第8話 再び
その日は昼食を摂り終えると、シンシアさんに連れられて里外れの馬房へ向かった。そこには既に里長の姿があり、二頭の馬に鞍を装着しているところだった。
「おはようございます。今日はよろしくお願いします」
里長は横目でこちらを一瞥すると、小さく頷きながら言葉を続ける。
「狩は危険だ。気を引き締めるように」
そう――今日は結界の見回りと狩猟に付き添わせてもらうことになったのだ。
シンシアさんは里長から手綱を受け取ると、こちらを手招きで呼んだ。前の世界でも乗馬の経験は皆無――馬を生で見たことすら片手で数えられるほどしかない。
二人のサポートを受けながら何とか鞍に跨ると、シンシアさんは慣れた動きで俺の後ろに乗馬し両脇から手綱を握った。背後から抱きかかえられる体勢になるため少し気恥ずかしかったが、そんな羞恥心も馬が歩き出すとすぐに霧散した。
蹄が地面を踏みしめる度に、力強い鼓動が全身に響いてくるようだ。自転車や車では決して味わえない、馬を通して自然と一体になったような感動を覚える。やがて馬の歩調にも慣れ、心地よい揺れに身を任せながら静謐な森の中を進んでいく。
こうして森の中にいると、この世界に来たときのことを思い出す。右も左も分からない状態で目を覚ましたのも束の間、無差別に人を襲う異形――虚殻に襲われた。
あのとき二人の助けがなければ、自分は間違いなく犠牲になっていただろう。
あれほど死が間近に迫ったのは、病気を除けば初めてのことだ。
今までは里という文明に守られていたから薄れていたが、こうして再び自然の中に身を投じると改めて実感する。この環境において自分が無力な存在であることを。
「緊張してる?」
見透かされたようなシンシアさんの言葉に、小さく肩が跳ねる。
「そう……ですね。狩もそうですが、見回りなんて初めてなので」
「見回りといっても結界の外に出たり、ましてや戦ったりしないから安心して」
シンシアさんは悪戯っぽく微笑み「ほら、もう見えてくるよ」と続けながら前方を指差した。その先に現れたのは――いかにも古色蒼然とし大樹。
心御柱ほどではないにせよ、こちらも十分に荘厳な趣がある。
苔むした樹幹の中ほどには、既視感のある注連縄が巻かれていた。
シンシアさんに手を引かれて馬を降りると、彼女は手綱を里長へ渡して樹へ近付いてく。その後に続くと、ふと景色に違和感を覚えた。
大樹の背後――何もないはずの空間が薄っすらと紫に色付き、オブラートに包まれているように景色がぼやけている。
「ここまで近付くと見えるでしょ? 結界」
その言葉に頷きを返しつつ、改めて幻想的な帳を観察する。
これが文字通り見えない壁となって虚殻の侵入を防いでいるということか。シンシアさんはその様子を見て満足げに微笑むと、大樹に手を添えながら言葉を続ける。
「そしてこれが心御柱の支柱だよ」
「……支柱?」
「そう。支柱はその名の通り、結界を支える存在。心御柱が結界を展開するのに対して、支柱はそれを固定する役割を持っているの。これと同じものが里の周りをぐるっと囲っていて、それらがちゃんと機能しているか確認するのが見回りってこと」
そう言って目を伏せると、シンシアさんの掌が共鳴するように淡い光を帯びた。
「支柱にはね、結界に関わる色んな記憶が蓄積されているの。例えば結界の外に張られた探知術式とも連動していて、近付いた虚殻なんかも確認できるんだよ。ほら、覚えてる? ナツ君と初めて会ったとき、近くに光る注連縄があったでしょ?」
なるほど――虚殻の出現と同時に輝きだしたのはそういう原理だったのか。
「実はあの時も見回りの最中だったんだよ。今みたいに支柱を確認していたら、近くで虚殻以外の気配がして……まさかと思ってね」
「そうだったんですね……」
地獄で仏に会ったようだと思っていたが、まさか裏でそんなことが起きていたとは。俺たちがシンシアさんに会ったのも、ある意味必然だったということか。
そんなことを考えていると、チリッ――と、首の後ろを刺されたような感覚を覚える。咄嗟に振り返るが、そこには深い森が静かに佇んでいるだけだった。
「よし、問題なさそうだね。……ナツ君、どうかしたの?」
小首を傾げたシンシアさんに、燻る違和感を飲み込みつつ言葉を返す。
「いえ……何でもないです」
「……そう? それじゃあ次は狩だね」
シンシアさんに続いて再び乗馬すると、里長が手綱を操りながら口を開く。
「ここから北西に水のみ場がある。今は風上だから少し移動して回り込むぞ」
風下から近付くのは、臭いで獲物に感づかれないようにするためだと聞いたことがある。まさか実践するとは思わなかったが、人生何が起こるか分からないものだ。
そんなことを考えつつ、何の気なしに話題を作る。
「狩って……シンシアさんは弓を使うんですか?」
「もちろん猟銃や罠も併用するけどね。むしろ今はそっちの方が主流かな?」
「罠なら俺にもできますかね?」
「実際に獲物が捕れるかどうかは別として、基本的なルールを学んで罠を設置するだけなら一週間もかからないんじゃないかな?」
なるほど――前の世界にいた頃は考えもしなかったが、もしかしたらそういう道もアリなのかもしれない。選択肢は多いに越したことはないだろう。
「弓や猟銃はやっぱり難しいんですか?」
「そうだねぇ……猟銃はそこまでじゃないけど、弓はそれに比べると段違いだからね。よっぽどの理由がない限りオススメはできないかなあ」
「それじゃあシンシアさんは、よっぽどの理由があったってことですか?」
「……私の場合は狩がしたかったんじゃなくて、武器が欲しかったんだよね」
そう言って矢筒を背負い直すと、シンシアさんは遠い目をしながら言葉を続ける。
「初めて弓を持ったのは……十歳だったかな。あの頃は猟銃なんて持てないし、けど何かせずにはいられなかったんだよね。だから里長に無理やり頼み込んだの」
彼女が十歳の頃と言えば、九年前――里が襲われた翌年だ。たった十歳の少女がその考えに至るまでにどれほどの苦悩と葛藤があったかは想像もできない。
「まぁここだけの話、私の方が弓上手くなったから里長は猟銃に鞍替えしちゃったんだけどね」
こちらの様子を察してか、彼女は場を和ませるように声を潜めながらそう言った。
「……聞こえているぞ」
背中越しに飛んできた里長の言葉に、シンシアさんは悪戯っぽく舌を出した。こちらも笑みを返しつつ、しかし心の中では微かな不安を抱いていた。
十歳の少女が武器を取る世界――改めてその過酷さを認識する。
浅く目を伏せて煩悶としていた次の瞬間、唐突に馬が停止した。何事かと視線を上げると、里長が拳を浅く掲げて停止のハンドサインを出していた。
疑問を口にしかけた次の瞬間、前方の茂みから影が飛び出す。
それは、立派な角を持つ牡鹿だった。
鹿はこちらの横を風のように駆け抜けると、一足飛びで背後の茂みへ消えていく。
振り返った視界の端で、シンシアさんは鹿の行方を一瞥もせず、睨みつけるように前方を凝視していた。その双眸が見開かれていくのをスローモーションに捉えながら、俺の脳裏にはいくつもの疑問が走馬灯のように過ぎっていた。
シンシアさんの視線の理由、何かから逃げるような牡鹿の行動、そして骨の髄から凍てつくような悪寒の正体。既視感のある悪寒の発生源は、鹿が現れた茂みの奥――
「――逃げて!!」
シンシアさんが叫ぶと同時、里長が手綱を引いて馬を翻した。
直後――茂みから飛来した物体が馬の体を貫くと、悲痛な嘶きを響かせながら倒れ落ち、里長が地面の上に投げ出される。
「里長!!」
シンシアさんが素早く馬を降りて彼の元へ駆け寄る。馬上に取り残された俺は唖然としたまま、その様子を眺めることしかできなかった。倒れた馬の胸部に深々と突き刺さったそれは、歪に捻れた細長い樹木のような見た目をしていた。
その槍を、その持ち主を――俺は知っている。
倒れた馬はピクリともせず、周囲に血溜まりが広がっていく。
しかし投げ出された里長は幸いにも怪我はないらしく、シンシアさんの肩に掴まりながら身体を起こした。
二人は茂みの奥を睨め付けながら慎重にこちらへ後ずさる。二人も自分と同じものを感じているのだろう。心を飲み込まんとする、波濤のような気配を。
脳内で警鐘が鳴り響き、思考がぐちゃぐちゃに掻き乱される。眩暈と恐怖で歪んだ視界の奥から、茂みを押し潰し、木々を掻き分けるように巨大な影が現れた。
忘れもしない――複数の身体を継ぎ合わせたようなその姿は、かつて自分たちを襲った虚殻だ。初めて相対したときの恐怖がフラッシュバックする。
本能が逃げろと叫んでいるのに、身体は凍りついたように固まっている。虚殻は馬に刺さった槍を無造作に引き抜くと、下手な粘土細工のような無数の口を歪める。
「キャハハ――ァハハハハキャ――ァハハハャハ」
狂喜を孕んだ叫喚の重奏が大気をビリビリと震わせると、それに当てられた馬が興奮して鼻を鳴らしながら前足を撥ね上げる。
体勢を崩しかけた次の瞬間――三つの影が同時に動いた。
里長が素早く鞍に跨って手綱を取り、馬を制動しながら素早く反転させる。
しかし虚殻はこちらを逃がすまいと、巨体を振り回すように槍を投擲するが――寂光の矢がそれを打ち落とし、シンシアさんが新たな矢を番えながら背中越しに叫ぶ。
「行って!!」
その言葉に里長が手綱を操ると馬が走り出し、景色が風のように過ぎ去っていく。
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