第15話 異変
身体は動かさずとも腹は減るもので、俺はぼんやりと昼食のメニューを想像しながら中央広場へ向けて足を動かした。すっかり慣れた道を進むと、遠くからいつも通り微かな喧騒が聞こえてくるが、しかし広場へ入ったところで違和感に気付く。
そこには住民たちが集まっていたが、皆一様にテーブルではなく玉垣を囲んで心御柱を見上げており、その表情と喧騒には不安の色が滲んでいた。シンシアさんも異常事態に気付いたのか早足に人混みへ近寄ると、遠巻きにしていたひとりに声をかける。
「あ……シンシアちゃん、ちょうど良かった。それがね、皆が言うには……心御柱が……」
住民は微かに安堵した表情を浮かべるが、すぐに眉根を寄せながら言葉を続ける。
「……枯れ始めているらしいの」
即座に状況を理解できず、その言葉を脳内で反芻する。心御柱は里の結界を形成する装置のようなものだと言っていた。それが枯れるということは――
「状況確認は後です。まずは皆さんを落ち着かせましょう」
冷静な先生の言葉に我に返ると、シンシアさんが人混みを掻き分けて集団の前に立つ。
「落ち着いて! 御柱は私たちの方で調査するから、慌てず普段通りに――」
皆の視線を集めて語りかけるようにそう言うが、未だにその場を離れようとしない者が大半だった。不安は共鳴し、熱を帯びて感染する。喧騒が次第に勢いを増し、狂気を孕むように膨れ上がり、あわや臨界点を迎えようとしたその瞬間――
「――聞け!!」
鋭い声が銃声のように響き渡ると、喧騒が一閃――水を打ったように静まり返る。声のした方を振り返ると、里長が凛とした姿で皆の視線を受け止めていた。
里長は虚殻との戦闘で負傷した肩を三角巾で吊っているものの、その猛禽類のような双眸が放つ眼力は健在だった。彼はその場で皆の顔を見回すと、落ち着いた声色で言葉を続ける。
「詳細はワシから追って伝達する。皆の者、今日は集会所の方で食事を摂ってくれ」
その言葉に住民たちは顔を見合わせると、やや安心した顔つきで解散していった。
「里長! もう起きて大丈夫なんですか?」
広場から人が捌けたことを確認すると、シンシアさんが駆け寄りながら口を開く。
里長は頷きを返しつつ「状況を」と言うと、彼女から簡潔な説明を受けていく。
それを横目に御柱を見上げると、視界に収まらないほどの大樹は、以前と変わらず安閑と聳え立っているように見えた。すると、天を覆う梢から一枚の葉が零れ落ちる。
舞い落ちる葉を掌で受け止めた瞬間、痺れるような衝撃が走った。
「――ッ!?」
咄嗟に落としたその葉は泥のように変色し、水気を失って萎縮していた。
脳裏にこびり付いた既視感が、冷たい指のように首筋を撫でる。
俺は半ば無意識に玉垣を乗り越えて御柱へ駆け寄ると、震える両手で樹幹に触れる。次の瞬間――波濤のような霊響が全身を駆け巡った。
体内に冷水を注がれたような感覚。その清涼な流れの中に、泥のような異物が紛れ込んでいる。粘着質に纏わり付く触手のような怖気を、俺は知っている。
「何で……虚殻が……」
無意識にそう呟くと、隣に立ったシンシアさんが口を開く。
「ナツ君、どういうこと?」
「御柱から……虚殻の気配が……」
気もそぞろにそう呟くと、シンシアさんは瞠目して同じように樹幹へ触れた。
ややあってから手を離すと、彼女は神妙な顔つきで小さく唸る。
「……確かに奥の方、いや……下の方から微かに霊響の淀みのようなものを感じる」
「あの虚殻――マイナデスのもので間違いありませんか?」
先生の口から知らない単語が飛び出した。マイナデス――口ぶりから察するに、俺たちが遭遇した虚殻の名称だろう。シンシアさんはその言葉に頭を振ると、
「正確には分かりません。ですが彼は先の戦いで、私より深くマイナデスの霊響を体感しています。ですから彼がそう言うのであれば……状況的にも間違いないかと」
「……どうして御柱から虚殻の気配が?」
シンシアさんの言葉に疑問を重ねると、程なくして先生がおもむろに口を開いた。
「御柱が枯れているのは、恐らく霊力不足によるもの。地中の霊脈――地脈から霊力を吸収する根に異常があったと見るべきでしょう。そして霊響の淀みと、虚殻の気配――これらのことから察するに、御柱の根が虚殻に侵食されている可能性があります」
「けど、御柱の根は地下深くにあるんですよね? どうやってそんな場所に……?」
マイナデスは結界の内部まで侵入してきたが、里へ近付く前にシンシアさんが掃討したはずだ。仮に生き延びた個体がいたとして、まさか地中を掘り進んできた訳でもあるまい。
「……禁忌遺跡か」
ふと零された里長の言葉に、彼女が息を呑んで「まさか……」と呟く。
「だが、以前から可能性は示唆されていたことだ」
里長が静かにそう答えると、シンシアさんは頤に手を当てて考え込んでしまう。
「あの……禁忌遺跡って?」
核心らしき言葉を尋ねると、二人に代わって先生が答える。
「禁忌遺跡とは、かつて人類が造り出した遺跡の中でも、世界を滅ぼしかけた知識が秘められた特別なものを指します。そして禁忌遺跡は必ず、地下深くに眠っているのです」
その言葉に視線を下へ向けるが、そこには何の変哲もない地面が広がっているだけだ。
「そんなものが……この里の地下に?」
「……分かりません。なにぶん遺跡は巧妙に隠されていますし、教会の許可なく捜索することも固く禁じられているので。ですが里長の言うように以前から存在は噂されていました」
「つまり……どこからか禁忌遺跡に入り込んだ虚殻が、たまたまそこに続いている御柱の根を見つけて、そこから霊力を吸収している――と……?」
シンシアさんの言葉に、皆一様に眉を顰めて思索に耽る。確かに辻褄は合っているものの偶然にしてはできすぎており、すんなりと胃の腑に落ちないのが正直なところだ。まるで作られた筋書き、何者かの意思が介入しているかのような違和感が……。
その刹那、脳裏に記憶がフラッシュバックし、思わず口端から声が漏れる。
「あの……ひとつ思い出したことがあって。この件と関係あるかは分かりませんが……」
そう前置きしながら記憶の糸を手繰り、皆の視線に促されるように言葉を続ける。
「虚殻に襲われて川に流された後……俺、誰かに助けられたみたいなんです」
「その誰か……っていうのは?」
「意識が朦朧としていてよく覚えていないんですけど、確か真っ黒なローブに模様のついた白い仮面を付けていて、それで……仮面の奥に、五枚の開花聖痕が見えて――」
そう言い終えると、短い沈黙の後に隣からぽつりと言葉が生まれた。
「……征伐師ですね」
独り言ちるような先生に続いて、シンシアさんの息を飲む音が聞こえてくる。
言葉の意味が分からず狼狽していると、先生が落ち着いた声で補足を入れる。
「征伐師は教会の最高責任者である教皇――その直属の異端審問官のことです。主な役割は教会に仇なす者の排除。術師の中でも対人戦に長けた掃除屋のようなものです」
「それは……確かですか?」
眉根を寄せるシンシアさんに、先生は首肯しながら言葉を返す。
「断定はできませんが、可能性は高いと思います」
尚も釈然としない様子の彼女に促されるように、先生は静かに言葉を続ける。
「私は事件の後、虚殻が里へ侵入した原因を調べるために結界を調査しました。その結果は報告したように――異常なし。ですがこの場合は、異常がないことが異常なのです」
先生はそこで「確証が持てるまで伏せておくつもりだったのですが」と前置きをすると、
「結界が虚殻によって破られたのであれば、少なからず支柱に痕跡が残るものです。しかしそれが全くないということは、結界は御柱に精通した何者かの手によって、意図的に解除された可能性が高い……と私は推測しています」
そう言って皆の顔を一瞥した後に、腹を括ったように言葉を続ける。
「誰にも気付かれることなく結界を解除し、虚殻を禁忌遺跡へ誘致した者。それがナツさんの見た征伐師だとすれば辻褄が合います」
「けど……どうしてそんなことを? 教会が今更そんなことをする意味が……」
「申し訳ありません。私もそこまでは……」
問い詰めるようなシンシアさんの言葉に、先生が浅く頭を下げながらそう返す。彼に当たるのは筋違いだと気付いたのか、彼女は自省したように唇を噛んで引き下がった。しかしその表情には焦りと戸惑いが色濃く浮かんでおり、重苦しい沈黙が辺りを漂う。
「……クロード、結界はいつまで保つ?」
ややあってから里長が沈黙を破ると、先生は僅かな間を置いて慎重に言葉を返す。
「……虚殻が里へ侵入したのが三日前、根に辿り着いたのが一日か二日前だとして、この侵食速度から考えるに……十日前後だと思います」
十日――残された猶予はたったそれだけ。
それが過ぎれば、結界を失ったこの里は――王都の二の舞になる。
「私たちに取れる選択肢は二つかと。遺跡を探して虚殻を討つか、或いは里を放棄するか」
先生の言葉に空気が張り詰める。前者を選べば話は早いが、それができないからこそ後者が提示されているのだろう。しかしこちらが逡巡するより早くシンシアさんが口を開く。
「私が虚殻を――「――駄目だ」
しかし彼女の言葉尻を遮るように里長が強く言葉を重ねた。
「……時が来たということだろう。里を放棄して希望者を疎開させる」
彼の語気は落ち着いているが、そこには有無を言わせぬ意思を宿していた。
「里長の言い分も分かります。今回は明らかな異常事態――見えぬ危険も多いでしょう」
しかし先生は里長の圧に屈することなく、落ち着き払った態度で言葉を作る。
「ですが私も里を棄てることには反対です。それに、いくら虚殻と言えど膨大な霊力を擁する御柱を侵食するのは容易ではないでしょう。逆に言えば、今が叩くチャンスとも言えます。シンシアさんの実力を考えれば、分の悪い賭けではないかと」
「……征伐師の件はどうする」
「確かにこのままでは対立することになるでしょう。ですが相手が人間であればこその希望もあります。もし教会の真意を問うことができれば、或いは活路を見出すことも――」
里長とシンシアさん――対立する二人の意見は、きっとどちらも正しい。だが年の功か里長の方が一枚上手らしく、その意見を覆すのは容易なことではないだろう。
しかし里長とはまた違った芯をもつ先生の言葉であれば、或いは――
「――ですが、今回は虚殻を倒すだけでは里は救えません」
シンシアさんに付いたかと思われた先生が、今度は彼女を一瞥しながら言葉を続ける。
「根は御柱にとって心臓のような器官。それが侵食されれば不可逆的なダメージは避けられません。端的に言えば、今この瞬間にも心御柱の寿命が削られているのです。このままでは虚殻を討伐したところで遠からず御柱は枯れ、結界も自然消滅するでしょう」
先生は御柱を見上げると、我が子を見つめるように目を細めながら言葉を続ける。
「だからこそ虚殻を討伐した上で、神籬(ひもろぎ)の儀式を行う必要があります」
先生の聞き慣れない言葉に、シンシアさんが微かに眉根を寄せた。
「……儀式?」
「神籬の儀式とは、言わば御柱のバッテリー交換です」
こちらの疑問に先生はそう答えると、皆へ視線を戻しながら言葉を続ける。
「御柱は見た目こそ大樹ですが、その実は初代教皇が生み出した霊的機構――言わば自立型の聖霊術です。ただし自立型とは言え機械と同じように寿命が存在し、およそ二十年周期で術式を組みなおす必要があるのです。それが――神籬の儀式」
「けど……儀式は誰にでも行える訳ではありません。特別な資質を持つ術師――神籬の巫女が必要なのは先生もご存知でしょう? 今から巫女を探すなんて……」
「正確には適性が高いというだけで、特殊な知識があれば巫女でなくとも儀式を行うことは可能――この場合は私がそれに当たります。とは言え成功率は良くて五分、効果も半減しますが」
先生はそう言うと、意味深にこちらを振り返りながら言葉を続けた。
「ただし〝巫女〟本人にその気があれば話は別です。……そうですよね? リッカさん」
その言葉に皆の視線が一斉にこちらへ集まる。俺も素っ頓狂な声を漏らして意識を内側へ向けると、ややあってから身体の主導権が奪われる。
「……そのことは、一部の者しか知らなかったはずですが」
「儀式や巫女の詳細は教会の中でも秘匿されていますからね。ただ……私もかつては貴女の言う一部の者だったということです」
リッカの問いかけに先生は飄々とそう答えた。彼が元術師だったことは聞いていたが、そんな秘匿情報を知っているということは、地位も相当だったのではないだろうか。
普段は気の良い好々爺といった印象だが、非常時にも揺らがぬ態度や、言葉の端々から窺い知れる知性といい、常識では測りきれない器量の深さを感じる。
「そんな……いつから?」
シンシアさんが呆然と呟くと、リッカは事もなさげに淡々と言葉を返す。
「私もつい先日……いえ、十年前――事件が起きる直前に、父から聞かされたばかりです」
「そして状況から察するに、十年前に儀式を行ったのも……」
先生の言葉に記憶を掘り返す。聞いた話では事件の日、消失したはずの結界が唐突に復活したとのことだった。そして結界の再生に巫女の儀式が必要だとすれば――
「もしかして……私と別れた後……?」
シンシアさんも同じ考えに至ったようだ。リッカの頷きが、それを確信に変える。
俺がこの世界で目覚める直前に垣間見た、リッカの記憶。そこで彼女は幼いシンシアさんを納屋に隠した後、ひとりで御柱の下へ向かい、何かを行ったところで気を失った。あの行動こそが、神籬の儀式だったのだろう。
「つまり都合の良いことに、作戦に必要な要素は揃っているということです」
「……だとしても私はやっぱり反対です! 儀式なら虚殻を討伐してから行えば……」
なおも食い下がるシンシアさんに、先生は浅く目を伏せながら言葉を作る。
「これは最悪の想定なのですが、虚殻の侵食は既に寄生――或いは融合にまで達していることも考えられます。その場合、虚殻を討伐すると御柱にも致命的な損傷を与えることになりかねません。それを回避するには、虚殻を剥がすと同時に儀式を行う必要があるのです」
その言葉を聞いてシンシアさんが小さく歯噛みする。自分にはその可能性を測ることはできなかったが、彼女の反応から見ても正鵠を射ていることは間違いないようだ。
「さらに言うならば、この作戦はリッカさんを万全の状態で送り届けることが肝心です。ですが彼女は知っての通り、安易に聖霊術を使うには危険な状態……故に誰かが護衛する必要があります。片時も側を離れることなく、状況に対して柔軟に動くことができる誰か――」
先生はそう言うと、再びこちらを振り返りながら言葉を続ける。
「結論から申し上げます。私は今回の作戦の要は、リッカさん――そして彼女を護衛するナツさんのお二人だと考えています」
「……え?」
身体の主導権が戻ると同時に、口端から間抜けな声が漏れた。
「無茶です! いくら開花しているとは言え、ナツ君は完全な素人なんですよ!?」
シンシアさんがこちらの声を代弁するようにそう叫んだ。
先生の理屈は分かる。だが、やはり彼女の意見に同意だ。
俺がリッカを護衛するなんて――
「彼がリッカさんはおろか自分の身すら守れないのは事実です。遺跡への入り口を見つけられるかも分かりませんし、そもそも里長の言うように里を放棄すべきなのかも知れません」
先生はそう言って順番に皆の顔を見回すと、
「双方の意見はごもっともです。それにナツさんの意志も尊重しなければ。ですが、その全てを今ここで決めるのは現実的ではありません。そこで、試験をするのはいかがでしょう?」
提案するように指を立てながら言葉を続ける。
「まず作戦実行の可否を決める期限を一週間とし、それまでにシンシアさんが遺跡の入り口を見つけられなければ作戦は諦める。そしてその間、里長には住民の避難を指揮していただきます。そうすれば私たちが後乗りするだけで、少なからず里から脱出することはできます」
続けて二本目の指を立てると、こちらを一瞥しながら続けた。
「そして同じく一週間、ナツさんには私から聖霊術の使い方を授けます。そして最終日に参加の意志があればシンシアさんと手合わせをして、能力が備わっているか判断していただきます」
そう言って再び皆の顔を見回すと、ややあってからシンシアさんが口を開く。
「……二人の参加に対する最終的な可否は、私が判断するということで良いんですね?」
首肯する先生に、シンシアさんは目を伏せながら言葉を返す。
「……分かりました。入り口の件も含めて、私はそれで構いません」
先生はひとつ頷くと、続けて里長へ視線を向ける。
彼はややあってから浅く目を伏せると、
「導くことと、意志を奪うことは違う……ということか」
独り言ちるようにそう呟いて、広場に背を向けながら言葉を続けた。
「里の皆にも、それまでに意志を固めておくよう伝えておく」
その背が消えるのも待たずに、シンシアさんも踵を返しながら口を開いた。
「私もすぐに調査を始めなくちゃ。二人とも、時間があったらまた話そう」
俺は呆然と立ち尽くしたまま、その背中を見送ることしかできなかった。ものの十数分で日常から非日常へ。あまりの落差に意識が追いつかず、現実味が全く湧いてこない。
「まさに鳩が豆砲玉を食らったような顔……ですね」
その声に振り返ると、先生が相変わらず柔和な笑みを浮かべたまま言葉を続ける。
「まずは食事でもいかがでしょうか? こういう時こそ日常を忘れない方が良いですからね」
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