第12話 覚醒

 気が付くと、俺は見知らぬ場所に立ち尽くしていた。そこには音も匂いも温度もなく、全てを飲み込むような広大無辺の暗闇だけが広がっている。


 ――俺は……どうしてこんなところに……?


 記憶を掘り起こそうとするが、霧を掴むように指の間をすり抜けていく。

もどかしさを覚えていると、ふと少女の顔が脳裏を過ぎる。


 ――そうだ……リッカは……?


 胸に手を当てると、そこに在るはずの気配が感じられない。以前はそれが当たり前だったはずなのに、まるで自分の一部が欠けてしまったような喪失感に襲われる。


――また……戻るのか……。


 地獄のような病室の記憶がフラッシュバックする。生死すら曖昧な世界の中で、何も生み出せず、ただ命をすり減らしていくだけの空虚な時間。

 

 ……嫌だ。


 暗闇から逃れるように、付き纏う絶望を振り払うように、我武者羅に走り出す。


「……嫌だ……嫌だ!!」


 しかしどれだけ行けども景色は変わらず、身体の疲れも感じない。

 次第に上下すら曖昧になり、自分が何をしているのかも分からなくなる。それからどれくらい経っただろうか。気付けば地面に倒れ伏しながら、溶けゆく意識を繋ぎ止めるように独り言ちる。


 ……死にたくない。


 自己の境界が暗闇に溶け、瞼が落ちかけた次の瞬間――世界に色が生まれた。

 それは微かだが、確かな光。玉響のような淡い光が暗闇にぽつりと浮かんでいる。

 息を飲んで身体を跳ね起こすと、暗闇を掻き分けて光へ手を伸ばした。

 しかしそれは指の間をすり抜けると、風に流されるように背後へ飛んでいく。


「待ってくれ!!」


 慌てて振り返った先の光景に目を疑う。

 そこには、光の柱が聳え立っていた。黄金に輝くその柱は、よく見ると地面から集まった無数の糸が撚り合わされてできており、天に向かって再び枝分かれしながら広がっている。


 それはまるで、巨大な樹のようだった。

 天を覆うほどの梢には、多彩な光の粒が花のように咲いている。呆然とそれを見上げていると、先ほどの玉響が梢に向かって飛んでいくのが見えた。無意識に手を伸ばすと、こちらの身体も宙に浮き、見えない階段を登るように梢へ近付いていく。


 やがて玉響はひとつの枝の側で止まると、何かを伝えるように円を描きながら揺蕩う。


その中心には、純白の花が咲いていた。

六枚の花弁を持つ、雪のように美しい一輪の花。俺はその花に、どこか懐かしさを覚える。


 俺は玉響を一瞥した後、導かれるようにその花へ手を伸ばした。

そして指先が花弁に触れた瞬間、フラッシュを焚くように景色が切り替わる。

 次に現れたのは、一面の銀世界。薄鈍色の乱層雲が空を覆い、見渡す限りの雪原が地の果てまで続いている。不気味なほど殺風景な世界の中に、ひとつの人影が横たわっていた。


「リッカ!!」


 慌てて駆け寄り、雪に埋まりかけた身体を抱き起こそうとした瞬間、焼け付くような痛みに思わず手を引く。視線を落とすと、彼女に触れた指先が凍っていた。

 見ればリッカの肌は痛々しいほど青白く、伏せられた睫毛には霜が降りている。その身体は氷のように冷たく、命の温もりをほとんど感じなかった。


 何故、身体を共有する俺たちが同じ場所にいるのか。そんな疑問も吹き飛んで、眠るように臥せった彼女を揺すりながら必死に声をかける。しかし服の上からでも容赦なく肌を凍てつかせる冷気に、数秒と触れていられない。これでは担いで運ぶのも不可能だ。


 縋るように周囲を見渡すが、頼れる人影も役に立ちそうな物も見当たらない。

 そして絶望に追い討ちをかけるように、世界が激しく揺れた。

 世界の輪郭が歪むほどの衝撃に、雪原へ背中から投げ出され、身体を起こすことすら叶わない。俺は何故か、この世界そのものが崩壊しかけていることを直感した。


 無我夢中でリッカへ手を伸ばした次の瞬間、一際大きな衝撃が走ったかと思うと、雪原に巨大な亀裂が走り、クレバスが生き物のように口を開けた。

 底の見えない崖下へ吸い込まれるように、リッカの身体が滑り落ちていく。


 俺は咄嗟に地面を蹴り、寸での所でその手を掴んだ。リッカの身体は既に地面を離れており宙吊りの体勢になる。しかし安堵する暇もなく、掴んだ手に刺すような激痛が走った。


 リッカの身体から伝う冷気が掌を凍てつかせ、蛇のように腕を這い上がってくる。感覚の消えた指先が赤黒く染まっていくのが見えたが、しかし彼女の身体を引き上げるほどの力は残されていない。歯を食いしばり、絶叫を噛み殺しながら痛みに耐える。


「リッ……カ……」


 無意識に零れた名前に反応したのか、彼女の瞼が薄く持ち上がる。しかしその顔には生気も感情もなく、彫像のように色褪せた唇が微かに動いた。


 ――は――な――し――て――


 そこに声はなくとも、その言葉は痛いほどに伝わった。そこに含まれた諦めが、残酷なまでの優しさが、悪魔の如く甘美に語りかけてくる。


「……嫌……だ」


 呻くように呟くと、リッカの瞳が訴えかけるように揺らいだ。俺はそれを真っ直ぐに見つめ返したまま、噛み締めるように言葉を紡ぐ。


「ここでお前を見捨てたら……俺は……一生後悔する」


 彼女を掴む腕に感覚はなく、喉元まで這い寄る冷気が言葉を詰まらせた。歯の根が合わず思考に靄がかかるが、それでも懸命に彼女の命を繋ぎとめる。


「もう……嫌なんだ。後悔したまま……死んだように生きるのは」


 次の瞬間、突き上げるような衝撃と共に崖が崩れ、身体ごと崖下へ投げ出される。底の見えぬ暗闇に落ちながら、繋がれた掌越しに二つの視線が交差した。

 宝石のように濡れた美しい青の瞳。その奥に燻る光を失いたくないと、強く思う。


「今度こそ……生きるって決めたんだ。だからこの手は――離さねぇ……ッ!!」


 その刹那、胸の奥底で火花が散るような――微かな熱を覚えた。

 開花する蕾のように灯った火種が、情動の風に煽られて胸中を渦巻く。

 やがて熱は意志を持ったように右腕を伝うと、それをなぞるように腕の表面を蛍色の光が走った。

 葉脈のように枝分かれした光の路が氷を溶かし、右腕に感覚が蘇る。掴んだ手を引いてリッカを抱き寄せると、闇の底を睨みつけながら噛み付くように咆哮する。


「こんなところで――死んでたまるか!!」


――――

――


「ギィィァァァァアアアアッ――!!」


 軋むような絶叫に瞼を持ち上げると、虚殻が氷上をのたうち回るのが見えた。

 虚殻の腹部には内側から爆発したような穴が開き、肉片と黒い体液が撒き散らされている。


 記憶が正しければ、自分は虚殻に捕食されたはずだ。氷上に投げ出された己の手足に付着する黒い体液からも、その認識は恐らく間違っていない。

 しかし今はこうして吐き出され、虚殻が知らぬ間に大きく負傷している。


 何が起きたかは分からない。意識は朦朧とし、手足の感覚も曖昧だ。

それでも――胸の奥に燃え滾る情動が、無意識に身体を突き動かした。


 ――生きたい。


 銀板を殴りつけるように上体を起こし、地を掻き毟るように身体を持ち上げる。それに気付いた虚殻がこちらを振り返ると、血走った瞳に憎悪を滾らせながら咆哮した。


 肌を刺すほどの殺気を正面に受けて、骨の隋から凍り付くような恐怖を覚える。だがそれを溶かすほど沸き立つ血潮が、生への執着が――闘争本能を掻き立てた。

 口端から血反吐を零しながら、それでも己を鼓舞するように言葉を作る。


「……欲しい」


 呟きと共に脳裏を過ぎるのは、戦うリッカの姿。

 遠くから見守ることしかできなかった彼女の背中に、少しでも近付くために。

 傷ついた彼女の隣に並び、その痛みを少しでも背負えるように。

 湧き上がる情動に身を任せ、導かれるように手を掲げる。


「今……この時を生き抜くだけの……力が――!!」


 その刹那、掲げた腕に枝分かれした寂光が走り、不可視の波動となって拡散した。

 後に残ったのは水を打ったような静寂と、足元から立ち昇る微かな蒸気のみ。


 しかし氷の下で、それは静かに変化していた。虚殻は遠巻きに警戒していたが、痺れを切らして一歩を踏み出した瞬間――乾いた音を立てて銀板に亀裂が走る。それは蜘蛛の巣のように拡散し、瞬く間に銀板を覆い尽くすと、そのまま凍てついた滝を逆流していく。


 最初は微かだったひび割れの音が、徐々に大木をへし折るような音に変化すると、それに混じって地の底から響くような低音が耳に届いた。音はやがて揺れを伴いながら勢いを増し、一際大きく横殴りするような衝撃と共に――氷の滝が崩壊した。


 渓流を堰き止めていた氷の門が決壊し、押さえ込まれていた自然の暴力が解き放たれる。増水した奔流は鉄砲水と化し、轟々と音を立てながら巨大な生き物のように襲い掛かった。

 巨大な虚殻の姿が一瞬で濁流に飲まれると、瞬きする間もなく視界が覆い尽くされる。


 全身を殴打されたような衝撃と、脳の奥から痺れるほどの冷気。一瞬にして前後不覚に陥り肺から空気が押し出される。水を掻く手足の感覚も消え、苦痛が最高潮に達した次の瞬間――脳の奥で何かが切れる音がして、そのまま微睡みに落ちていく。


――――

――


 夢現の世界に、せせらぎと砂利の音が響いている。砂利を擦る音の中に規則的な足音が混じり、下半身に伝わる痛みから――何者かに引きずられていることを理解する。


 足音が止まり、身体が河川敷へ投げ捨てられる。おぼろげな視界には突き抜けるような蒼穹と、こちらを見下ろすひとつの人影が映りこんでいた。


 その人影は漆黒のローブを纏い、逆光に陰るフードの奥には、天秤の紋章が描かれた仮面を付けている。そして双眸が覗く闇の奥には、金色に輝く一対の紋様が浮かんでいた。


 五枚一輪の花にも見える紋様が、こちらの心を見透かすように静かに揺れる。その光はまるで薬物のように脳裏に浸み込み、意識が再び泥のように溶かされていく。



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