第16話 できないこと

 里の皆とテーブルを囲む気分にもなれず、俺は貰ってきた弁当を無理やり胃へ流し込むと、そのまま先生に連れられて診療所へ移動した。


「早速ですが、先ほども申し上げたように、ナツさんにはこれから一週間、聖霊術の使い方を学んでいただきます。気持ちを整理したいかも知れませんが、今はその時間も惜しいので」


 先生はそう言ってセフィラの診断に使用した巻物を再び広げると、


「それでは、まずは霊力の操作――スクロールの起動。そして次に聖霊術の発動。ここまでを最初のステップとして、明日の朝までに自力で発動できるようにしておいて下さい。それでは私も調査がありますので、これで失礼します」


 そう言い終えるや否や、先生はさっさと席を立って踵を返してしまった。


「……えっ?」

「明日の朝、また確認させていただきます。それまでに聖霊術を発動できていなければ、訓練は中止――この件はそこで終わりです」

「ちょ……ちょっと待ってください!」


 何かの冗談だろうか。苦笑いを浮かべながら彼の背中を呼び止めると、


「さっき訓練をつけてくれるって……しかも明日の朝って……」


 先生は足を止めてこちらを振り返る。相変わらず柔和な笑みを浮かべているが、その瞳には今まで見たことのない鋭い光が灯っていた。


「先にお伝えしておきますが、今回の件、私は手取り足取り教えるつもりはありません」


 彼はあくまで穏やかに、しかしはっきりとした口調で言葉を続ける。


「確かに聖霊術の使い方を教えると言いました。ただし、それはあくまで生き残るための手段のひとつにすぎません。作戦中、常にあなたの側に居られるとは限らない……だからこそナツさん、あなたには危機的状況を生き抜くために、考える力を身につけて欲しいのです」


 ――考える……力……?

 俺は金縛りにあったように反論することができず、里長の言葉を脳内で反芻していた。


「自分に何ができ、そして何ができないのか……よく考えてみてください」


 先生はそう言い残すと、後ろ手に扉を閉めて診療所を後にした。

 本当に行ってしまった。まだ状況が上手く飲み込めない……が、彼は冗談を言っているようには見えなかった。明日の朝までに聖霊術を発動できなければ、そこで終わり。


 正直、訳が分からないが、今はとにかくやるしかない。

 気を取り直して巻物へ向き直ると、目を伏せて深呼吸をする。

 シンシアさんの補助があったとは言え一度は起動できたのだ。あのときの感覚を思い出しつつ巻物へ手を翳し、意識を集中すると――身体の奥が熱を帯び、指先に向かって微かに痺れるような感覚を覚える。

 微かな期待と共に薄く目を開けると、そこには全く変化のない巻物がそこにあった。


「明日の……朝まで……」


 無意識に零れ落ちた言葉と共に、冷や汗が背中を伝った。


――――

――


 机に突っ伏しながら、肺に溜まった熱い息を吐き出す。時計に目をやると、特訓開始から六時間を少し回っており、辺りにはすっかり夜の帳が降りていた。

 先生と別れた後、シンシアさんの家に戻ってきてから巻物に向き合い続けているが、ここまでの成果はゼロ。何度挑戦しても、まるで雲を掴むように手応えすら感じない。霞む目頭を押さえると、集中のし過ぎか頭の奥がじくじくと痛んだ。


『少し休まれてはいかがですか?』


 唐突に生まれたリッカの声に驚いて小さく肩が跳ねる。

 集中しすぎて忘れていたが、リッカもずっと付き合ってくれていたのだ。しかし見ているだけでは退屈だっただろう。


「ああ、ごめんな……付き合わせちまって」


 そう言って凝り固まった首や肩を解すと、深く息を吐きながら言葉を続ける。


「そうだな……少し休むよ。リッカもこっちは気にせず自由に過ごしてくれていいから」

『……それでは、お言葉に甘えて』


 背もたれに寄りかかって身体の力を抜くと、浮遊感と共に身体の主導権が入れ替わる。リッカは椅子から腰を上げると、記憶を探るように辺りを見回した。


 そう言えば、平時のリッカをこうして内側から見るのは初めてだ。とは言えあまり私生活を覗くのも失礼かと思い、視界の共有を切って大人しく頭を休める。


 ややあってから物を漁るような音がしたかと思うと、続いて扉を開ける音が聞こえた。そこに続くのは一定のリズムで刻まれる足音。どうやらリッカは外を歩いているようだ。


 里の皆にリッカの存在を隠している以上、無闇に歩き回るのは良くないのではないだろうか。彼女がそれに思い至らないとは思わないが、余計なお世話とは思いつつ視界を共有する。


 開けた視界には、月華と御柱の光に照らされた夜道が広がっていた。ちょうど目的地に着いたのか、リッカは見覚えのある家の前で足を止めた。ここは――

 彼女は静かに我が家を見上げると、程なくして玄関をくぐり、持ってきた用具で掃除を始めた。積もった埃をはたきで落とし、散乱したガラス片や落ち葉を掃いていく。


 床がある程度片付くと、次は棚に並べられた小物をひとつずつ手に取って、布巾で埃を拭い始めた。やがてリッカはひとつの写真立てを手に取る。それはかつて俺が彼女を焚き付けるために捨てようとしたものだった。今思えばとんでもないことをしようとしたものだ。


 収められた写真には初老の男性と幼いリッカが、少しだけはにかんだ笑顔を浮かべている。それを見て、ふと気付く。そう言えば、この写真には写っていないものがある。


「何か聞きたいことでも?」

『え? いや……えっと……』


 心を読まれたようでぎくりとするが、ここまできたら聞いてしまったほうが良いだろう。


『……母親の写真はないのかなって』

「そう言えば話していませんでしたね」


 リッカは思い出したようにそう呟くと、写真へ視線を戻しながら言葉を続ける。


「母はいません。私は捨て子だったのです。物心ついたときには聖都の孤児院にいて、そこで父に引き取られました。なので父とも血の繋がりはありません」

『……そうだったのか。ごめん……』

「そちらの世界のことは存じませんが、こちらではよくあることですから。それに引き取られてからは何ひとつ不自由なく暮らしてきたので、人並み以上には幸せだったと思います」

『そっか……いい親父さんだったんだな』

「……そうですね。きっと大切だったのだと思います」


 しかし呟かれた言葉に対して、当の本人は台本でも読み上げるように淡々としていた。


『……思います?』


 半ば無意識に尋ねると、彼女はおもむろに瞼を伏せて言葉を作る。


「実感が湧かないのです。過去の記憶を辿っても、どこか他人事のように思えてしまう。愛していたし、愛されていた。そう信じていた……けれど今となっては分かりません」


 言葉となって零れるリッカの胸中。そこには悲しみも後悔もなく、ただ事実を述べているだけだ。育ての親である父親に対しても、こんな無神経なことを尋ねる俺に対しても同じようにフラットな感情。

 そこには嫌悪も、ましてや好意も存在しない。

 今の彼女は何も感じない。胸の内に抱くのは親愛から最も遠い感情――無関心だ。


 おこがましいとは理解しながらも、同情と自責の念に駆られてしまう。

 彼女には哀しみ、そして怒る権利がある。しかしその機会さえも奪われてしまった。感情――リッカが戦いの果てに失ったもの。


 ふと――思う。リッカは今回の作戦をどう思っているのだろう。先ほどは聞かれたこと以外は終始無言を貫いていたが……そう言えば、まだ彼女の考えを聞いていなかった。


『リッカは……作戦に参加するつもりなのか?』


 無言で首肯する彼女。怖くないのか――という言葉を無理やり飲み込むと、


『……どうしてだ? リッカには参加する義務なんてないだろう』

「義務……ですか。そんなこと、考えもしませんでした。強いて理由を挙げるとすれば、それが人としてやるべきことで、私にもできることだからでしょうか」


 リッカはそこで短く句切ると、写真立てを指でなぞりながら言葉を続ける。


「それに父も、私が巫女としての義務を果たすことを望んでいました。つまり今回の作戦を成功させることは、父の遺志を継ぐことにもなるでしょう」

『けど……また臨界点を突破したら――』


 そこまで呟いたところで、ひとつの疑問が浮かび上がる。以前、シンシアさんがこの世界では六つの感情を花に例えると言っていた。だとすれば――


『花弁が六枚を超えたら……どうなるんだ……?』

「心が欠けるのは、存在そのものが聖霊に近付くため」


 淡々としたリッカの言葉に、微かな悪寒が走る。


「花弁が六枚に増えて尚も共鳴率が上昇した場合、意識を聖霊に乗っ取られ、肉体は形象崩壊を起こし、暴走する聖霊そのもの――虚殻になるのです」


 その言葉に、愕然とする。

 内容もそうだが、何よりそんな重大なことを、身近に迫る危機を他人事のように告げる彼女が信じられなかった。無論、彼女に責がある訳ではない。そうと分かっていても、俺には彼女が氷でできた人形のように思えてしまった。

 リッカが背負う理不尽に、そして何よりそんな想像をしてしまう自分に、嫌気が差す。言葉を返せずにいると、リッカがややあってから言葉を作る。


「そう言うあなたは、どうなのですか? あなたはこの里で生まれたわけでも、虚殻に何かを奪われたわけでもない。それこそ戦う理由など無いように思いますが」

『……俺……は――』


 ――どうしたいのか。

 曖昧だった意志を改めて己に問う。


『……確かに、俺にとって里は故郷じゃない。けど、里の皆は余所者の俺にも優しくしてくれた。そんな人たちの帰る場所を守れるなら、俺も力になりたいと思う』


 その想いに嘘偽りはないが、同時にそれを塗り潰すような感情が胸中を渦巻いている。


『だけど……怖いんだ。虚殻と戦うのも……何よりこれ以上記憶を失うのが……怖い。残った思い出を失ったとき、俺が俺じゃなくなくなるような気がして――』


 やっとのことで継ぎ接ぎの感情を吐露すると、ややあってからリッカが口を開く。


「恐怖は人として当然の感情――恥ずべきことではありません。今回の作戦を辞退したところで、あなたを責める人は誰一人いないでしょう。先生もそれを分かった上で、それでもあなたに聖霊術を学ばせ、試験の機会を与えると言った。それは何故だと思いますか?」


 機会を与えた……理由?

 リッカの言う通り、俺が参加を辞退したとしても、きっと誰もそのことを責めない。なら初めから訓練などしなくても結果は同じようなものだ。

 しかし、先生はそう考えていない。

 彼が俺に訓練を付けて、任務に参加する機会を与えてくれた理由。それは――


『俺が……自分で選ぶべきだから?』


 リッカはその言葉に小さく頷くと、


「今の貴方には戦うという選択肢がありません。しかしそれは選ばされたも同然――ですが戦うすべを得た上で、自ら戦わないことを選ぶのであれば、それは紛うことなくあなたの選択です」


 そこで短く句切ると、独り言ちるように言葉を続けた。


「できないことと、やらないことは……同じようで全く違うのですから」


 その言葉に思考を巡らせる。

 先生は自分に何ができて、何ができないかを考えろと言った。


『今の俺には……何ができないのか……』


 皆の言葉を反芻しながら、考える。

 才能も知恵もない。戦うも力も勇気もない。ないものだらけ、できないことだらけの自分。そんな俺にも、まだやれることがあるとすれば――


『……リッカ。俺に……霊力の扱い方を教えて欲しい』


 ――それは誰かの力を借りることだ。

 先生は手取り足取り教えるつもりはないと言ったが、ひとりで乗り越えろとも言わなかった。それには、きっと意味がある。


 ひとりでできないことは、諦める理由にはならない。自分がどうしたいのか、まだ答えは出ない。だけどここで投げ出すには、早すぎる。


「それが……あなたの考えなのですね」


 その言葉に肯定すると、彼女は写真をそっと棚へ戻しながら言葉を続ける。


「分かりました……家へ戻りましょう。朝まで時間がありません」

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