第6話 暗澹
この里に来てから驚いたことのひとつ――それは通貨が流通していないこと。
食事や買い物、インフラにも通貨は不要で基本は助け合い、或いは物々交換でやり取りされている。ただしこれはこの里が例外であって、他の教区では普通に流通しているらしい。今は月に一度行われる隣の教区との交易で、僅かながらの換金が行われる程度とのことだ。
とは言え元手を持たない自分にとっては好都合――働かざるもの食うべからずだが、逆を言えばここでは身ひとつでも衣食住には困らない。
この世界に来て三日が経過したが、その間に薪集めや山菜取り、家畜の世話から建物の修理まで様々な仕事を手伝った。
万年人手不足の里では、自分のような素人でも仕事に困らないのは有難い。
いきなり大都市の真ん中に飛ばされるより、この里で拾われたのはむしろ運が良かったのかもしれない。
このまま何事もなければ、二週間後の交易馬車に乗せてもらい学都を目指す予定だ。今のところは順調に思える。だが……本当にこれで良かったのだろうか?
里の住民たちは皆、余所者である自分に対して本当に良くしてくれた。
しかしこの里を離れるということは、里の現状から目を背けるということでもある。ここで生まれ育ったリッカは――それで良いのだろうか?
この選択はシンシアさんや先生と相談して決めたことだが、そこにリッカの意志はない。この三日間、暇を見つけては彼女に話しかけてみたが、一度たりとも反応はなかった。
この日も朝食を摂りに一階へ降りると、シンシアさんがテーブルに残された食事を暖めなおしていた。彼女は毎晩三人分の食事を用意して、こうしてリッカの分を取っておく。しかしそれに手が付けられたこともまた――一度もなかった。
「おはよう。よく眠れた?」
彼女は気丈に笑顔を作るが、その目元には微かな隈が浮かんでいた。
俺は笑顔を返すと、心の中に重いものを感じつつ朝食の準備を手伝う。
朝食の後、食器を片付けていたシンシアさんが思い出したように口を開いた。
「あ、そうだナツ君。ちょっとお使いを頼まれてくれないかな」
布巾をかけていた食卓から視線を上げると、小さな包みが差し出される。
「里長へお弁当を届けて欲しいの。今日は罠の設置でお昼もいないはずだから。多分この時間はいつもの場所にいると思う――地図を描くからちょっと待っててね」
シンシアさんからメモを受け取り、小包を抱えて外へ出ると、冷たい風が肌を刺した。そういえばこちらの日付を聞いていなかったが、おそらく冬入りの季節だろう。
メモを頼りに里外れまで歩くと、城壁のように切り立った崖と、崖上へ続くゆるやかな坂道が現われた。枕木の敷かれた坂道を登り切ると、眼前には深い森への入り口が広がり、一部には奥へと続く獣道らしきものが拓かれている。
そのまま横へ目を向けると、崖際をなぞるように木製の柵が並び、舗装された道には簡素なベンチが置かれている。崖上からは里が一望でき、日当たりも良いため、以前は人気の散歩コースだったのかもしれない。
そしてベンチにはひとつの人影――里長が浅く腰掛けたまま遠くを見つめている。
以前のにべもない態度を思い出し、僅かな緊張を覚えつつ近付く。残り数歩のところで里長はおもむろにこちらを一瞥した。相変わらずの眼力に怯みそうになる。
「あの……これ、シンシアさんからお弁当です」
「……かたじけない」
おずおずと小包を差し出すと、里長はそう言って受け取り、再び視線を前へ戻した。その視線を追うように振り返ると、改めて崖上からの景色を一望する。
蒼穹の下には、天を突くような心御柱。それを中心として同心円状に広がる街並みは、精巧なパズルのように噛み合っており、どこか荘厳な趣を感じさせた。
「……綺麗ですね」
自然と零れた言葉に、里長も頷きを返す。
彼我の間に沈黙が流れるが、どこか居心地の良い時間だった。
そのまま景色に浸っていると、ややあってから里長がおもむろに口を開く。
「……行く宛は見つかったのか?」
「……はい。二週間後に学都へ行って、そのまま星辰学院に入学するつもりです。シンシアさんも色々とサポートしてくれるそうなので」
「そうか……シンシアなら上手くやってくれるだろう。……あの子も里のことは忘れて、自分の道を進んでくれると良いのだが」
独り言ちるように付け加えられたその言葉に、違和感を覚える。
「シンシアさんは、任務でこの里にいるんじゃないんですか?」
「自分ではそう言っているが……十中八九、教会の遺志にはそぐわぬ行動だろう。庇護を解いた里にひとりだけ術師を派遣する理由などないはずだからな」
なるほど、言われてみればその通りだ。シンシアさんは恐らく故郷のために独断で行動しているのだろう。しかし彼女を案じればこそ、それは望ましくない。
……が彼女の気持ちも分かる。
里だけならまだしも、ここには血肉の通った住民がいるのだから。
しかしそうなると疑問が浮かぶ。
シンシアさんが憂いているは住民たちの安全――それを里長が理解していないとは思えない。それでもここに残るには相応の理由があるはずだ。
「里長は……皆さんは、何故この里に残っているんですか?」
その言葉に再び沈黙の帳が降りる。無遠慮だったかと不安を覚えていると――
「……ここからは里が良く見える」
里長は深く息を吐くように、そう呟いた。
「レヴァナーでは毎年、伝統的な四季の祭りが開かれていた。春は花祭り、夏は納涼祭、秋は豊穣祭、冬は雪祭り。四季折々の表情を見せる街を、この場所から見るのが楽しみだった」
里長は空へ指を走らせると、思い出を景色へ書き起こすように言葉を紡いでいく。
「妻と結ばれたのは、まだ肌寒い秋の夜だった。息子が生まれたのは深い雪の日だった。孫が生まれた夏の朝には、天の川の雫を集めた。春には家族で満開の桜を見た」
しかし里長はそこでピタリと手を止めると、力なく腕を下げながら言葉を続ける。
「ワシらはここで家族を失った。しかし幸せな思い出もまた、この地と共にある。他で生きるよりも里で死ぬことを選ぶ……ここに残っているのはそういう者たちだ」
懺悔のように呟いた里長は、普段の鋭い雰囲気がすっかり身を潜めており、歳相応の……どこにでもいる普通の老人に見えた。
その横顔を見たとき、この三日間で住民たちに覚えていた違和感の正体に気付く。
彼らは皆穏やかで優しいが……しかしどこか諦めにも似た暗澹とした雰囲気を孕んでいるのだ。
「ワシらに過去はあっても……未来はない」
ぽつりと零されたその言葉が胸を刺す。
――似ている。
この里の人たちは、きっと同じなのだ。
未来を嘆き、過去に縋り、生きながらにして死んでいた――かつての自分と。
シンシアさんも、先生も、里長も、俺の進む道を肯定してくれた。
しかし……三度決意が揺らぐ。俺は本当にこのまま里を後にしていいのだろうか。
時間に取り残され、家族を失い、悲嘆に暮れる少女――リッカ。
彼女の幸せな思い出が眠る、この場所から。
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