第13話 喪失

 微睡みから目覚めると、薄闇の中には見覚えのない天井が広がっていた。

 身体を動かそうと試みると、全身が鈍痛と共に軋みを上げた。


「おはようございます。気分はいかがですか?」


 声の生まれた方へ顔を向けると、先生が柔和な笑みを浮かべていた。どうやらここは里の診療所らしい。どうしてこんな場所にいるのか……現実が輪郭を帯びると共に、記憶が蘇る。


「リッカは……ッ!?」


 身体を起こすと鈍い痛みが走るが、そんなことはどうでもいい。


「落ち着いてください――彼女は無事です。貴方より先に目覚めて、今は眠っています」


 咄嗟に己の胸へ手を当てて意識を集中させると、微睡むような気配を覚えた。

 ホッと胸を撫で下ろす。冷静になってみれば、最初からこうすれば良かったことだ。


「……里長は? シンシアさんは……二人は無事なんですか?」


 改めて先生に向き直りながらそう尋ねる。先生が口を開きかけた次の瞬間、パタパタと廊下を走る音が近付いてきたかと思うと、勢いよく扉が開かれた。


「目が覚めたんだね……!! 良かったぁ……」


 シンシアさんは子犬のように枕元へ駆け寄ると、眉尻を下げながら顔を綻ばせた。


「結界内に侵入した虚殻は、シンシアさんが全て討伐してくださいました。里長も彼女に保護されています。多少の怪我はありますが、命に別状はありません」


 先生の言葉に、シンシアさんはこちらの手をそっと握り締めながら言葉を零す。


「皆が無事だったのも二人のおかげだよ。リッカちゃんから少しだけ聞いたけど、ずいぶん無理させちゃったみたいだね。私が付いていながら……ごめんなさい」

「そんなこと……ありません。あの時、シンシアさんが逃がしてくれなかったら……」


 俺は頭を振りながら、たどたどしく言葉を零す。しかし、そう簡単に割り切れるものではないだろう。後に続いた重い沈黙を払うように、先生が努めて明るく言葉を作る。


「身体の調子はいかがですか? 頭痛や吐き気などはありませんか?」

「……ところどころ痛いですが、大丈夫そうです」

「それは良かった。シンシアさんから二人が行方不明と聞いて、しばらくしてから気絶した君が運び込まれたときは、流石に肝を冷やしましたよ」


 なるほど、そんなことがあったのか。となれば見つけてくれたのは里の誰かだろうか。何はともあれ先生だけでなく、皆に多大な心配をかけたであろうことは想像に難くない。


「リッカさんからは、虚殻の群れに襲われたところまでは窺いました。起き抜けで申し訳ありませんが、聞かせていただけますか? その後、あなたの身に何があったのか」


 先生にそう促されて目を伏せると、リッカが術を発動してから川に流されるまでに起きたことを、記憶の糸を手繰り寄せながらひとつずつ言葉に起こしていく。

 何時間にも感じられた出来事だったが、言葉に起こせば五分とかからなかった。


「そっか、君も聖霊術を……」


 シンシアさんの呟きに己の腕へ視線を落とし、そこに浮かんでいた蛍色の光を思い出す。

 当時は無我夢中で気にしている余裕はなかったが、改めて実感が湧いてくる。

 俺はどうやら、あの奇跡のような力――聖霊術を発動したらしい。


 しかし浮かんでくるのは歓喜ではなく困惑と不安だった。何故、自分にこんな力が覚醒したのか。そして身に余る力を手にしてしまったことに対する――恐怖。


「最初は不安かもしれないけど、安心して。力が開花したからといって、必ずしも虚殻と戦う必要なんてないんだから。ナツ君が望めば、きっと今まで通り平和に過ごせるよ」


 その言葉を小耳に挟みながら己の掌へ視線を落としていると、ややあってからシンシアさんが小首を傾げて、こちらの顔を覗きこみながら言葉を続ける。


「……ナツ君?」

「……え?」


 顔を上げると、怪訝そうに揺れる瞳と視線が交差する。彼女はどうやら自分に語りかけているようだ。聞き覚えのない名前だったから咄嗟に反応できなかった。


「あの……ナツって誰ですか?」


 そう聞き返すと、シンシアさんが瞠目しながら微かに震える声を零す。


「だって……君の……名前……」

「……俺の……?」


 何を言っているのだろう。

 だって俺の名前は――その刹那、頭の奥に鋭い痛みが走る。


 ――俺……の……名前……は……?


「……思い……出せない……」


 記憶を掘り起こそうとしても、錆びた錠前を無理やり回すような不快な引っかかりが生まれるばかりだ。抉るような頭痛が激しさを増し、呼吸が乱れて額に脂汗が浮かぶ。


「……落ち着いて。まずは思考をリセットして、深く息を吸ってください」


 先生がこちらの背に手を当てながら優しくそう言った。言われたとおり深呼吸をしながら脳内を無理やり白紙に戻していく。すると徐々に動悸が治まっていくのを感じた。


「ゆっくりで構いません。ひとつずつ思い出してみてください。年齢や家族、友人……」


 先生の穏やかな言葉に導かれるように、たどたどしく記憶の糸を手繰り寄せていく。


 数分後――判明したのは絶望的な事実だった。

 この世界に来る前の記憶、正確には病に犯される前の記憶がほとんど失われていた。


 特に顕著だったのが、人に関する記憶だ。自分だけでなく家族や友人の名前や顔すら思い出せない。最も辛かった闘病の記憶は残っているのに、そこで聞いたはずの両親の声や言葉だけがすっぽりと抜け落ちていた。

 まるで繋がりが断ち切られてしまったように。


 そして何よりも辛いのは、そのことを自覚できていなかったことだ。

 記憶がないことが、今の自分にとっては当たり前になってしまっている。こうして自覚しても悲しみは生まれず、胸にぽっかりと穴が開いたような虚無感があるばかりだ。


「どうして記憶が……」


 零れ落ちたその言葉に、シンシアさんが神妙な顔つきで口を開く。


「……開花した以上、君には知る権利があるわ」

「開花……?」


 やや場違いな言葉を反芻すると、先生が静かに捕捉する。


「聖霊力が発現すると、瞳に花のような模様が浮かぶことから、こう呼ばれているのです」


 その言葉を引き継ぐように、シンシアさんが浅く目を伏せながら言葉を続ける。


「前に言ったよね。虚樹界と命樹界は神から課せられた試練だって。聖霊術も同じように万能の奇跡なんかじゃなく、私たちを測る試金石のようなもの。力には――対価が必要なの」


 シンシアさんはそう言って手鏡を差し出すと、空いた手でこちらの手を包み込む。


「――瞳を見て」


 そう呟いた彼女の手から蛍色の光が生まれ、柔らかな波のようなものが全身を伝っていくと、程なくして鏡に映る己の瞳が、同色の淡い光を帯びた。


「教会では感情を花に例えるの。喜・怒・哀・楽・愛・憎――六枚一輪の【六情花りくじょうか】に」


 鏡に映る瞳孔から下へ向かって、零れ落ちた花弁のような模様が浮かんでいる。


「聖霊術が開花した者は、その対価として心が欠ける。その人の根幹を司る記憶や感情が徐々に欠落していくの。そして欠け落ちた花弁こころは瞳に浮かぶ――それが開花聖痕セフィラ・スティグマ


 ――心が欠ける。


 無意識に胸へ手を当てながら反芻する。怪我や病と違って実感を伴わないのが余計に恐ろしい。大切なものが失われているにも拘わらず、指摘されるまでそれに気付けなかった。


「記憶を……取り戻す方法はあるんですか?」


 縋るようにそう呟くと、先生は努めて穏やかな声で言葉を作る。


「……記憶や感情が欠落するのは、聖霊との共鳴率が上がることで肉体が書き変えられ、より聖霊に近しい存在に成るためだと言われています。聖霊術を使わなければ進行することはありませんが、逆に自然治癒することもありません」


 ――治らない。俺は二度と、両親を思い出すことはできない。


 内心でそう呟くと、心の支えになっていた柱が折れる音が聞こえた。

 呆然と視線を落とすと、鏡中では聖痕が水面に散った花弁のように揺れている。

 そこでふと、思い出す。以前にも別の花弁を目にしていたことを。


 この世界に来た日の夜。初めて訪れたリッカの生家で、俺は彼女の聖痕を目撃した。彼女の花弁は、あのときから既に五枚あった。


 虚殻との戦いで彼女が最後に見せた聖霊術。あれは自分の目から見ても異質だった。心の欠落が花弁の枚数に比例するならば、そして聖霊術の発動が進行の原因ならば――


「リッカは……本当に無事なんですか……?」

「それは……私たちの口から教えることは出来ないわ」


 シンシアさんは苦虫を噛み潰すようにそう呟くと、こちらの手を強く握り――悲しげな笑みを浮かべながら言葉を続ける。


「けど、忘れないで。君たちはこうして生きて帰ってきてくれた。それだけで十分よ」


 確かに俺たちは化け物を相手に生還した。それは奇跡的なことかもしれないし、この幸運を喜ぶべきかもしれない。けど、そう簡単に割り切ることはできなかった。


 俺が言葉を返せずにいると、先生が静かに椅子から腰を上げ、無言でシンシアさんにも席を外すよう促しながら言葉を作る。同情を感じさせない柔和な微笑みが今は有難かった。


「すぐに心の整理をつける必要はありません。今はゆっくり休んでください」


 その後、俺はシンシアさんが作ってくれた軽い夜食を摂り、そのままベッドで身体を休めることにした。しかし暗闇の中で横たわっていると闘病の記憶が蘇り、動悸と息切れが止まらなくなる。

 どうやらここ数日は収まっていた発作が再発しているようだ。耐え切れなくなってベッドから降り、少しでも眠気を呼び起こそうと散歩へ出かけることにした。


 ランプも持たず出てきてしまったが、月明と御柱の光だけでも十分だった。街灯のない夜道でも道端の花の色さえ分かるほど明るい。

 俺は里に降り注ぐ淡い光を頼りに、誘蛾灯に導かれるように中央広場へ歩みを進める。目的地へ辿り着く頃には、周囲は夕暮れ時と変わらないほどの明るさになっていた。


 この世界の異質を象徴するような大樹――心御柱。そこに生い茂る葉は淡い紫色の寂光を帯びており、無数に折り重なる天の川のような輝きを、恵みの雨が如く降り注がせている。


 自分の腕に視線を落とし、そこから放たれた蛍色の光を思い出す。今なら分かる。心御柱から放たれる光は、聖霊術と同じものだと。どうやらこの光は聖霊の活動に伴うものらしい。

 俺は玉垣を乗り越えると、どこか夢見心地のまま樹幹へ手を伸ばす。すると――


『触らないほうが良いですよ』


 いつの間にか目覚めていたリッカの声が脳裏に響いた。


『根ほどではありませんが、幹にも少なからず霊力を吸収する力がありますので』


 突然のことに心の準備ができておらず、聞きたいことが山程あるにも拘わらず舌が空回る。


「……リッカ……。その……身体は大丈夫なのか?」

『はい。むしろ憑き物が落ちたような気分です。それより、あなたこそ河原に打ち揚げられていたと聞きました。私が気を失った後、一体何があったのですか?』


 再び事情を掻い摘んで説明する間、彼女は静かに耳を傾けていた。心が欠けると聞いて身構えていたが、今のところ大きな変化はなく、少しだけ安堵する。


『……開花と記憶喪失ですか。それは災難でしたね』


 説明を聞き終えると、リッカは台本を読み上げるように淡々と呟いた。そこに感傷や同情は感じられず、表情が見えないことも相まって、その言葉は余計に虚しく響く。


「リッカは……その……花弁は……」


 恐る恐るそう尋ねると、短い沈黙の後――彼女はぽつりと言葉を紡いだ。


『……覚えていますか? 私の家で父の写真を見つけたときのことを』


 記憶を辿りながら首肯を返す。やはりこの世界に来てからの記憶は問題なさそうだ。


『あの時、私は父の死を知ったにも拘わらず、微塵も悲しみを覚えませんでした。代わりに沸いてきたのは、言いようのない怒り。私に残された――たったひとつの感情』


 怒り――最も制御が難しいもののひとつであり、外に向ければ他者を傷付け、飲み込めば己の心を焼く業火の如き感情。それがリッカに残された唯一の花弁だったのか。


『怒りに飲まれた私には、世界の全てが敵に見えました。父も、里の皆も、シンシアも、そして――あなたも。だから私は表に出ることを拒んだ』


 その言葉に得心がいく。突き放すような態度は確かに拒絶によるものだ。

 しかし同時に他者を巻き込まないためでもあったのだろう。彼女は無意識に、己が内に渦巻く業火を飲み干そうとした。

 それがどれほどの苦しみを伴うのか、想像することもできない。


『けれど、もう何も感じない。私の花弁は六枚――今は、とても心穏やかです』


 静かに零されたリッカの言葉は、まるで氷のようだった。

 怒りは炎だ。ただし、それが悪とは限らない。

 理不尽や不条理に怒るのは、人として当然だ。もちろん怒りに任せて他者を傷付けるのは時として悪とされる。ただしそれを受け止めてくれる人がいれば話は別だ。


 リッカの身に降りかかった不幸は、ひとりで受け止めるには重すぎた。だからこそ周りにいる人たちが、誰よりも近くにいた俺が――少しでも支えることができていたら……。


「……ごめん」


 謝って済むことではないとしても、言葉にせずにはいられなかった。


『どうしてあなたが謝るのですか?』

「だって……!! リッカは俺たちを守るために……」

『私が決めたことです。それに言ったでしょう、憑き物が落ちたようだと。あなたに向けた態度――あんな子供じみた感情も、今思い返せば下らないことです』


 彼女は態度だけ見れば柔らかくなっている。ただし以前が拒絶だとすれば、今は無関心。

 刺々しかった口調は淡白で抑揚がなくなり、例えるなら――空っぽの抜け殻だ。


「けど……リッカはそれでも……俺たちを守ってくれた。自分の気持ちと向き合って、必死に生きようとして……戦っていたじゃないか」

『だとすれば今の私は、もう死んでいるのかもしれませんね』


 その言葉に胸が締め付けられる。きっと嫌味などなく、彼女は本心からそう思っているのだろう。だとしても彼女の心が動くことはない。

 心が欠けるとは――こういうことか。


 俺は彼女へ返す言葉が見つからず、黙って唇を噛むことしかできなかった。


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