時計泥棒(後編)

『ガーネット探偵事務所』の中で、探偵少女クロエ・ガーネットは机の上にぴったりと額をくっつけていました。


 ああ……どうしよう……アークエットさんからもらった大切な時計なのに……。

 

 少女は、永遠とも思える絶望と脱力に包まれています。


 犬を探そうにも、どこの犬だかわからないし……犬を特定するような手がかりもないし……。


 クロエは顔を上げ、息を大きく吐き出します。


 はぁ……困ったよー……困ったよー……。


 しばらくの間、少女はじっと天井をみつめます。


 このままじっとしていても、いい考えは浮かばないか……何か食べて、頭に栄養を送って、気分を落ち着かせてから、考え直そうかな……。


 クロエは思い出しました。今日は料理店『マディー・アンド・リネラ』で飲み物無料サービスがやっています。

 少女は、その料理店で昼食をとって、気持ちを切り替えることにしました。





 料理店『マディー・アンド・リネラ』の小さなテーブル席で、探偵の少女クロエは、パンプキンパイを食べています。パンプキンパイは好物ですが、今日は全然美味しいと思えませんでした。


 店のカウンターの前で勘定を済ませた女性のお客と、店主エイヴリーさんが立ち話をしています。


 お客が店主エイヴリーさんに言います。


「わたしね、新しい帽子が欲しいんだけど、どこのお店だ買ったらいいと思う?」


 店主エイヴリーさんは言います。


「『クランネルク』っていう洋服店がね、新しい衣類を大量に入荷したらしいわよ。商品がなくなっちゃう前に、そこで帽子を探したらいいわよ」


 2人の会話を聞いていたクロエは思います。


『クランネルク』洋服店で、アークエットさんにプレゼントするスカーフを買おうっと。





『クランネルク』洋服店で、アークエットさんにプレゼントするスカーフはすぐに決まりました。

 黄色いサテン生地のスカーフです。値段は2シリングと、高くもなし、安くもなし、といったところでした。

 クロエが満足げに選んだスカーフを眺めていると、店主とお客が話し込んでいるのが聞こえました。


 お客が言います。


「ねぇねぇ、わたしがこのあいだ、いいなと思ったあの洋服、売れちゃったの?」


 店主がため息をつきながら言います。


「それがねぇ、何日か前に〝犬好きカーリー〟さんが店に商品を見に来たの。カーリーさんて、普通の犬好きと違って、そうとうに動物の匂いがきついでしょ。カーリーさんが触った服全部に、動物の匂いが移っちゃったのよ。だから、あの人が触った商品全部を洗いに出したの。あなたが気に入ったっていうあの服も、洗いに出してるところのなのよ」


 クロエは、話し込むふたりに近づきます。


 探偵の少女はふたりに聞きます。


「〝犬好きカーリー〟さんて、どんな人なんですか?」


 店主が言います。


「あら、あなたカーリーさんを知らないの? この辺じゃ有名な変わり者よ。あの人はね、この街の動物のことはなんでも知っているの。とくに、街の犬にたいする執着は普通じゃないわ。〝あの犬はネビル家の犬だ。あの犬はオズボーン家の犬だ〟って具合に、この街のすべての犬のことを網羅してるのよ。ちょっと偏人よね」

 

 クロエは店主に聞きます。


「カーリーさんのお住まい、ご存じですか?」


 店主は詳しく知ってました。 





 探偵クロエ・ガーネットは〝犬好きカーリー〟さんの家に近づきます。カーリーさんの家のドアは開けっ放しでした。

 クロエはドアの前に立ち、家の中をのぞきます。

 60代と思われる女性が、キッチンの前でなにやらばたばたとしていました。

 クロエは家の中に向かって声を出します。


「こんにちは。カーリーさん、こんにちは」


 カーリーさんは、キッチンの流しの前でなにやらせわしく動きつづけ、クロエの訪問には気づいていないようでした。


 クロエは声を大きくして言います。


「こんにちは! こんにちは! カーリーさん! 聞きたいことがあるんです!」


 クロエの声に気づいたカーリーさんが言います。


「いまね、大変なんだよ! 人と話してる場合じゃないんだよ!」


「どうしたんです?」


「ほら! 見てみな!」


 そう言って、流しの蛇口を指さします。蛇口からは水がじゃばじゃばと流れ出ていました。


 カーリーさんは言います。


「蛇口が壊れて水が止まんなくなっちまったんだよ! このままだと貯水タンクの水が全部なくなっちまうよ!」


「ちょっといいですか?」


 そういいながら、彼女は家のなかに入りこみ、キッチンに近づきます。

 滝のように水をながしつづける蛇口をみやります。

 顔をぐっと近づけます。

 蛇口のナットが緩んでいるだけだとすぐにわかりました。


 クロエは言います。


「ナットが緩んでるだけですよ」


 カーリーさんは、まだ慌てた口調で言います。


「それで、どうしたらいいんだい!?」


「レンチで閉めるんです」


「うちにレンチなんてないよ!」


 少女は困ったものだ、と思いましたが、そこでハッとします。

 アークエットさんに貸すつもりだったレンチが、いつも持ち歩く肩掛け鞄に入っているのです。

 クロエは、鞄からレンチを取り出し、蛇口のナットを閉めます。

 あっという間に蛇口の漏水はおさまりました。


 カーリーさんが、安堵の声をあげます。


「はー、助かったよ。あんた、ありがとうね」


「どういたしまして」


 あれ、わたし何しにここに来たんだっけ?

 

 あ、そうだった。


 少女は言います。


「カーリーさん、少し耳が垂れてる黄土色の犬、どこの犬だか知ってます?」


「少し耳が垂れてて、黄土色? あ、それはね、4丁目のB9通りに住んでる野良犬だよ」





 クロエは4丁目B9通りをゆっくりと歩いています。

 遠くにその犬はいました。

 少し耳が垂れていて、黄土色をした犬。

 間違いありません。時計を盗んだ、泥棒犬です。

 犬の苦手なクロエですが、今はなんとか近づくことができます。

 なぜなら、垂れ耳の犬は、いまはすやすやと眠っているからです。

 少女は、その犬のそばまで来ました。

 近くで、フットボールほどの大きさもない小さな子犬が寝ていました。子犬も、耳が垂れていて、黄土色です。


 子犬の首元に、それはありました。懐中時計です。子犬が、時計を宝物のように大切にして、身のそばに置いているのだとわかります。

 そうとう、時計を気に入っているのでしょう。懐中時計は、子犬の首とあごにぴったりとくっついています。

 クロエから時計を盗み取った犬は、母犬で、何よりも愛おしい子供に時計を与えたのでしょう。

 クロエ・ガーネットは眠る子犬に静かに近寄ります。

 懐中時計に手を伸ばします。

 時計を取ろうとしたとき、手が止まりました。


 母親の愛情……。

 

 私を大事にしてくれてた、愛しい母さん……。

 

 クロエは思い出します。母が手作りのお姫様の人形をプレゼントしてくれたこと。誕生日に、大好きな木苺のパイを特大で作ってくれたこと。公園の泉で、クロエにほほ笑みかけながらカヌーのオールを漕ぐ母の姿……。


 会いたいよ……母さん……父さん……。


 クロエは一瞬、時計をこのままにしておこうと思いました。


 でも、だめです。この懐中時計は、両親とおなじくらい大切な、アークエットさんからもらったものです。


 少女は、子犬の首元から、そっと時計を取りました。


 子犬は、時計を取り上げられたことに気づかず、おだやかに眠っています。


 クロエは鞄から、アークエットさんへのお返しに買った、サテン生地の黄色いスカーフを取り出します。

 スカーフを丸め、先端を縛り、小さなボールを作ります。


 少女は、スカーフでできた黄色いボールを、子犬の首元にそっと置きました。 





 探偵の少女、クロエ・ガーネットは河原のベンチに一人で座っています。


 夕日は沈み始めています。淡い光が世界を包んでいます。


 少女は、紙袋から一切れの木苺のパイを取り出します。

 パイを一口食べます。

 酸っぱい木苺の風味が口の中に広がります。香ばしいパイ生地の味が舌をなでます。

 今日は、いつにもまして、パイが美味しく感じられました。


 川の水面が、オレンジ色の光をやわらかに反射しています。

 河原を歩く紳士や淑女、そして子供たちが暖かい光を浴びます。

 ヤナギの綿毛が宙を舞い、夕日を反射させて輝く風となります。


 その日の夕暮れ時も、この王国は琥珀色に染められていました。




      「時計泥棒」終

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