探偵少女の日常

澤野玲

1. 時計泥棒(前編)

 馬車にがたごとと揺られながら、探偵の少女クロエ・ガーネットは思います。


 今日こそは、誰か依頼人が来てくれないかなー。このままだと、わたしの探偵事務所は潰れちゃう。困ったなー。


 探偵少女クロエは、憂いの思いで、馬車のまわりの景色をみます。

 街には優しい朝日が差し込み、人々は陽気な様子で仕事場に向かいます。クロエの心境とはちがって、この朝も、街にはほがらかな美しさがありました。


 クロエのとなりで馬車の手綱をにぎる、農家のトムソンおじいさんが言います。


「クロエちゃん、依頼人がこなくて困ってるんじゃろ? 心配するこたぁない。待っていれば、かならず、いい依頼がくるわい」


 クロエはうかない声で言います。


「そうねぇ。トムソンおじいさんがそう言うなら、きっと依頼人来てくれるわよね……」


「わしの畑だって、いい作物ができることもあれば、悪天候でさっぱり野菜ができない、ってこともある。世の中ってのいうのは、そういうもんじゃ」


「んー、農場と探偵事務所とでは、いろいろと大きく違うところがあると思うけど……」


 クロエとトムソンおじいさんが、あまり明るいとは言えない会話をしていると、二人が乗る馬車は、『ガーネット探偵事務所』の前に到着しました。


 


 

 16歳の探偵少女クロエ・ガーネットは、探偵事務所の椅子に座り、机の上に脚を乗せています。この国で、こんなに若い年齢で探偵事務所をもつ人間は、クロエ・ガーネットだけでしょう。

 クロエの父アンドリュー・ガーネットは、この街で一番と言われる名探偵でした。でも、3年前、船の沈没事故で、クロエの父アンドリュー・ガーネットも、母アンジェラ・ガーネットも、帰らぬ人となりました。

 16歳になり、法的に個人営業を許可される年齢になったクロエは、父アンドリュー・ガーネットの探偵事務所『ガーネット探偵事務所』を引き継いだのでした。

 少女クロエは、いまでは立派な探偵事務所の事務長、兼、探偵です。とは言っても、この事務所の従業員はクロエ一人だけですが……。

 クロエは朝の9時に事務所に出所して、それからずっと帳簿を眺めたり本を読みながら、お客、つまり依頼人がくるのをまちました。


 夕刻、退所する時間になりました。一日中、執務机の前の椅子に座りっぱなしだったクロエは思います。


 あー、今日も依頼人こなかったなー。暖炉の薪代やら、ランプのオイル代やら、昼食代やらで、お金はただただ減っていくだけだけ……。困ったなー。





 家事がまったくできないクロエは、下宿に住んでいます。下宿の主はアークエットさんという女性です。

 朝食を食べ終わったクロエは、食後の楽しみのハチミツ入りホットミルクをちびちびと飲みます。

 食器を洗いながらアークエットさんが言います。


「どう? 依頼人きてる?」


 クロエは言います。


「さっぱりよ。このままだと、わたしの事務所、潰れちゃう」


「まあ、気長に待つしかないわね」


「そうねぇ……」


 アークエットさんは、何かを思い出したように言います。


「そうそう、クロエ、あなたの事務所には、ボイラー調整用のレンチがあったでしょ? あれ、貸してもらえない? オーブンの蓋がゆるんで、閉めっぱなしになってくれなくて困ってるのよ」


「レンチね。わかったわ。今夜持ってくる」


「助かるわ」


 アークエットさんは、突然、食器を洗う手を止めました。

 また、何かを思い出したようです。


「そうそう、レンチなんかより、もっともっと大事なことを忘れてたわ」


 そういうと、アークエットさんは、キッチンを出て、自室へ行きました。

 しばらくして、アークエットさんはクロエのところへ戻ってきました。

 アークエットさんは、何かを手にしてクロエのそばに寄ります。


「これ、あなたへのプレゼントよ」


 クロエは、アークエットさんが手にする、それを見ます。

 美しく輝く銀の懐中時計でした。


 アークエットさんは言います。


「これ、のみの市で見つけたのよ。探偵なら、懐中時計が絶対に必要よ」


 クロエは懐中時計を受け取ります。


「わー、素敵ー! ありがとうアークエットさん! これ、宝物にするわ!」


「喜んでもらえて、うれしいわ。さあさあ、そろそろトムソンおじいさんが迎えにくる頃よ。はやくミルクをお飲みなさい」





 ゆるりと道を進む馬車の上で、クロエの麦色のポニーテールがゆらゆらちと揺れます。


 トムソンおじいさんが言います。


「今日も、街は陽気じゃな」


 隣でクロエが言います。


「そうね。気持ちのいい朝ね。ねえねえ、トムソンおじいさん、わたし今朝、アークエットさんから懐中時計をもらったの。なにかお返しをしたいんだけど、何がいいと思う?」


「そうじゃな、こないだアークエットさんとお茶を飲んで話してたんじゃがな、スカーフが古くなったから新しいのがほしい、ってようなことを言ってたきがするなぁ」


「スカーフね! ありがとう!」


 トムソンおじいさんは言います。


「そうそう、話はかわるんじゃがな、今日はクロエちゃんの好きな料理店『マディー・アンド・リネラ』で、飲み物の無料サービスをやってるらしいぞ」


 クロエは目を輝かせます。


「え! ほんとう!? わたし今日のお昼は『マディー・アンド・リネラ』のパイにする!」





 『ガーネット探偵事務所』に到着したクロエ・ガーネットは、まっさきに事務用品がしまわれている戸棚を開けます。


 レンチ、レンチ、忘れる前にレンチを鞄へ入れておこう。


 クロエは戸棚からレンチを取り出します。いつも持ち歩いている肩掛け鞄にレンチを入れました。

 そのあと、クロエはいつものように執務机の椅子に座ります。

 鞄から、アークエットさんからもらった懐中時計を取り出しました。

 手のひらの上で、長いチェーンがついた時計はきらきらと品のある輝きを放っています。


 さっそく時計つけよう!


 クロエは、懐中時計を身に着けようとしますが……少し問題がありました。

 懐中時計は、男性がベストの深みのある前ポケットに入れるものです。そしてチェーンはベストのボタンにひっかけるのが普通です。

 クロエが今着ているのは、パステルイエローのチェックのブラウス。ポケットはあるにはあります。とはいえポケットの位置は、だいぶサイドに寄っています。ポケットは深みがあるとは言えず、そこに時計を入れて持ち歩いたなら、きっとすぐ落としてしまうでしょう。チェーンをつけるところも問題です。クロエが着るブラウスは、ボタンを止めている糸がさほど丈夫ではありません。男性がするように、そこに重みのあるチェーンを巻きつけたなら、ボタンの糸はすぐにでも切れてしまうでしょう。


 んー、時計をどこにいれて、チェーンをどこにつけたらいいんだろう……。


 クロエは悩みます。


 その時です。

 事務所のドアがノックされました。


 誰かしら?


 クロエは無意識に時計をブラウスのポケットに放り込み、ドアへ近づきました。

 ドアを開けます。


 電報配達員が立っていました。


「ガーネットさん、電報です」


 クロエは電報を受け取ります。


「ご苦労様です」


 配達員はすぐさま去っていきます。


 ドアの外にでているクロエは、思い出しました。


 そうだ、ドアの上の看板に吊るしてあるランプのオイルが切れてるんだった。オイルを入れなきゃ。


 背が低いクロエは、ランプに手が届きません。


 クロエは事務所にもどり、踏み台をもって、また外にでます。


 踏み台をランプの下に置きます。少女は踏み台にあがります。

 ランプに手を伸ばしたそのときです。


 犬がそばに寄ってきました。

 

 クロエは、胸のなかで大声を出しました。


 犬!


 そう、クロエ・ガーネットは、犬が大の苦手なのです。


 耳が少し垂れていて、黄土色をした犬は、ふんふんと荒い鼻息で、クロエに急接近します。


 クロエは叫ぶように言います。


「し! し! あっちへ行って!」


 たれ耳の犬は、踏み台に鼻がつきそうなほどに、近寄っています。犬はよだれだらけの口を大きく開き、わんわんと楽しそうに吠えます。

 

 恐怖と混乱のなかにあるクロエにもわかります。犬はクロエと遊びたがっているのです。


「あっちへ行って! あなたとは遊ばない! あっちへ行って!」


 犬はクロエに飛びつきました。それはそれは壮大な勢いで。


 きゃ!


 クロエは犬に押し倒されるような形で、後ろに倒れます。

 少女は地面に転げ落ちました。

 

 痛たたた……。


 地の上で横たわるクロエの視線は、それを捉えました。ポケットから懐中時計が飛び出し、地面に落ちていました。


 その時です。


 犬が懐中時計をくわえました。


 クロエは大声をだします。


「なにするのよ!」


 時計をくわえた犬は、走り出しました。


 クロエは、勢いよく立ち上がりました。犬は苦手というものの、このときばかりはそんなことを気にしていられませんでした。


 探偵の少女は走り去ろうとする犬を追いかけます。


「まて! この泥棒犬!」


 もちろん、黄土色の犬は、クロエより速いです。犬はどんどんクロエから遠ざかって行きます。


「まて! まて!」


 叫ぼうが、何をしようが、だめです。クロエと犬の距離はどんどん伸びます。犬は道の角を曲がりました。


 クロエの視界から、犬は完全に消えました。


 へとへとのクロエは、倒れそうなほどに息を切らして立ち止まりました……。

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