第9話 死ぬよりも怖い

「里長! シンシアさんが――」

「案ずるな。あの程度に遅れを取るほどヤワではない」


 里長はそう言いながら、脇目も振らずに馬を走らせる。その迷いのなさはシンシアさんへの信頼の表れなのだろう。しかし頭では分かっていても不安は拭いきれない。

 虚殻――この世のものとは思えない異形にして暴力の塊。


「どうして……アレが結界の中に?」

「……分からん。こんなことは十年間、一度も……」


 里長の表情は分からないが、背中越しに苦虫を噛み潰したような声が生まれた。


「侵入した虚殻は一体だけとは限らない。すぐに住民たちを避難させねば」


 そうだ――まだ危機は去っていない。

 戦うことはできずとも、自分にもできることはある。里長は己の役割を誰よりも理解しているのだろう。手綱を軽快に操りながら、入り組んだ森を素早く抜けていく。


 土を蹴り、茂みを突き抜け、低木を飛び越える。

 そ次の瞬間――馬が見えない壁にぶつかったように急停止した。

 里長が手綱を操るも、馬は興奮した様子で首を振りながら暴れる。それでも俺たちが振り落とされなかったのは、馬の脚が動かなかったからだ。


「下だ!!」


 その言葉に視線を下げると、馬の四肢に何かが巻きついているのが見えた。蛇のように螺旋を描きながら馬の身体を這い上がってくるそれは、漆黒の蔦だった。

 里長に手を引かれて鞍を降りようとするが、馬の身体から伸びた蔦に足を取られる。大蛇のような力で足を締め上げられ、激痛に喉の奥から苦悶が湧き上がる。


 直後――里長が気合と共に山刀を振り抜くと、蔦が切れて足が解放された。

 彼に引き起こされて背中合わせに周囲へ注意を向ける。

 見れば無数の蔦が蛇のように地面を爬行し、遠巻きに首をもたげていた。

 背後で馬が必死に暴れるが、既に身体の半分を蔦に絡め取られている。

 足が奪われた――逃げられない。


「……近くにいる」


 そう呟くと、里長は浅く腰を落として山刀を構えながら注意深く周囲を観察する。

 一瞬の静寂の後、ギッ――と軋むような音が上から聞こえた。

 里長に突き飛ばされた直後、樹上から降った巨大な影が馬を踏み潰し、絶命の嘶きが響き渡る。虚殻は蛇のように上体をもたげると、無数の眼球でこちらを捉える。


 先ほどの虚殻……いや、微妙に形状が違う。

 恐らく別個体――里長の言ったとおりだ。


 虚殻は無数の口を不気味に歪ませると、槍を振り上げながら獲物に襲い掛かる。

 狙いは大きく体勢を崩した――俺だ。


 直後、鼓膜を裂くような爆音が響き、虚殻の身体が弾かれるように揺らいだ。

 振り返ると里長が猟銃のボルトを引いて排莢し、銃口から薄い白煙が立ち昇った。

 里長は素早く次弾を装填し、虚殻に向けて引き金を引く。

 炸裂音と共に発射された弾丸が虚殻の身体を貫くと、怨讐の混じった絶叫とどす黒い体液をまき散らしながら後ずさった。


「立て!」


 里長はこちらへ駆け寄り、虚殻へ銃口を向けたままそう叫んだ。その背中越しに異形が蹲るように巨体を丸めているのが見えた。里長の反撃に怯んでいるのだろうか。


「走れ!」


 その声に身を翻そうとした刹那、視界で虚殻の巨躯が微かに縮んだ。

 見れば虚殻が上体を大きく捻り、ギリギリと肉の緊張する音を響かせている。

 咄嗟に行動の意味を理解できなかった。しかし思考に反して本能が警鐘を鳴らす。

 次の瞬間、捻れたゴム毬のように蓄えられた力が――解放された。


 虚殻の上体が残像を残すほどの速度で回転し、そこから黒い影が放たれる。

 直後――里長が車に撥ねられたように宙を舞った。

 遅れて微かな風切り音と強烈な金属音が耳に届き、里長の身体が打ち捨てられたボールのように地面を転がる。


「里長!!」


 咄嗟に駆け寄ると、彼は肩口を押さえながら呻きを漏らした。

 彼の後方には虚殻の槍と、銃身から真っ二つに折れた猟銃が転がっている。

 恐らく虚殻の投擲を咄嗟に銃身で受け止めたのだろう。しかし威力を殺しきることはできなかったようだ。ローブに血が滲み、肩から下は力なく垂れ下がっている。


 ――止血――逃げないと――里長を抱えて――無理だ――どうすれば――

 いくつもの選択肢が浮かんでは消え、頭痛が響き、喉が絞まり、呼吸が加速し――


「……ナツ」


 その声にハッとして顔を上げる。里長は瞼を薄く持ち上げて、真っ直ぐにこちらを見つめながら、食いしばった歯の隙間から言葉を搾り出した。


「……逃げ……ろ」


 そう言い残すと、蝋燭の火が吹き消されるように瞳から光が消えた。

 気を失ったのか、抱えた身体がずっしりと重くなる。


 ギギッ――と不快な音に視線を上げると、虚殻が歯軋りをするように歪んだ笑みを浮かべていた。


 里長の言葉が脳内でリフレインする。

 敵はあの虚殻――俺が敵う相手ではない。

 かといって里長を抱えて逃げるのも不可能だ。

 ならば選択肢はひとつ――彼を置いて逃げるしかない。


 ――それしか……それしか方法は……ない……。


 里長の身体をそっと地面に降ろし、震える膝に手を突いて立ち上がる。

 

 ――逃げろ。逃げろ。逃げろ。


「逃げ……ろ……」


 震える両手で山刀を拾い、里長を背に虚殻へ向き直る。

 言葉とは裏腹の行動に戸惑う余裕もないまま、不恰好に山刀を構えた。


 眼前で牙を剥く虚殻に微かな既視感を覚える。

 病床に伏していた際に何度も覚えた、濃密で冷たい粘液のような気配。全身を飲み込み、呼吸器から体内へ侵入し、心臓を内側から凍らせるような感覚。

 そこには形をもった――死そのものが存在した。


 ……死にたくない。死ぬのが……怖い。


 ……怖い……けれど……ここで逃げたら、自分の中にある何かが壊れてしまうような――繋いだ命の意味が消えてしまうような気がした。


 それは……死ぬよりも怖い。


「うわああああ!!」


 悲鳴混じり咆哮と共に虚殻へ突進し、山刀を振りかざした次の瞬間、視界が横へ飛んだ。肺から空気が押し出され、地面を数メートル転がってようやく止まる。


 遅れて脇腹に激痛が走り、口の中に泥と血の味が広がっていく。

 視界の端で、虚殻が振りぬいた腕を揺らしながら全身を震わせるように嘲笑した。


 脳裏に誰かの声が遠く響き、それに答えるように口端から言葉を零す。


「……死にたく……ない」


 浅い呼吸に水音が混じり、腹部の激痛は鼓動のように疼き、四肢の感覚も曖昧だ。

 それでも握り締めた拳を地に突き、震える両足に鞭を打って立ち上がる。


 ――なら……どうして立ち向かう?


 激痛に溺れ、朦朧とする意識の中で己に問いかける。

 再び腕を振り上げる虚殻を視界に捉えながら、無意識のまま言葉を零す。


「……けど……。……かい……したく……ない……」


 霞む視界の中で虚殻が腕を振り下ろし、硬質な音が響き渡る。

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