第11話 反撃

『帰るときは、必ず――』「――二人一緒だ」


 虚殻は傷の完治を待たずして、怒りとも喜びともつかぬ唸りを上げながら、血の匂いを辿って氷柱へにじり寄った。手負いの獲物を追い詰めるように、勝利の味を噛み締めるように、ゆっくりと氷柱の影を覗き込む――が、そこには血の付着した布切れがあるだけだ。


 ヒントになったのはリッカの言葉だった。虚殻が血の匂いを追ってくるのならば、傷を負っていない――出血していない俺の動きには鈍感になるはずだ。


「ッおおおおォォォォ――!!」


 俺は氷塊を蹴って跳躍し、咆哮と共に虚殻の背面へ山刀を突き立てる。

 刃先が皮膚を裂き、肉を抉る不快な感触が両手に響く。俺は山刀の柄を握り締めて、虚殻の背に足をかけながら重力に逆らう。ちょうど虚殻の背にぶら下がるような体勢だ。


「リッカ!!」


 その声を合図に身体を入れ替えると――


「――氷華」


 リッカが間髪をいれずに術を発動し、刀傷から霜の波紋が広がっていく。

 山刀のダメージそのものに意味はない。肝心なのは――出血させること。


 虚殻は言わば巨大な筋肉の塊だ。外から全身を凍てつかせるには術の出力が足りず、力任せに氷を剥がされてしまう。しかし百パーセントが筋肉で構成されている訳ではない。


 出血するということは血液が体内で循環――液体が巡っているということだ。

 外が駄目なら、内部から凍てつかせる。


 虚殻は断末魔のような咆哮を響かせながらリッカを振り払おうとするが、彼女は手足を着氷させてそれに耐える。ここまで慣性は伝わってこないが、きっと嵐に飲まれたような衝撃だろう。


 彼女は唇を噛み締めて、両目を強く瞑りながら術を発動し続ける。

 俺は固唾を飲んで見守ることしかできない。しかし程なくして虚殻の動きが錆びた機械のように緩慢になると、ギギッ――と軋むような音を残して完全に停止する。


 リッカがおもむろに瞼を開くと、そこには歪な氷像だけが残されていた。虚殻は完全な氷塊と化しており、先ほどまでの肌を刺すような殺気も、命の気配も感じられない。


『やった……のか……?』


 湧き上がる安堵と歓喜が言葉となって零れ落ちる。しかしリッカは術を解いて銀板に着地すると余韻を噛み締める間もなく歩みを進める、と同時に脇腹を押さえてよろめいた。


「――リッカ! 大丈夫か……?」


 慌てて身体の主導権を奪いながら言葉を作る。

 胸中で揺らめく彼女の気配からは僅かな興奮、いや――動揺のようなものを感じた。


『急いでこの場を離れてください。あの咆哮は恐らく……』


 焦燥感を孕んだ言葉の意味を理解するよりも早く、眼前を影が切り裂いた。続けて銀板の砕ける音と衝撃が全身を打ち、背後へ吹き飛ばされる。

 頭の中が真っ白になりながらも何とか顔を上げると、そこには銀板を抉るように深々と漆黒の槍が突き刺さっていた。


「なん……で……」


 理解が追いつかず口を開閉していると、視界の端で何かが動いた。視線を向けると、そこには氷像と瓜二つの虚殻が嗤っていた。

 しかも一体ではない。俺たちがやってきた森の入り口や対岸の崖上にも、同じ姿の異形が散見される。その数は少なくとも十を越えていた。


 侵入した虚殻は一体だけとは限らない――里長の言葉がリフレインする。

 そもそも先ほどまで戦っていたのも、最初に遭遇したものとは別個体だった。事ここに至ってようやく彼女の言葉と虚殻の咆哮の意味に気付く。

 あれは断末魔ではなく仲間への合図だったのだろう。


 焦るな――思考を止めるな。生きるためにできることを探せ。

 そう己に言い聞かせながらフリーズしかけた思考をフル回転させる。


 リッカは戦えないし、先ほどと同じ手も通用しないだろう。

 となれば逃げ道は二つ――下流か森の中。

 森に紛れることができれば希望はあるが、入り口には虚殻が立ち塞がっている。

 下流に虚殻の姿はないが、開けた場所で逃げ切るのは至難の業だろう。


 考えれば考えるほど道が閉ざされていき、喉が絞まって呼吸すら危うくなってくる。それでも蜘蛛の糸を探るように、必死に思案を巡らせていると――


『どうして……怒ったのですか?』


 唐突にリッカがそう呟くが、言葉の意図が読めずに困惑する。


『先ほど、あなたは私の言葉に対して怒りを露にしました。あれは何故ですか?』

 先ほどとは、リッカの言った「自分が消えれば――」のことだろうか。

 確かにあの時は怒りに任せて言葉を返したが、改めて聞いても意味が分からない。


「こんなときに何を言って――」

『今だからこそ、聞いておきたいのです』


 抑揚のない語気だが、何故か今まで聞いたどの言葉よりも心に響いた。

 それほど強い、願いのようなものを覚えて、ほんの一瞬、危機的状況すら忘れて心をそのまま言葉にする。


「そんなの……当たり前だろ。お前はもう、他人じゃないんだから」


 その瞬間、胸の中に微かな光が灯ったような気がした。時間の流れが緩やかになり、姿は見えず触れることもできないのに、リッカの存在を強く――確かに感じた。


『……怒りとは……不の感情だけではないのですね。そんなことに、今更気付くなんて』


 ぽつりと呟かれた言葉の淵に、押し殺された心の残滓が見えたような気がした。しかしそれに触れるより早く、身体の主導権が奪われて現実に引き戻される。


『リッカ――!?』


 身体を奪い返そうと手を伸ばすが、意志の腕は虚しく宙を掻いた。

 崖に阻まれたように彼女の存在が遠く感じる。縋るように名を呼ぶが、彼女は視線を宙へ向けたまま動かない。こちらへにじり寄る虚殻の姿さえ、その瞳には映されていないようだ。


 リッカがおもむろに両手を掲げると、周囲に現れた菫色の寂光が、雪のように舞いながら輝きを増していく。光はやがて眼を焼くほどの奔流と化し、澄んだ共鳴が響き渡る。


 素人目にもはっきりと分かる。これはただの聖霊術ではない。今までも十分に常軌を逸していたが、これは術としての質が、いや――次元が違う。


「もし再び会えたとき、私が私でなくなっていても……どうか――」


 音と光の洪水に飲まれながら、祈るように囁かれた言葉が鮮明に届く。


「――こんな私がいたことを、忘れないでください」


 純白に染められた世界の中に、一片の言の葉が徒花のように舞い落ちた。


「根源開花――霏景ひけい・銀世界」


 光の奔流が掌上へ集束し、次の瞬間――拡散した。


 そこに音はなく、衝撃もない。光が優しく地を撫でると、景色が一変した。

まるでインクの入った水風船が割れたように、世界が白銀に塗り潰される。


 辺り一面が、氷原と化していた。

 川も、木々も、瀑声轟く滝さえも、今は彫像のように息を殺している。氷原の中に散見される氷塊は、恐らく虚殻の成れの果てだろう。


 これをリッカが――同じ人間が引き起こしたというのか。

 信じ難い光景を呆然と眺めていると、蝋燭の火が消えるように視界が暗転した。人形のように倒れかけた身体の主導権を、咄嗟に奪う。


「リッカ!?」


 声をかけるが反応はない。意識を集中させて気配を探ると、胸中を漂う彼女のそれは、まさに淡雪――触れれば溶けてしまいそうなほど弱々しくなっていた。


 その刹那――直感する。彼女の命は、今にも失われようとしている。

 次の瞬間には銀板を蹴って走り出していた。


 シンシアさん、里長、先生――誰でもいい。とにかく一刻も早くリッカを助けねば。焦りのせいか氷に足を取られて転倒し、口端から零れた血が銀板に滴り落ちる。


 地を掻くように身体を起こした次の瞬間、ピシッ――と乾いた音が聞こえた。

 たったそれだけのことで、身体が見えない手に掴まれたように硬直する。


 背後から聞こえたそれは――死神の産声だった。錆び付く首をもたげて振り返ると、一際大きな氷塊が内側から砕けて、卵の殻を破るように虚殻が這い出してきた。


 足元に転がってきた殻の破片は、よくよく見れば凍った虚殻の肉片だった。

 恐らく虚殻の周囲に複数の個体が覆い被さり、身代わりになることで表面的な凍結から免れたのだろう。一体でも生かすための苦肉の策か、あるいは守られるべき特別な個体だったのか――そんな詮無きことが走馬灯のように駆け巡る。


 虚殻は身体を掻くように氷片を払うが、しかしその動きはどこかぎこちない。見れば左下半身が赤黒く変色しており、その部分を庇うような動きを見せていた。

 恐らくは重度の凍傷だろう。今なら――逃げ切れるかもしれない。


 あまりの絶望にあてられたせいか、不気味なほど思考は冷静だった。しかし魂だけ抜け落ちたように指先ひとつ動かせない。どす黒く血走った虚殻の眼がそれを許さなかった。その瞳は既に獲物を狙うそれから、仇を滅ぼさんとする怨念の塊に変貌していた。


 虚殻が全身を震わせながら絶叫とも怒号ともつかない声を響かせると、その半身が水疱のように大きく歪んでいく。そして次の瞬間、内側から爆ぜるように巨大な腕が突出した。


 無数の腕を継ぎ合わせたような巨腕を振りかざした次の瞬間、微かな風切り音と共に肺から空気が押し出された。身体がくの字に折り曲がり、視界が溶けるように歪む。


 五感を塗り潰す衝撃、骨が軋むような異音、そして――激痛。


 氷上に全身を打ちつけながら吹き飛ばされる。無意識の絶叫に声は乗らず、呼吸さえもままならず、陸に打ち揚げられた魚のように口を開閉させることしかできない。

 滲んだ視界の中で虚殻が腕を伸ばすと、こちらの身体を壊れた玩具のように宙吊りにした。


 虚殻は獲物を品定めするように睨めまわすと、腹部に付いた口をおもむろに開く。その口端がブチブチと斜めに裂けると、袈裟斬りされたように巨大な口腔が現れた。


 咥内ではどす黒い肉が生き物のように蠢き、生暖かい腐臭が鼻を突く。しかし全身を襲う激痛に視界が霞み、思考も靄がかかったように曖昧だ。

 吊り上がった口腔が眼前に迫り、身体が飲み込まれていくのを、俺は夢現のまま眺めることしかできなかった。


 粘着質で湿った肉塊が全身を包み込み、思考が消化されるように溶けていく。


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