第7話 賭け
里長と別れて帰路につき、おもむろに歩みを進めながら、俺はひとつの決意を固めていた。それは――他でもないリッカについて。
彼女の身に起きた不幸に対して、自分はあまりにも無力だった。
だから今日まで適度な距離を保ち、必要以上に刺激しないように努めてきた。
いや……時間が解決してくれるだろうと、目を背けてきたのだ。
しかしこのままでは何も変わらない。
この選択がどう転ぶかは分からないが、何もしないまま後悔はしたくない。
もう病床に伏していた頃とは違い、身体は動くし声も出せる。
――俺は今この世界で生きているのだから。
歩きながら己の胸に手を当てると、胸中で声なき言葉を作る。
『リッカ……聞こえてるか?』
返事はない――が、そこには確かな命の気配を感じる。
この数日で朧げながらリッカの気配を察知できるようになった。気配には波――或いは濃淡のような揺らぎがあり、それは恐らく彼女の意識の強さに比例している。
つまり今の彼女には意識があり、こちらの言葉も届いているはずだ。
「……勝手にやらせてもらうぞ」
シンシアさんの家に戻って報告を終え、あるものを借りて再び外出する。まだ朝の残り香に包まれた大通りを進み、記憶を頼りに辿り着いたのは、リッカの生家だ。
初めてここに来た夜のことを思い出す。彼女の絶望は自分如きには計り知れない。浅い憐憫だけで彼女に同情するなんて幼稚だと思う。しかし、それでも――
蝶番の軋む扉を開け、記憶を頼りに目的の部屋を目指す。数日振りに訪れたリビングは、相変わらず時間が止まったような静寂に包まれていた。
以前は夜だったため気付かなかったが、床には割れた窓ガラスの破片や落ち葉が散乱し、雨風に腐食された家具は所々剥げ落ちて想像以上に酷い状態だった。しかし十年もの間放置されていたことを考えると、原型が残っているだけまだマシか。
俺は静かに気合を入れなおすと、シンシアさんから借りてきた掃除用具を広げて行動を開始する。箒で床を掃き、散乱したガラスや落ち葉をゴミ袋に放り込んでいく。
三往復ほどしたところで、耳の奥からポツリと声が生まれた。
『……何をしているのですか?』
箒を動かす手が止まりかけるが、すぐに何食わぬ態度で再開する。
「見れば分かんだろ――掃除だよ」
『どうして貴方がそんなことをしているのかと聞いているのです』
会話の接ぎ穂は掴んだ。
しかしこれはリスクの大きい賭けだ――慎重に言葉を選んでいく。
「いつまでもシンシアさんの家を間借りする訳にもいかないだろ。だから今日からここに住むことにした」
『……はい?』
苛立ちの混じった声が聞こえてきたが、それを無視して掃除を続ける。
『勝手なことをしないでください』
「言っただろ、勝手にやらせてもらうって」
ゴミ袋を手に取ると、割れた皿や欠けた小物をあえて乱雑に放り込んでいく。
「お前が外の世界を拒絶するなら、そこにあるものはどうでも良いってことだ。だったらそれをどうしようが、俺の勝手だろ。他の人ならともかく、お前に言われる筋合いはない」
そう言ってリッカと父親が写った写真立てを手に取ると――
「お前がどう思おうが――知ったことか」
見せ付けるようにゴミ袋の上で手を離す。
「――やめて!!」
突き飛ばされるような感覚と共に身体の主導権が奪われる。リッカは写真立てを寸でのところで拾うと、髪を振り乱したまま静かに肩を震わせた。
『……大切なんだろ、それ』
呟くと、彼女はおもむろに写真へ視線を落とした。
今の彼女は膨れ上がった風船のようだ。溢れ返るほどの感情を独りで抱え込み、張り裂けそうな身を必死に押さえつけている。だが、それも長くは保たないだろう。
そして一度破裂したら最後、二度と元には戻らない。だから今ここで、無理やりにでも吐き出させる。それが俺に向けられた怒りであっても構わない。
「……知ったような口をきかないでください。何も……知らないくせに」
『確かに……俺は何も知らない。この世界のことも、リッカのことも。だけど……だからこそちゃんと知りたいんだ。俺はまだ、お前の口から何も聞いてない』
俺は心の中に渦巻く影を振り払うように、必死に言葉を紡いでいく。
『身体がひとつになっても、俺にはリッカの苦しみを代わることはできない。その痛みはリッカにしか乗り越えられない。けれど、それを手伝うことはできるはずだ』
彼女に届けと祈りながら、見えない手を伸ばすように言葉を続ける。
『悲しいなら泣いていいし、理不尽に怒ってもいい。ひとりで受け止めきれないなら、身近な人にぶつけたっていい。俺も、それにシンシアさんも……きっと受け止めてくれる』
彼我の間に重い沈黙が流れる。今の俺にできることは、これが限界だ。
「……分かりません。自分の気持ち……なんて……」
ややあってからリッカは写真立てをテーブルへ戻すと、そう言い残して再び中へ戻ってしまった。この選択が正しかったかどうかは、誰にも分からない。
けれど俺は初めて、リッカの言葉を聞いた気がした。
翌朝――いつものようにダイニングへ降りると、シンシアさんが満面の笑みでこちらを振り返った。
「ナツ君、これ!」
そう言って彼女が示す先には、綺麗に洗われて水切りかごに並べられた食器があった。だが俺たちはまだ食事を摂っていない。だとすればこれは――
胸に手を当てると、そこにある鼓動はひとり分だが、確かにもうひとりの存在を感じた。目に見えなくても、触れることはできずとも、言葉は届いた。
「……俺たちも食べましょう。何か手伝えることはありますか?」
「うん……お願い! よぅし、今日は腕によりをかけて作っちゃうよ!」
そう言って袖をまくるシンシアさんへ笑みを返しつつ、彼女と並んで台所へ立つ。
きっと全て上手くいく。自分へ言い聞かせるように、内心で独り言ちる。
どんなに絶望的な状況に思えても、諦めなければ必ず幸福は舞い込んでくるのだ。
一度は諦めた命にも、こうして未来があったように。
だが――禍福は糾える縄の如し。
その逆もまた起こり得ることから、俺は無意識に目を逸らしていた。
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