地獄だった。

 いや、訓練どころか一方的に殴られ続けただけと言ったほうが正しい。

 無限に思えるほどの破壊と治癒が繰り返され、日が落ちる頃には指先を動かすことすら苦痛に感じるほど、精神的にも肉体的にも疲弊していた。


 しかし当の先生は汗ひとつかかずに微笑みを浮かべると、死刑宣告のように「また明日」とだけ言い残して帰ってしまった。

 放置された俺は文字通り這うように帰路に着き、本来であれば五分ほどの道のりを三十分近くかけて、ようやくシンシアさんの家へ辿り着いた。


 本当ならすぐにでもベッドに転がり込みたいところだったが、人様の家を汚す訳にもいかないため、リッカが用意してくれた風呂に入り、泥まみれの身体を清めた。


 そして現在、俺は心地よい暗闇の中で思案に耽っている。


 ちなみに今はリッカの入浴タイム。

 ついでだからと彼女も風呂に入ることになった。


 無論、入浴中の相手への干渉は厳禁のため、最も気を遣うタイミングでもある。

 とは言え対策は容易だ。入浴が済むまで感覚共有を閉ざし、相手からの反応を待つだけでいい。ただし聴覚や視覚は無意識に共有してしまうことも多いため、多少注意しておく必要はある。

 だからこうして瞑想するように感覚を内へ向けて思索を巡らせているのだ。


 考え事はもちろん、訓練についてだ。先生は初めから丁寧に教えるつもりはないと言っていたが、まさか実戦に移ってもなお、助言のひとつもないとは思わなかった。

 悪意がないのは分かっている。昨日の特訓がそうだったように、何か意図があってのものなのだろう。だが頭で分かっていても、ここまで一方的だと何の意味があるのかと、理不尽を覚えてしまうのが正直なところだった。

 いや……冷静になれ。思慮深い先生のことだ。

 無意味ということは決してないだろう。


 きっと自分が気付いていないだけで、何かしらの示唆が隠されているはずだ。

 そう自分に言い聞かせながら、改めて彼の発言を思い返す。

 そう言えば、ひとつだけ意味の分からない言葉があった。


 ――我々とはまた違った路から神秘へ至ることでしょう。


 神秘という言葉自体は知っているが、そもそも何を指しているのだろうか?

 違った路、辿り着く、神秘……ぐるぐると考えを巡らせていると、


「ナツさん」


 外界から声がかかる。

 もうそんなに時間が経ったのか――そう思いつつ目を開けると、視界には天上が広がっていた。タイルに付いた結露、白くけむる湯気、微かな水音……


『おまっ……!? まだ入ってんなら話しかけるなよ……!!』


 咄嗟に視界の共有を切りつつそう叫ぶと、リッカは事もなさげに口を開いた。


「先ほどから思考が漏れています。頭の中で独り言が響いていたら、気になって休まるものも休まりません。それに、こうして視線は外しているのですから問題ないでしょう」

『それは悪かった……けど、なあ……』


 どこか納得いかないものを覚えるが、つまり彼女は他人にも、そして自分にも関心がないということだろう。それも散華の影響だと考えると、こちらは口を噤むしかない。


「それで、何がそんなに気になるのですか?」

『ああ……先生が言っていた「神秘へ至る」っていう言葉がちょっと気になってさ。何か訓練のヒントだったりしないかな……って』

「神秘へ至る――というのは、術師の至上命題とされている言葉です。言わば旗印のようなものなので、それ自体に深い意味があるとは思えませんが――」


 リッカはそこで短く句切ると、こちらを試すように言葉を続ける。


「教会において、聖霊が顕現したのは人類に対する試練のためとされています。だとすれば何を以って合格となると思いますか?」

『……聖霊術で全ての虚殻を倒す……いや、それより生き残ることかな……?』

「――なるほど。もちろん明確な答えがある訳ではありませんが、教会では神の真意を理解することだとされています」


 そう言うと、何を思ったかリッカは唐突に湯船から立ち上がった。


『おいおいおい……!!』


 咄嗟に視界のリンクを切って抗議の声を上げるが、本人は気にも留めず何かをしているようだ。微かに聞こえるこの音は……ガラスを磨く音だろうか?


「以前シンシアが言っていたように、聖命樹は小径パスと呼ばれる路で繋がれた十種類のセフィラによって構成されています。……ナツさん、ちゃんと見ていますか?」

『見てる訳ねぇだろ……!!』

「問題ないと言っているのですから、貴方が気にすることではないでしょう。一度しか説明しませんから、ちゃんと確認しておいてください。あと、このままでは私が風邪をひきます」


 こちらの抗議を意にも介さず、彼女は淡々とそう言った。

 俺は半ば自棄になりながら視界を共有すると、彼女の濡れた指先が曇った窓ガラスに何かを描いていた。

 それは線で繋がれた十個の円――聖命樹の簡略図だ。


「このように十種類のセフィラが描かれていますが、実はもうひとつ、隠されたセフィラの存在が言い伝えられています。その名は知識ダアト――神の真意を司るものです」


 彼女はそう言うと、聖命樹に新しく円をひとつ追加しながら言葉を続ける。


知識ダアトは他のセフィラとは異なる次元――深淵アビスに存在しており、ここへ辿り着いて神の真意を理解し、人類に救いを齎す。それが神秘に至るということです」


 なるほど。理屈は分かったが、確かにスケールが大きすぎて参考にはならなそうだ。


『つまり知識ダアトは自然と開花する訳じゃなくて、そこへ至る方法があるってことなのか?』

「ええ、それには深淵へ至る路を開く必要があります」


 するとリッカは身体が冷えたのか、再び湯船に浸かりながら言葉を続ける。


「以前、セフィラは一人につき二種類まで開花するとお話ししましたが、第二のセフィラは全種類からランダムで選ばれる訳ではなく、必ず小径パスで繋がれたものの中から開花します。例えば終天ネツァクであれば、慈悲ケセド壮麗ティファレト根源イェソド王権マルクト――この四択ですね」


 確かに思い返せば、終天から路で繋がる円は四つあった。


「そして二種のセフィラを極めたものは、それらが交わる小径。狭き路において、第三の聖霊術にして秘奥の業――秘跡アルカナを開花する。それこそが深淵への路を開く鍵だと言われています」


『要は……二種類の聖霊術を極めて秘跡アルカナとやらを会得して、更にそれを極めた者だけが深淵への路を開き得る――ってことか? 何というかこう……途方もない話だな』


「ええ。秘跡アルカナを開花した術師でさえ、教会の中でも一握りと言われていますからね」


 そう言いながらリッカは目を伏せると、湯を堪能するように小さく息を吐いた。

 忘れかけていたが、今は彼女の入浴中なのだ。礼を言いつつ、今習ったことを思い返す。


 神秘に至るとは、言わば聖霊術を極めるということだ。

 二種類の聖霊術――セフィラを極めることで、秘跡アルカナと呼ばれる第三の術が覚醒する。


 そして終天の路が繋がる先は、慈悲ケセド壮麗ティファレト王権マルクト根源イェソド――つまり俺もリッカと同じセフィラが開花し得るということだ。そこでふと、疑問が浮かぶ。


 俺の聖霊術は終天でありながら、その性質はリッカの根源と類似している。

 そして終天は、根源と小径で繋がっている。これは果たして……偶然なのだろうか?

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