第10話 再起
霞む視界の中で虚殻が腕を振り下ろし、硬質な音が響き渡る。
襲い来る衝撃に目を瞑るが――しかし待てども痛みは襲ってこない。
それどころか、心地よい浮遊感が身体を包んでいた。
薄く目を開くと、銀色の前髪が風に吹かれて揺らいだ。
前方へ掲げられた腕の先には氷壁が展開され、虚殻の槍を受け止めている。
『リッ……カ……?』
無意識に腹部へ手を添えようとするが、そもそも肉体がないことを思い出す。身体の痛みは消え、意識も澄んでいた。こちら側では肉体の柵とは無縁ということか。
『出てきちゃ駄目だ……!!』
リッカが感覚を確かめるように深く息を吐く、白い煙となって宙へ消えていく。
「どうして――」
呟かれた言葉の続きは、虚殻の返す刃によって掻き消された。リッカは上段から力任せに振り下ろされた槍をバックステップでかわし、素早く掌上を前方へ掲げる。
「
その声に応じて虚殻の周囲を霜が走ると、無数の氷柱が弾丸のように突出した。
鋭い氷柱が槍となって虚殻を貫き、体液を撒き散らしながら地面をのたうち回る。
聖霊術――改めてその驚異的な力に見惚れる。
自分と変わらない年の少女が、あの化け物に傷を付けている。
この力があれば……彼女なら虚殻を倒せるかもしれない。
しかし当の本人に興奮した様子はなく、里長の懐から無骨な拳銃を抜き取った。空へ向けて引き金を引くと、炸裂音と共に紫色の煙が一直線に立ち昇る。
リッカは無造作に銃を捨てると、今度は里長に向けて手を掲げた。ギョッとしたのも束の間、氷の壁が彼の周囲を覆うと、あっというまに氷の棺が形成されていく。
その最中、ポタッ――と赤い雫がリッカの指先から落ちた。
『リッカ! 血が――』
「……かすり傷です」
十秒とかからずに棺を完成させると、リッカは再び虚殻へ向き直る。
虚殻も体勢を立て直したらしく、巨体を震わせながら低く唸りを響かせた。見れば裂傷から覗いた肉が意志を持ったように蠢き、黒煙をあげながら癒着していく。
虚殻は槍を眼前へ掲げると、穂先に付いたリッカの血を蛇のように舐め取った。
無数の口端が歪に吊り上がり、全身を震わせるように声をあげる。
化け物は――嗤っていた。その眼は新しい玩具を見つけた子供のような好奇の色を湛え、同時に獲物を決して逃すまいと狙う獰猛な野生を秘めていた。
その光景に、先ほど浮かんだ希望が一瞬にして鎮火する。
やはりアレと戦うなんて無茶だ。
いくら神がかった異能を秘めていても所詮は人の子。肉が裂ければ血が流れ、簡単には癒えない。しかしリッカは毅然として虚殻と相対する。
『戦う……つもりなのか?』
「里までは一キロ以上あります。馬なしでは逃げ切れません」
『そういうことじゃ……ッ!』
そこまで言って唇を噛む。今の俺に、何を言う資格がある?
リッカの判断は正しい。それに俺は、彼女の力を目の当たりにして安堵した。
虚殻に勝てるかもしれないと。そして自分が、戦わずに済むと。
そんな自分に彼女を諌める資格はない。俺は……どうしようもなく無力だ。
「……分からない」
リッカの呟きを掻き消すように虚殻が哄笑すると、槍を地面へ突き立てた。
槍を起点に不可視の波紋が拡散すると、直後――漆黒の蔦が地面を突き破り、触手のように襲いかかって来た。
リッカが素早く両手を薙ぐと、瞬時に凍結した蔦を氷の刃が刈り飛ばしていく。
それを見た虚殻がガチガチと歯を鳴らしながら前傾姿勢を取った。リッカが素早く氷刃を生成するが、虚殻は四肢で地を掻くように跳んでそれを避ける。
「出力が足りない……なら――」
そう独り言ちると、こちらへ向き直った虚殻に対して、リッカは自分から突進した。その動きに意表を突かれたのか、虚殻は動きを止めてその場で迎撃体勢を取る。
槍を斜めに振りかぶり、リッカの突撃に合わせて薙ぎ払う。しかし刃が届くより半歩早くリッカが踏み切ると、その足元から氷塊が勢い良く突出した。
氷塊のカタパルトに射出され、虚殻の頭上を越えて跳躍すると、空中で身体を反転させながら樹幹へ着地する。
靴底を氷で接着させて体勢を維持しながら、再び術を発動――木々を支柱として氷の滑り台を生み出すと、樹幹を蹴ってそれを滑走する。
タッチの差で、樹幹を抉る槍の音が背後から響いた。
リッカは坂の終点から跳躍し、地面を転がって勢いを殺す。しかし立ち止まることなく、虚殻に背を向けて一直線に走り出した。先ほどリッカが言ったように、人の足では逃げ切ることは難しいだろう。ならば目的は別にあるはずだ。
鬱蒼とした林を駆け抜けること数分、唐突に視界が開けた。
足元には幅四十メートル、高さ十メートルほどの峡谷が広がっていた。滝から流れる渓流が勢いよく音を立て、さらにそれを掻き消すような瀑声が響いている。
里長の言葉を思い出す。ここが彼の言っていた水飲み場か。
彼女は再び氷の坂を作り出して渓谷を滑り降りると、渓流を掻き分けながら歩みを進める。川の中ほどで踵を返すと、木々の折れる音と共に虚殻が姿を現した。
虚殻は醜悪な笑みを浮かべると、獲物を追い詰めるように距離を詰めてくる。
「……ナツさん。山刀を」
『山刀……?』
言葉の意味が分からずに聞き返すと、
「私が表に出てから見当たりませんでした。なら、今も貴方が持っているはずです」
確かに先ほど山刀を持ったまま入れ替わったが、今はそんな実感はない。
「一瞬だけ入れ替わります。その間に山刀を上へ投げてください」
そう言ったのも束の間、肉体の主導権が入れ替わり、映像と感覚がリンクする。
脇腹を襲う鈍痛と膝下まで覆う水の冷気、そして手中に圧し掛かる質量。
視線を落とすと、そこには確かに山刀が握られていた。
しかし感嘆の声をあげる暇もなく、言われたとおり山刀を投げる。
次の瞬間には再び感覚が失われていた。俺の手を離れた山刀はそのまま宙を舞い、リッカが逆手に掴み取る。
彼女の推察通り、俺たちは周囲の物体を巻き込みながら入れ替わっているらしい。確かにそうでなければ、俺たちが別の衣服を身に纏っていられるはずがない。
『それで……どうするつもりだ?』
リッカが山刀を水へ潜らせると、濡れた刃が凍結して妖しく輝いた。
「私の聖霊術は物質の三態を操作する、相転移の力です。同じ氷でも、気体を転移させる凝華よりも、液体を転移させる凝固のほうが圧倒的に少ない力で発動できます」
そう言いつつ川から片足を引き上げて踏み出すと、靴底に触れた水面から凍結の波紋が広がり、瞬く間にスケートリンクのような美しい銀板が形成された。
「これでようやく――
そう言って銀板を蹴るように距離を詰めると、虚殻も氷を踏み砕きながら槍を振り回すが、しかし砕いた先から凍結する氷に足を取られて思うように動けない。
リッカは余裕を持って槍をかわし、虚殻の側面へ回りつつ氷刃を放つ。刃が無数の裂傷を刻み込むが、虚殻は痛みなどお構いなしに槍を薙ぎ払った。
視界の端で虚殻の裂傷が見る見るうちに塞がっていく。確かにリッカは地の利を得たが、このままでは先ほどの焼き増しだ。消耗戦になれば彼女に勝ち目はない。
しかしそんなことは彼女も承知の上だろう。それにひとつ疑問がある。
『どうして距離を取らないんだ?』
先ほど見た限り、彼女の聖霊術の有効射程は少なくとも十メートルはある。対して虚殻の攻撃範囲は、槍の投擲にさえ注意していれば五メートルもない。
「……意外と冷静ですね」
それはこっちの台詞だ。彼女は先ほどから何度も致死の一撃をかわしながら、顔色ひとつ変える様子がない。まるで恐怖という感情が欠落しているようだ。
「見ての通り、私の出力では奴の再生力を上回ることはできません。だからこそ根本を叩く必要があります」
そう言ったのも束の間、リッカは再び銀盤を蹴って攻勢に出る。滝から生まれた飛沫を肌に受けながら指先を足元へ走らせると、銀盤が刃と化して虚殻へ襲い掛かる。
虚殻がそれを槍で薙ぎ払い、反撃の一歩を踏み出した瞬間――足元の氷が砕けて水没・即座に凍結して氷の枷と化す。銀盤を変形できるということは即ち、意図的に氷の薄い場所を生み出すこともできるということだ。
「
呼応するように銀板が内側から爆発すると、立ちこめた白煙によって視界が覆われる。これも相転移の応用――空中の水蒸気が結露したことで発生した聖霊術の霧だ。
リッカは虚殻の背後へ回り込みつつ身体を反転させて踏み込むと、山刀を小脇へ引き絞りつつ刺突の構えを取る。ここまでの流れは完璧に思えた。だからこそ俺は、もしかしたら彼女も――心のどこかで慢心していたのかも知れない。
山刀の刃が届く寸前、虚殻の背中を突き破るように――槍が飛び出した。
「――ッ!?」
穂先が山刀と接触して音を響かせると、軌道のずれた刃がリッカの脇腹を切り裂いた。銀板を彩る二色の血飛沫によって、ようやく事態を悟る。
虚殻は切腹の要領で槍を突き刺し、己の身体を貫いて背後の彼女へ攻撃したのだ。
リッカは咄嗟に銀板を蹴って距離を取り、氷柱の影へ転がり込む。視線を落とすと、肩で息をする彼女の呼吸に合わせて、脇腹の傷から鮮血が溢れ出した。
狼狽した俺は、ただ彼女の名前を呼ぶことしかできない。
しかし彼女は冷静に傷口へ手を添えると、血を凍らせて止血した。
僅かな安堵と恐怖が同時に脳内を駆け巡る。
自傷を省みない野生に反した行動――知性ある獣にしか成せない技だ。
運良く逸れて絶命には至らなかったものの、戦況を覆すには十分すぎる一撃だった。戦力を奪われ、死角からの一撃も通用しない。作戦が前提から瓦解した。
何故――と疑問が浮かんだ次の瞬間、身を寄せていた氷柱が頭上ギリギリの位置から破砕され、氷塊に交じって投擲された槍が転がっていくのが見えた。
濃霧の奥から怒気を孕んだ唸り声が響いてくるが、切腹は虚殻にとっても深手だったのか追撃の気配はない。先ほどの投擲も怒りに任せた行動だったのかもしれない。
そこまで考えて、先ほど浮かびかけた疑問が再び脳裏を過ぎる。
何故、虚殻は霧の中でリッカの動きを読めたのか。あの諸刃の一撃も今の投擲も、こちらの位置を正確に把握しいなければできない芸当だ。
「そういうこと……ですか」
彼女も同じ疑問と、それに対する結論を導き出したらしい。リッカは林での交戦で刻まれた肩口の傷に触れ、付着した血へ視線を落としながら呟く。
「血の……匂い。どうやら奴は視覚ではなく……嗅覚で獲物を追っているようです」
愕然とすると同時に、得心がいった。
リッカの仮説が正しければ、先ほどの行動にも辻褄が合う。見えていれば、氷柱の裏にいる彼女に向けて当たりもしない槍を投げるはずがない。
しかしそれが分かったとしても後の祭りだ。虚殻の傷はすぐに塞がるだろうが、彼女はそうはいかない。例え止血ができたとしても、まともに動くのは不可能だろう。
――どうすればいい? 俺になにか……できることは――
「……落ち着いて……ください」
彼女は浅い呼吸を繰り返しながら呟いた。
『もう喋らなくていい! 早く身体を代わってくれ! 後は……俺が……』
そう言って意識の手を伸ばすが、しかし彼女はそれを取ろうとしない。
「どうして……ですか……?」
リッカはそう言って深く息を吐くと、
「肉体は共有されていない……なら私が殺されても……貴方に危害は加わりません」
独り言ちるように、何かに懺悔するように――言葉を続ける。
「むしろ……私が消えれば……あなたは自由になれるのに――」
『ふッ……ざけんな!!』
脳が認識するよりも早く――心が叫んでいた。
『お前がいなくなって喜ぶと……本気で思ってんのか!?』
こんなのは八つ当たりだと分かっている。自分を棚に上げた幼稚な行為だと。
それでも、独りで全て背負い込んでしまうリッカの強さが、そして何よりも彼女にそんなことを言わせてしまった自分の弱さが――悔しかった。
リッカは俯いたまま答えない。その表情も心中も、推し量ることはできない。
『……ごめん。けど、二度と……そんなこと言わないでくれ』
そう呟くと、改めて思考を稼働させる。
感情を吐き出したおかげか、先ほどよりも冷静に物事が考えられる。見えなかったものが、聞こえなかったものが――今なら分かる。
俺にもまだやれることはあるはずだ――と、言い聞かせるように言葉を続ける。
『帰るときは、必ず――』「――二人一緒だ」
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