ネズミの学校

砂糖 雪

1章 学校のネズミたち

 今はネズミの学校の時間です。

 静かな夜の時間の中で、やわらかな月明かりが街の一角にある学校のカーテンの隙間から窓越しに射し込んでいて、教室内を淡くスポットライトのように照らして映し出しています。

 そこには百匹あまりのネズミの生徒たちが並んで座っていて、教壇の上ではネズミの先生が二足で立ち、チョークを片手に持って、黒板に図や文字を書き連ねています。生徒たちは皆しっかりと先生の方を向いて、時折髭をぴくぴくとさせながら話を聞いています。たまに誰かが堪え切れずに欠伸をすると、先生はわざと皆に聞こえるようにして、コホンと大きく咳ばらいをします。すると欠伸をしたネズミはこっぱずかしくなってしまい、もじもじとしながら再び真面目な顔つきを取り繕うのでした。

 ネズミの学校はもちろん、お日さまが沈んでからが始まりです。彼らのいるこの学校は、昼間には人間たちが普通に使っている学校のひとつです。人間は夜には学校を使いませんから、その時間にひっそりと学校を拝借しても構わないだろうというのが、彼らの言い分でした(もっともな理由に聞こえます)。もしかすると、この文章を読んでいる皆さまの通われている(あるいは通われていた)学校にも、毎晩私たちが寝静まった頃を見計らって、ネズミが集まってきているかもしれませんね。

 今晩は、雲一つなく晴れ渡ってよく澄んだ秋の夜空が街を包み、まんまるのお月さまが夜空の大海を独り占めしている、少しひんやりとした夜でした。お月さまが夜空を独り占めできる理由は、星がちっとも顔を見せていないためです。というのも、学校から少し離れた場所にあるこの街の中心では、背の高いビルが所狭しと立ち並んでいて、辺り一帯はギラギラと輝いて、ネズミたちの活動するこんな夜更けの時間になっても、多くの人間達がせわしなく行き交っているのです。そのため、地上の光は空高くまでその手を伸ばしています。星が輝くのは夜空を明るく照らしだすためですから、こうなると星は、自分の仕事を奪われたと思って、やる気をなくしてどこかへ姿を隠してしまうのです。


 先生の話は次第に、とても盛り上がる部分に差し掛かってきました。

 この講義で扱っている内容は『近代化に伴うネズミの少子高齢化問題について』医学的な観点からの解説です。ここはネズミの学校の中でも最上級生のクラスなので、このような小難しいテーマが扱われているのです。

「近年もたらされた恒久的な平和が、私たちの身体を明確に変化させたのは明らかです。生物の身体は多くの細胞から成り立ち、その中には様々な、蛋白質などの分子が含まれているのですが、生活の変化は、私たちの細胞や分子の組成を著しく変えたのです。例えば、私たちは以前よりも格段に視力が上昇しました。これは、錐体細胞と呼ばれる、視細胞の数が増加したことに起因するものだと考えられます。これにより事物をより正確に捉えることが可能となりました。しかし一方では……」

 講義中、先生は熱心に語りました。彼はもう随分な年齢で、体はやせ細り、ほとんど骨と皮しか残っていませんでした。しかし、講義を熱弁する彼のその表情には、少年のような若々しさが宿っていて、力強い印象を周囲に与えていたのです。

 そんな中、教室の一番前の席で、湧き上がる興奮を抑えられずにいる、一匹のネズミがいました。

 彼の名はトルエ。彼は、他のネズミたちよりも随分と小柄で、こじんまりとした体格をしていましたが、新雪のように真っ白でさらさらとした毛並みに、短く整えられた口髭と、シュッと細長く伸びた尻尾を持っていて、それらからは、どこか理知的な性質が備わっている感じがしました。

 彼のつぶらで、ルビーの原石のように赤く小さく輝く瞳はいま、先生の姿とその口から発せられる言葉を、しっかりと捉えて掴んでいます。彼はそうして食い入るように先生のことを見つめながら、板書の内容を素早くノートに書き写していき、その間ほとんど瞬きもしていないほどでした。

 彼には、先生の言葉の一つ一つをよく咀嚼して、深いところまで理解することができました。それは一つには、彼が勤勉で真面目な性格であったためです。そしてもう一つには、彼は昨日まさにその問題について思考を巡らせたばかりだったのです。誰だってこうなれば面白くないはずがありません。彼の頭の中では、先生の言葉と自分の考えとが、乱雑にせわしなく駆け巡っていましたが、それでいてそれはしっかりと秩序だっているように、彼には思えたのです。彼は自分の考えが一本のまっすぐな道、果てしなく続く真理への道へと続いていく景色を思い浮かべることが出来る気がしました。

 一方で他のネズミたちはというと、興味深そうに、うんうんとしきりに頷きながら聞いているものも少数はおりましたが、残りの大半は難しくてついていくのがやっとという風でした。


 授業ももう終わりという頃に差し掛かったとき、教室の後ろ側の廊下の方からガヤガヤと騒がしい話し声が聞こえてきました。その声は次第に大きくなり、やがて扉を開け正体を現しました。皆は興味津々な面持ちで後ろを振り向きます。先生も渋々そこで話すのを一旦止めて、険しい表情で扉の方を見遣りました。

 そこには、三匹のネズミがいました。真ん中にいる、ひときわ大きな体つきをしたネズミは、黒茶色の刺々とした毛を纏い、堂々と構えながら涼しい顔をして教室のネズミたちの顔を見つめ返しています。

 彼の名はフォル。一瞬の静寂の後に、はにかみながら彼は言いました。

「すみません、遅れちゃいました」

 彼は悪びれる様子を少しも見せずにそう言ってから、ズカズカと教室内を進んでいき、空いている場所を見つけると、そこにどっしりと座り込みました。あとの二匹もそれに続きます。教室内にはピリッと緊張した空気が稲妻のように駆け抜けていきました。

「君、これは何回目の遅刻かね?」

 フォルが着席するのを待ってから、先生は努めて落ち着いた口調でフォルにそう問いかけました。

「そんなこと一々覚えてないですよ、センセイ!」

 フォルは、相変わらず軽い調子で返しました。

「私の記憶の限りだと、少なくないことは確かだね、君。あまり遅刻が目立つようでは私としても何か対策を、例えば、親御さんに報告をするなどしないといけない。けれど私としてもそんなことはしたくないのだよ、それは分かるだろう?」

 先生はフォルの態度を見てやや憤慨してしまい、冷淡に言い放ちました。

 しかしフォルの方ではそれを少しも気に留めない様子で、

「澄み切った湖のごとく、夏深き青空のごとく明快にわかります、先生。僕としても、やはりお母さんにそんなことは知られたくありません。自分の息子が放蕩息子であると知ったら、お母さんは卒倒するに違いないでしょう。お母さんは何も悪くありません。悪いのは僕なんですからね。ですから、お母さんを守るためにも、僕が努力しましょう。今度からは決して遅刻しませんよ! 神に誓って約束いたします!」

 と言いました。教室ではどこからか、くすくすと笑い声が聞こえてきました。それで先生は呆れてしまい、やれやれと言いながら一度深いため息をつきましたが、身に着けた腕時計にちらりと目をやると、

「えー……、まったく仕方ないね。今回までは大目に見てあげるとしよう。ただし、次私の授業に遅刻してきたら、そのときは覚悟するように。さて、もう私の授業時間は終わってしまったようだ。次の授業からはきちんと出席するんだよ」

 と言って、教室をあとにしました。


 先生が教室を出ると、教室のネズミたちはほっと安堵の息を漏らしました。

「あぶないとこだったなフォル!」

 教室の誰かがそう叫びました。

「いやあなに、あれぐらいはどうってことないさ」

 フォルの周りを多くのネズミたちが取り囲んでいきます。

 緊張が和らぎ、テーマパークのように騒がしくなった教室の片隅で、トルエは心底不機嫌そうな顔をしていました。実際にはフォルが登場した頃には、授業はほとんど終わりかけではありましたが、彼にはフォルが現れてからの数分間が、何時間分もの喪失に感じられました。さっきまで彼の目の前に見えていた真理へと至る道は、今ではどこかへ散りじりに霧散してしまって、どう頑張っても、もう二度と見つけられないような、そんな感じがしました。それで彼は半ば放心したような状態になりながら、その場でじっと動かずに座っていました。そんな風でしたから、後の講義は全然トルエの頭に入ってきませんでした。さっきまでの興奮は熱を奪われて、あとに残ったものは脱力感だけでした。

 一方で、休みの間中フォルの周りにはいつも多くのネズミたちが群がっていました。フォルは彼らに冗談を言ったり、最近の出来事を聞かせたりして、大いに楽しませてやることが出来ました。彼らはフォルのように破天荒で型破りな態度を取ることはおっかなくて、とても出来ませんでしたが、だからこそ彼を羨み、憧れに近いとも言える感情を抱いていたのです。


 やがて、全ての授業が終わりました。

 東の空からは白く光る太陽が徐々に浮かび上がってきて、お月様は隠れ、今日という一日の終わりを告げました。ネズミたちはすっかりくたびれて、皆が空腹を感じていました。それで皆はダラダラとおしゃべりをしながら、帰りの身支度を始めていきました。

 しばらくすると、全部で六つある教室からほとんど同時にネズミが出てきたために、廊下は一時ネズミで溢れかえりました。その中にはドブネズミにクマネズミとハツカネズミ、オスネズミにメスネズミ、毛の灰色のものに白色のもの、身体の大きいものに、小さいもの、なんだって見つけることが出来ます。

 大抵のネズミは安いレストランか民家の、地下や屋根裏に住みついていて、向かう方角はだいたい一緒です。つまり高層ビルが立ち並んで、人間たちがせわしなく行き交う街の中心とは反対の方角へと、向かっていきます。彼らは仲の良いもの同士で集まって、笑ったり叫んだりしながら帰路を歩み始めました。

 こうしてみるとネズミの学校というのは結局、私たちの学校とそんなに違いがあるものではないのです。

 

 ネズミたちの中には少数ですが、都会の中心に住んでいるものもいて、彼らは大勢が向かうのとは反対の方角へと向かっていきます。

 その中に、トルエの姿もありました。彼は今では少し落ち着きを取り戻していましたが、やはり釈然としない、悶々とした想いが頭の中で渦巻いていました。それは怒りなのか呆れなのか悲しみなのかよくわからない、もやもやとしたわだかまりとなって、彼の頭を支配していました。少なくとも彼は、フォルのことが前から好きではありませんでした。彼は他のネズミのことを一々と気にして悩んだりすることは、これまでほとんどなかったのですが、いつもふざけた態度でいて、先生に迷惑ばかりかけているフォルに関しては、疎ましく思わずにはいられなかったのです(彼はまじめなんですね)。

 今回の一件は、彼のそうしたフォルに対する印象をより色濃くするものとなりました。彼はそんな風に、フォルのことばかりを考えながら、自動車や通行人が行き交う道をとぼとぼと歩いていきました。


「あ、おにいちゃん!」

 しばらく歩いていると、トルエの後ろから声がしました。

「やあハナ、今日はめずらしく帰りが一緒なんだね。お友達とは話してこなかったの?」

 彼は振り向いて答えます。

「ううん。話してたんだけど、お腹がすいたから急いで帰らなきゃと思って走ってきたの」

 三つ子の妹のハナがそう言うと、タイミングを見計らったかのように、彼女のお腹がぐうと鳴りました。それで彼女は照れくさそうに笑いました。それを見て、彼も微笑みました。二匹は揃って歩き出します。

「一限目の授業、大変だったよね。フォルのやつったら、いっつも皆に迷惑かけてばかりなんだから!」

 道すがら、ハナはつんとした口調でフォルの話題を彼に投げかけました。

「うん、そうだね。僕は、先生が言っていたように、彼のお母さんにちゃんとそのことを伝えるべきだと思うよ」

 彼は大まじめに、自分の考えを述べました。

「それはダメよ! そうしたら彼のお母さん、本当に倒れてしまいそうだもん。それに、今は病気で色々大変みたいだし……」

 それは彼の知らない話でした。それで彼はちょっと驚いて尋ねました。

「そうなんだ。でもどうしてハナがそんなことを知っているの?」

「えっ。あ、いや……友達に聞いたのよ!」

 ハナは慌てて言いました。その様子から彼は何か妙な違和感を感じ取り、気になりもしましたが、空腹と疲れも相まって、それ以上は聞かないことにしました。


 やがて二匹は目的地へと辿り着きました。彼らの目の前には全面がガラス張りで、ネズミの背丈よりも何千倍も高いビルがそびえ立っています。高さ地上三百メートルにもなるこのビルは、数年前に建てられた、この街で最も高い建築物です。ビルには四角い窓がびっしりとはめ込まれていて、その多くの場所ではまだ明かりがついたままになっていました。イートゥル・アド・アストラと名付けられたこのビルは、ネズミにとっては(もちろん、人間にとっても)あまりにも大きく、見上げてもてっぺんの部分が見えずに、危うく尻餅をつきそうになるほどです。アストラの低層階には数々の高級な飲食店や洋服店が入っていて、ネズミの住む環境としては最上とも呼べる場所の一つです。

 彼らはアストラの正面玄関の脇から地下へと潜って床下街道へと入っていき、街道を真っすぐに進みました。街道は長い一本のまっすぐな通りになっていて、通りの両サイドにはネズミのための飲食店が数多く軒を連ねています。学校終わりのこの時間帯は、ネズミたちにとってちょうど朝御飯(私たちの感覚では、晩御飯になりますが)の時間なので、通りいっぱいにネズミ達がひしめき合い、お店を決めあぐねているところでした。お店からはチーズやソーセージの香ばしい匂い、トマトやバジルの瑞々しいフレッシュな匂いなどが混ざり合って届けられ、二匹の鼻腔をくすぐって、彼らはより空腹を感じました。街道をしばらく進んだ突き当たりに、彼らの家はあります。トルエとハナは少し足早になりながら通りのネズミたちの合間を縫って進んでいきました。

 十分ほど歩き、集合住居のエリアまでやってくると、彼らは自分たちの部屋の玄関をくぐり、家の中へと入りました。家はほどよく薄暗く、湿度も温度も最適で、外の冷えた空気を忘れさせる、心地のよい感じがしました。と言うのも、ここはこの街の中でも特に立派な家だからです。今ではネズミの社会も立派な資本主義社会になりました。彼らは人間から実に多くのことを学んだのです。


 「ただいまっ」

 ハナは部屋に入るとすぐにお母さんを見つけ、傍に駆け寄っていきました。

「おかえりなさい、ハナ、トルエ」

 二匹のお母さんは微笑みながら小柄なハナを抱きしめて、頭を撫でました。ハナは気恥ずかしくもなりましたが、心地よさが勝り、お母さんのことを抱きしめ返しました。

「ただいま、ママ。ピートはもう帰ってきたの?」

 ハナはリビングの方をのぞき込むようにして聞きました。

「いまさっき帰ってきたわよ。それよりあなたたち、お腹が空いたでしょう? 今日はごちそうがあるのよ!」

「ほんとに!」

 ハナは嬉しそうに髭をぴくりとさせました。

 食卓には三つ子の弟のピートと、彼らのお父さんがいました。年季の入った本のテーブルの上には、綺麗な装飾が施された銀製のお皿が敷かれていて、その中には、分厚い牛肉の塊が入っていました。二匹はそれを見て飛び跳ねました。

「お腹が空いたから先に食べてしまおうかってパパと話してたところだったよ」

 トルエとハナがやってきたのを見ると、弟のピートがからかうように言いました。

「危ないところだったわね、おにいちゃん。私、もうお腹ペコペコよ。早く食べてしまいましょうよ」

 ハナが急かし、二匹はテーブルの前に座りました。

「でも父さん、今日は特別な日という訳でもないのに、どうしてこんなご馳走なの?」

 トルエは、テーブルの上に置かれたナイフの背をなぞりながら、お父さんに尋ねました。

「今日は仕事先でチーズハンターをやっている方とのやり取りがあってな。それで彼に頂いたんだよ。お前らも、こんな風に美味しいものが食べられるのは彼らが危険を冒してくれているからなんだから、感謝しないといけないぞ」

「そうだったんだね父さん。もちろん、ちゃんと感謝しているよ」

 トルエはそう言うと、小さな手を鼻の所に当て、何か考える素振りを見せました。

「私もちゃんと感謝してるよー? うん、美味しい!」

「あ、ハナ! 抜け駆けしてずるいぞ!」

 ハナとピートはそんなことはお構いなしに、お肉の取り合いを始めています。

「こらこらあなたたち。こんなにたくさんあるんだから、ゆっくり食べれば良いでしょう」

 お母さんはやれやれとため息をつきます。それを見るとトルエも考えるのをやめ微笑みました。それから皆は夢中になって食べ始めました。食事中、家の中では絶え間なくおしゃべりが飛び交い、中でもハナは楽しそうに、学校であった出来事を話して聞かせました。トルエは自分からこそあまり話しませんでしたが、それでもハナの話を聞くのは好きでした。彼女にはネズミを惹きつける魅力が、朗らかさがあったのです。朗らかさとは、それがあるだけでとても素晴らしいものです。食事は楽しいものでした。トルエはその頃にはもうすっかり気分が良くなっていました。今の彼には、フォルのことであれこれと頭を悩ませるのは心底馬鹿らしいことに思えました。それで段々と心地よい眠気がやってきて、安らかな眠りへとついたのです。


 翌晩目を覚ましたトルエは身支度を済ませ、学校へと向かいました。今晩は昨日とは打って変わって、分厚い灰色の雲が空を覆ってお月様を隠してしまっています。秋の夜にしては少し寒すぎるくらいの日で、ヒューヒューと強い風が何度も吹き、道路の上を枯葉が舞い散っていきました。そのたび彼はぶるぶると身体を震わせ、手を擦り合わせてわずかな暖を取りました。

 火曜日の今日は、彼にとっては憂鬱な一日でした。今日は彼の好きな医学の講義はありません。代わりに、彼の大嫌いな体育の実技があるのです。

「ああ……」

 彼は道すがら、思わず何度もため息を漏らしました。

――何故こんな枯葉の舞う寒空の下、必死にグラウンドを走り回ったりしなければならないんだろう?

 彼はひとり考えます。

――確かに、適度な運動というものは、医学的に見ても大切だろう。しかし、学校であんな風にして走り回って、互いに競い合って順位をつけることに、どんな意味があるんだろうか? 結局は皆、運動などで将来を競い合う訳ではないというのに。ああいうものは、やりたいものだけがやればいいんじゃないだろうか? 少なくとも学校という場所は、もっと将来のためになることを教えるべきなのに……。

 彼は、こんな風に考えていました。

 この文章を読まれている皆さまが、彼の考えについてどんな意見を抱くかはわかりませんが、こういった考え方というのは、実にありふれたものなのです。


 さて、トルエは学校へと辿り着きました。既にグラウンドには同じクラスのほとんどのネズミが集まっていて、その中にはフォルとその取り巻きの姿も見えました。クラスのネズミたちは寒さで身体を小刻みにぷるぷると震わせながら、体育の先生の周りを取り囲んでいます。先生は、周りの生徒たちとおしゃべりに興じていました。彼は若く、今年先生になったばかりでもあったため、他の生徒とあまり見分けがつかないくらいです。

 彼は先生を囲んでいるクラスメイトたちの端の方にそっと腰をかけ、授業が始まるのを待ちました。しばらくして先生は、校舎の中心にある時計の針が二十二時を指し示したのを見ると、

「よし、じゃあ点呼を始めるぞ」

 と、低く張りのある声で言いました。それから順番に、生徒の名前を読み上げていきます。先生に名前を呼ばれたネズミは、元気よく返事をします。というのも、元気がなければやり直しをさせられてしまうことがわかっているからです。このことも彼の体育嫌いを加速させる要因でした。しかし彼は、これにはもう慣れっこでもありました。

――「えー次、トルエ」

「はい、先生!」

 彼は、普段の調子からは想像できないくらいに、元気よく返事をしました。先生は彼の返事を聞くと、名簿に丸をつけ、点呼を続けました。

 こんな風にして最後まで点呼が終わると、先生はおもむろに準備体操をやってみせました。それは無言の合図です。皆もそれに合わせて準備運動を始めます。身体を動かすと少し暖まり、皆の身体の震えは自然と治まっていきました。

「よし、全員いるな。今日はグラウンドを三周しよう。先生も一緒に走るから、皆一緒に頑張るぞ。では、スタート!」

 先生の掛け声で、皆は一斉に走り始めました。トルエは、皆と同時に走り出した後で少しづつ減速し、いつも後ろの方になるグループに付くようにして走りました。彼にとってはそれが一番無理のない、かつ目立たない走り方だったのです。

 しかしそれでも、グラウンド三周というのは堪えます(想像してみてください、ネズミの身体で学校のグラウンドを三周するというのは、どれだけ長いことでしょう!)。一周した辺りから既に、トルエや後ろのグループのネズミ達は息を切らし始めていました。先頭の方には、フォルの姿が見えます。彼はいつも徒競走ではトップだったのです。そのため彼は、体育の授業にだけは遅刻したことがありませんでした。何より彼は身体を動かすことが大好きで、彼からすれば勉強なんてものは運動と比べると取るに足らないものに思われたのです。フォルが今日も一番にゴールした頃、トルエはようやく残り四分の一の地点を通過したところでした。


 一方、そのさらに後ろには、まだ全体の半分にも満たない場所を走っている一匹のネズミがいました。

 彼の名はビス。彼はまるで足に重しでもくくりつけているかのように、身体を引きずるようにして一生懸命に走っていましたが、スタートしてから他のネズミたちとの距離はどんどん開くばかりでした。

 しばらくして、トルエたち後続グループもゴールしました。早くににゴールしたネズミ達は座っておしゃべりに興じていて、すっかりとくつろいでいる様子です。トルエ達も息を切らしながら、へたりとその場に座り込みました。

 それから五分くらいが経ちました。ビスはようやく四分の三の地点を通過した所でしたが、彼はもうほとんど走っているのか歩いているのかわからず、のろのろと進んで、苦しそうに顔を歪めながら、遠くでくつろいでいるクラスメイトたちの姿を遠目で捉えていました。

 すると段々と、トルエの周辺からはくすくすと嘲るような笑い声が聞こえ始めました。

「あいつ、デブだからあんなに遅いんだろ」

「あの体型だったら三日三晩なにも食べなくたって死にそうにないよ」

「いや、さすがにそれは死ぬでしょ、デブでも」

「まあ、あいつが死んだって誰も気にしないよ」

「母さんくらいは泣いてくれるんじゃない?」

「無理だよ、オレ、この前アルフォードんとこのレストランであいつの母ちゃんがすげえ声で怒鳴ってるの見たぜ。あいつ、テストでもあんまりひどい点数だから、母ちゃんにすら、どうしてそうも出来損ないなんだって怒鳴られてたんだよ」

「俺だったら恥ずかしくて死んじゃうな」

 そこで一度どっと大きな笑い声が上がりました。

 先生は注意しましたが、肝心の会話の内容は聞こえていませんでした。先生に聞こえないようにひそひそと会話をすることくらい、ネズミ達はとっくに心得ていたのです。

 これは、このクラスでは見慣れた光景でした。ビスは運動ではいつもドベでしたし、勉強もてんでダメで、周りからは嘲笑の対象となっていたのです。

 トルエは彼らの会話をくだらないことだと軽蔑しつつも、ビスにはある種呆れた気持ちを抱いていました。ビスの体型は確かにだらしなく、それは努力によって改善できるのに、彼はなぜそれをしないのだろうか? 勉強だって、そりゃあもちろん頭の良し悪しはあるだろうけれど、少しだって努力をすればテストであんなひどい点数は取らないはずだ。なぜ彼はそれすらしないんだろう?

 トルエは、こんな風に考えていました。しかしだからといって彼はビスに何かとやかく言ったりすることはしませんでした。自分とは関係がないことだからです。

 

 しばらくして、ようやくビスも走り終えました。彼はぜえぜえと息を切らして、ほとんど倒れ込むようにして座りました。先生はビスのところまでやってくると、少しもの悲しそうな顔をして、

「今度からはもっとはやく走れるようにがんばろうな」

 と、言いました。

 先生が離れていくと、先ほどビスのことを笑っていたネズミたちは、ビスのことを取り囲んで、にやにやと見つめました。ビスは息が上がり視界も霞んで頭はひどくぼんやりとしていたので、俯きながらその場でじっと座っていました。すると、ビスを取り囲んでいた内の一匹が、彼のしっぽを思い切り齧りました。彼は痛みでぎゃっと叫びを上げましたが、瞬時に口を塞がれてもごもごと苦しそうにもがくことしか出来ませんでした。それから彼を囲んでいたグループは素知らぬふりで他のネズミたちの所へと戻っていったのです。何匹かのクラスのネズミはその瞬間を目撃していましたが、敢えて先生に報告をしようとするものは一匹もいませんでした。

 彼はしっぽのヒリヒリとした痛みと疲労とで、段々と涙がこみ上げてくるのを感じました。後には悔しさと一緒に、激しい吐き気が襲ってきます。しかし彼は自尊心からその場では涙を流すことをぐっと堪えて、先生にこう伝えました。

「せんせいすみません。お腹が痛いのでお手洗いにいってきます」

「大丈夫か? 無理はしないようにな」

 ビスはそんな先生の言葉を聞くのも待たずに、グラウンド横にあるトイレへと駆け込んでいきました。


 ビスは、トイレへ入るや否や、思い切り嗚咽をしました。吐き気が込み上げ、吐き出すそぶりをしますが、何も出ませんでした。涙はとめどなく溢れ続け、しきりに鼻水をすする音が、辺りには響き渡りました。彼の頭の中では笑い声が、自分のことを小馬鹿にして嘲る声が騒音のように鳴り響いていました。

 彼にとってこれは、ありふれたことでした。しかし、だからと言って慣れっこだというわけにはいかなかったのです。彼はこのクラスになってからは、毎日のように同級生にいじめられていて、その度に学校が嫌にもなりましたが、それでも家にいるよりはマシだと思ったので、何とか我慢をしながら登校していました。

 けれど我慢すればするほど、心には少しずつ傷がついて、ぼろぼろになっていくのを感じました。いつしか彼はこんな風に考えるようになりました。

――ぼくはなんで生きているんだろう?

 その言葉を頭の中で繰り返すごとに、彼は胸がきつく締め付けられ、痛むのを感じました。そしてそのたびに思うのです。

――ぼくは生きる価値のないネズミなんだ。


 ビスがトイレでそんなことを考えているとはつゆほども知らずに、残ったネズミたちは二時限目の支度を始めていました。二時限目は国語の時間です。ネズミ達は走り疲れてぼんやりとする頭で国語の教室へと向かっていきました。二時限目が始まっても、教室にビスの姿はありませんでした。それで誰かがまたくすくすと笑いましたが、先生に注意されるともうそこで飽きてしまって、その日はもう誰もビスのことなんて考えませんでした。

 国語の先生は少し強面で、いつもなんだか不機嫌そうな顔をしているということで評判でした。しかしそれは単に彼の顔つきの問題で、彼はむしろ他のネズミより優しすぎるくらいでしたが、今日はいつもよりもいっそう眉をひそめて険しい顔で教壇に立ったので(それは彼が、真面目な話をする際の癖でしたが)、生徒たちは内心びくびくとしながら先生の言葉を待ち構えていました。

「君たちはもうわが校の最上級生だ。来年には卒業だし、そろそろ進路を決めなくちゃいかん。そこでだ、今日は先週言っていたように進路調査を行う。しばらくしたら順に聞いていくので、呼ばれたものは答えていくように」

 先生はゆっくりと言いました。

 何かきついお叱りがあるのではないかと思っていたのが、単なる思い過ごしであったことを知って、教室のネズミ達はほっと胸をなでおろしました。それからわっと騒がしくなって、彼らはあれこれしゃべり始めました。

「オレ、やりたいことなんてわかんないよ」

「お前は父ちゃんがやってるレストランで働けばいいだろ」

「えー、でもオレ料理なんか好きじゃないんだよなあ」

 そんな他愛のない会話があちこちで飛び交い、膨らんだ喧騒は当分収まりそうにありませんでした。一方でトルエは教室の前の席で何も言わずに、ただじっと時が過ぎるのを待っていました。

――「コホン!」

 先生の大きな咳払いで、皆は波が引くように静かになりました。

「では、聞いていくとしようか。まず、アルフォードくん」

 呼ばれたネズミは恥ずかしそうに顔を赤らめて、立ち上がりました。

「はい、先生。僕は、学校の先生になりたいです」

 教室からは、おーっといった歓声が上がりました。

「うむ。君は確かに成績も良いし、なにより国語が良く出来る。きっと立派な先生になれるよ」

「ありがとうございます、先生」

 アルフォード君ははにかみ、もじもじとしながら座りました。そんな風に皆は、思い思いの未来を語っていきました。

――「トルエくん、きみはどうかね?」

 順番になって呼ばれたトルエは立ち上がり、答えます。

「はい先生。僕は医者になり多くのネズミ達を病気から救いたいと思っています」

 彼はきっぱりと答えました。このことは彼の中ではもうずいぶんと前から決めていたことだったのです。

「うむ、素晴らしいね。君くらい優秀な子は中々いない。これからもその調子で頑張ってくれたまえ」

 誰かが茶化すようにヒューっと口笛を吹きました。別の誰かは羨望の眼差しで彼のことを見つめました。まだまだ進路調査は続いてきます。


 ――「フォル君、きみはどうかね?」

 フォルの番になりました。そう聞きながら先生は、彼のことを心配そうに見つめました。彼の破天荒さは学校中に知れ渡っていましたから、フォルの進路については、教師陣の大きな心配事の一つだったのです。皆もフォルの将来について、彼の口から直接なにか聞いたことがありませんでしたから、興味津々な面持ちで耳を傾けました。そして彼は少しの間を置いてから、言いました。

「僕はチーズハンターになりたいです、センセイ」

 彼の一言で、教室は一気に沸き立ちました。

「フォル、お前がチーズハンターになったら俺たちにこっそりごちそうを分けてくれよ!」

「でもフォル、いくらお前でもチーズハンターは難しいんじゃないか?」

 あちこちから歓声に近い言葉が飛び交い、フォルのことをしきりに囃し立てました。先生は一瞬呆気に取られましたが気を取り直すと、再び咳ばらいをして、続けて彼にこう聞きました。

「ふむ……。確かにチーズハンターは我々の世界で最も名誉のある仕事だ。目指すのは大変喜ばしいことだ。しかしまた一方でそれ故に、並大抵のことではなることはできない。我が校でも数年に一匹行けるか行けないかというのが現状であるというのは、皆も知っているだろう。それにしても、君はどうしてチーズハンターになりたいのかね?」

 するとフォルは、いきなり深いため息をつきました。皆はびっくりして、フォルの顔を見ました。先生までもが彼の一挙手一投足に気を取られるくらいに、教室のネズミたちは彼に注目しています。皆の視線を一身に浴びている彼は、柄にもなく真面目で、思いつめた表情をしていました。そうして語り始めるのです。

「センセイ。僕にはいま、病床に伏した母がいます。我が家には父がいません。そのため、母はこれまで僕のことを女手一つで一生懸命に育ててくれました。我が家は貧乏で食べるものも少なく、双子の弟は、僕が学校に入る前に死んでしまいました。……あのときのことは今でもはっきり覚えています。ちょうど今晩の様に、肌寒い秋の夜のことでした。僕たち兄弟は屋根もない場所で、身をすり合わせて座っていました。もう二日は何も食べていませんでした。母が泊まり込みで働きにいったっきり帰ってきていなかったんです。飢えと寒さで意識が朦朧とするさなかで、僕たちは死を覚悟しました。すると突然、弟がこう言ったんです。お兄ちゃんがいたから僕はこれまでずっと頑張れた。お兄ちゃんのためなら死んだってかまわないって。それで僕は、そんなバカなことを言うんじゃないと、弟に言いました。けれど弟はもう何も言わなくなってしまって、優しい顔をしながら眠っていたんです。……僕は弟を、ライを……食べました、飢えをしのぐために。当時はこんな目に合わせた母を憎みました。でも母だってどうしようもなかったんです。子供を産んですぐに父がいなくなってしまって、働かなきゃならなくなったんだから。それでも母は僕のことを、これまで必死に育ててくれました。こうやって学校にまで通わせてくれているんです。この街では見かけないけど、世の中には、学校に通えないネズミだっているらしいじゃないですか。だから、今度は僕が母に恩返しをする番だと思うんです。チーズハンターになれば、たくさんお金を稼いで母の病気を手術で治すことが出来るかもしれないから……」

 皆はしんとしてフォルの話を聞いていました。長い沈黙がありました。メスネズミの内の何匹かは、ハンカチで溢れる涙を拭きました。普段彼の取り巻きをやっている二匹のネズミでさえも、この話は初耳であり、深刻な表情で彼の後姿を見ていました。それからしばらくして、先生は言いました。

「フォルくん。私は今まで君というネズミのことをまったく勘違いしていたみたいだよ、うん。君の頑張りはきっと報われるよ、だから困ったことがあればいつでも私や他の先生のことを頼りなさい」

「ありがとうございます、センセイ」

 フォルはそういって腰を下ろしました。しかし着席する間際、彼がニヤリとほくそ笑んだのをトルエは見逃しませんでした。

 なんだかしんみりとした空気のまま、進路調査の時間は終わってしまいました。しかしそれは後ろ向きで重苦しい陰鬱なものではなく、前向きな悲哀だったのです。そう、今は教室の皆がフォルに同情をし、そして、彼を励まそうと思っていたのです。無論、トルエを除いてですが。

 やがて今日も全ての授業が終わりました。皆はなんだか心地よいぬるま湯に身体を浸らせながら、夢でも見ているような気分でした。それでどこか方向の定まらない場所を見つめながら、何も言わずにとぼとぼと教室をあとにしていきました。皆さまも一本の素晴らしい映画を見終わった後には、同じような気分に浸るのではないでしょうか?


 結局、ビスはその日一度も学校に戻ってきませんでした。彼はトイレでひとしきり泣いた後には、教室に戻るに戻れずに、学校の周りをぶらぶらとしながら時間を過ごしていました。彼はトイレを出る頃には少しだけ落ち着きを取り戻し、こんなことを考えていました。

――何故ぼくはこんなにもつらい目ばかりに合わなければならないのだろう? ぼくはなにか悪いことをしたんだろうか? 神様はぼくを見放したんだろうか? ぼくはみんなに嫌われている。おっかさんだって、ぼくがテストであんまりひどい点数だから、ぼくなんか産まない方が良かったって言っている。ぼくはどうしてこんなに出来損ないなんだろう? ぼくはなにも悪いことをしていないのに、なんでぼくは……。ぼくはこのまま何もできずに、ただこんな風に苦しみながら死んでいくだけなんだろうか? 

 彼はこんなことを頭の中で繰り返しながら、校舎横にある電灯の周りをぐるぐる、ぐるぐると回っていたのです。

 あるとき電灯には一匹の蛾がやってきて、光をめがけ繰り返し体当たりをし始めました。その度にこつんこつんと小さな音が鳴りました。こつんこつんこつんこつん……。

 ビスは尚も頭の中で同じ言葉ばかりを繰り返していました。すると突然、音がパタっと鳴りやみました。ビスははっとして頭上を見上げます。そこに蛾の姿はありません。そのまま視線を戻すと、アスファルトの上には、電灯に照らされた死にかけの蛾が、ぴくぴくと身体を震わせながら横たわっているのでした。ビスはその蛾をひどく哀れに思いました。そしてそれはつまり、自分自身を哀れだと思っているのと、同じことだったのです。ビスは思いました。

――これはぼくなんだ。ぼくはいずれこうなるんだ

 ちょうどそのタイミングで、学校から一授業を終えたネズミ達が一斉に飛び出してきました。ビスはそこで我に返り、逃げるようにして家へと向かいました。


 トルエはまっすぐ家には向かわずに、街にある総合病院を目指しました。もちろん、そこも普段人間の使っている病院を、ネズミ達が上手く利用しているのです。といっても病院は夜にも人間が使いますから、ネズミたちは病院の床下に自分たちのための手術室や診察室を作り出して、利用していました。

 彼は入口から曙光を浴びて白く輝く病院の外観を眺めると、じんわりと胸が熱くなるのを感じました。彼は今晩語った夢、自身の目標を思い出し、ひとつ大きく深呼吸をしました。そして堂々と胸を張って、病院へと入っていきました。

 院内では、若い医者や看護師たちが慌ただしく働き回っていました。彼らは互いに、彼らの間で共有された独自の言葉でコミュニケーションをとりながら、効率的なチームワークを発揮していました。トルエはそんな彼らに敬意を払いながら進み、ある老医師の前へ辿り着くと、

「こんばんは、ロジャー先生」

 と声を掛けました。

「こんばんは、トルエくん。水曜にここに来るなんて珍しいね。しかも今日はやけに張り切っているように見える。何か良いことでもあったのかい?」

 老医師はゆっくりとした口調で応じました。

「いえ先生、そういうわけでもないのですが、しかし今日は学校で進路調査があったのです。僕はそこで医者になりたいと宣言しました。もちろん、先生はご存知のようにこれは前々から決めていたことです。しかし今日みんなの前で宣言したためか、僕はまた新たな気持ちで、このことに臨もうと思ったのです」

「そうか、そうか。うん、そうだね、それは非常に素晴らしい心がけだよ、トルエくん。というのもね、そういった初心は誰でもついつい忘れてしまうものなのだからね。無論、私だって例外ではないさ。しかしね、トルエくん。それは誰にとってもかけがえのない、何よりも大切なものであることがほとんどだし、それ故にそれは、本当の意味で忘れ去られるものではないんだよ。ちょうど君が今日その気持ちを思い出したように、それはいつだって君の心の奥底ではしっかりと残っているものなんだ。大切なのは、それを時々でも良いから思い出して、丁寧に磨いてあげることなんだよ」

 ロジャー先生と呼ばれたその老医師ははゆっくりと、しかし力強い口調で語りました。彼が何かを語るとき、その表情には少年のような若々しさが宿るのです。皆さまお気づきでしょうか?そう、彼はつい先日、トルエたちの学校で医学の講義をしていた先生なのです。医者と学校の先生を掛け持ちするということは、ネズミの世界ではそこまで珍しいことではありません。ロジャー先生は、授業の無い日にはこの総合病院で手術をしたり、若い医者に手術のことを教えたりしていました。

「そうですね。ありがとうございます。では、行きましょうか、先生」

 二匹はそこで手術室へと向かいました。手術室には数匹の看護師のネズミと患者さんのネズミがいて、辺りにはメスやルーペなど様々な機器が置かれており、それらは無影灯に照らされてきらりと輝いています。そこでトルエはロジャー先生の手術の様子をじっと観察しました。先生はまず初めに麻酔を打たれぐったりと横たわった患者の様子をじっと観察すると、おもむろに小型メスを取り出し、すっと患者の身体へ挿し込み、切込み線を入れました。そこで看護師のネズミが先生にさっとピンセットと電気メスを受け渡します。彼はそれらを用いて皮下組織を分け入っていきました。するとやがて赤黒い色をした腫瘍のある臓器が見えました。彼は慣れた手つきであっという間にその腫瘍を摘出してしまいました。そしてその後の閉創も手早く美しくこなして、あたかもなにもなかったかのようにすっかりと縫い合わせてしまうのでした。

 トルエは手術の様子を真剣なまなざしで見つめながら、以前先生に教えてもらった通りに、自分の頭の中で同じ動作を真似てやってみせました。しかし頭の中ですら、ロジャー先生ほど上手にやってのけることは叶いませんでした。

 手術が終わるとトルエの身体にはどっと疲労が押し寄せました。しかしそれは体育の授業で感じたような苦痛を伴うものではなく、むしろ心地よくすら感じました。

「今日もありがとうございました、先生。また来ます」

「ああ、お疲れ様。でもまああまり無理はせず、ゆっくり休むんだよ」

 二匹はそう言って別れました。トルエは、ロジャー先生の背骨が浮き出ている背中を心配そうに見送ると、帰路へ向けて進み始めました。


 トルエが病院での研修を受けている頃、フォルは薄暗い民家の屋根裏でトルエの妹のハナと一緒にいて、肩を寄せ合いながら話をしていました。

「フォル、さっきはどうしてあんな風に嘘を言ったの?」

 ハナは少し非難するような声色で彼に問い詰めました。けれど彼はいつものように動じません。

「ああいった方が皆は喜ぶだろ? 実際、皆は教室を出るときうっとりとした表情をしていたぜ」

「けれどフォル、何も嘘をつく必要はないじゃないの。確かにあなたのお母さんは病気で寝込んでいるけど、それは手術するような重いものではないんでしょ? それに、いもしない弟の物語を作り上げるなんてやりすぎよ」

「ハナ。君はまじめすぎるんだよ。そういうところは君のお兄さんに似ているな。でもね、僕は自分の人生を楽しんでいるし、より楽しみたいとも思っているんだ。僕は確かにあんな風に嘘をついてみせたけれど、それは誰かを傷つけるものではなかっただろう? むしろ僕は、皆にエンターテイメントを提供してやったんだよ。教室の無垢なネズミ達は、いや、世の中のほとんどのネズミ達は、誰だってエンターテイメントを求めているんだ。そしてそれには、不幸の味が必要なんだよ。もちろん、自分の不幸じゃない。誰か他の奴の不幸さ。それは樹木から滴る甘い蜜みたいなもので、かぐわしい香りで皆を魅了して、自分の人生を忘れさせてくれる。つまり、エンターテイメントというのは自己からの逃避のためにあるのさ。でもね、僕は自分の人生を、自分で楽しむことが出来るんだ。だから自分ではエンターテイメントは必要ない。むしろ、皆にそれをわけてやることができるんだ。彼らはあれで十分楽しんだだろうし、僕は僕で、今後の人生をより楽しみやすくなるかもしれない。これは一石二鳥だと思わないかい?」

 ハナには、フォルの言っていることがよく理解できませんでした。何より彼女は、他のネズミの不幸を聞いて、良い気分がしたことなどありませんでした。それで何かを言おうと思ったのですが、上手く言葉が出てこずに、

「そうかもしれないけど……」

 とだけ返しました。彼女は自分の気持ちが上手く言葉で言い表せないことに少し苛立ちを感じましたが、とにもかくにも、フォルに悪意がないことを知り一安心しました。

「まあそんなに怒らないでくれよ。何も本気でチーズハンターになろうなんて思っちゃいないさ。僕は君がそばにいてくれるだけで十分なんだから」

 彼はそんなキザな台詞を平気な顔で言うと、ハナの頬にそっと口づけをしました。

「まったく、調子いいんだから!」

 ハナは呆れたように言いましたが、もうそこに非難の色は乗せられていませんでした。


 同じころ、ビスはなんべんも回り道をしながら、ゆっくりと家を目指していました。両親に自分の泣きはらした顔を見られるのは嫌でしたし、またなにかがみがみと言われることは目に見えていたため、家に帰るのは億劫でした。しかしどんなに遠回りをしても、結局いつかは辿り着いてしまうものです。彼は物音を立てないようにこっそりと玄関をくぐり、寝室へと移動しようとしました。しかしことはそう上手く運びません。

「ビス! 帰ってきていたのかい」

「あ、ああ……。ちょうど今帰ってきたところだよ、おっかさん」

 ビスのお母さんは彼の前に立ちはだかり、彼を一瞥すると、すぐさまそこから違和感を発見しました。

「あんたその眼! また学校でいじめられて泣いて帰ってきたんだろう。どうしてやり返さないんだい!」

 ビスの母親はそれから大きくため息をついて、なにかぶつぶつと独り言をしきりに呟きだしました。そこへ、父親も現れました。父親は、欠伸をしながらまるで興味のないように二匹を見つめました。それを見た母親はまたも憤慨して、

「あなたもビスに何かいってちょうだい! この子、全然何を考えているかわからないのよ。いじめられているのにやりかえそうともしない。悔しいとも思わないから、いつまでたってもいじめられるんだわ!」

 とほとんど叫ぶ勢いで言いました。それで父親は渋々、少しの時間思案する素振りを見せてから、

「ビス。お前はいじめられて悔しくないのか?」

 と、言いました。

「……悔しいよ」

 ビスは、かすむ視界とぼんやりした頭でそう答えました。世界がぐらぐらと揺れて、自分の身体が地に足ついていない感覚でした。

「じゃあ、なんで見返してやろうと思わない? 運動も勉強も、なんでちゃんとやらないんだ?」

「ぼくは……」

――ぼくはちゃんとやろうとしてる。でも出来ないんだ、どうしても。だからぼくは生きる価値のないネズミなんだ。だからいっそ、もうぼくを殺してよ。

 ビスのその言葉は彼の口から発せられることはなく、唾と共に飲み込まれました。

「ごめんなさい。おっとさん、おっかさん……」

 代わりにビスはそう言いました。

 父親はそこで呆れてしまい、またひとつ大きく欠伸をすると、頭を掻きながら寝室へと戻っていきました。すると母親が突然、金切り声をあげて泣き叫び、ビスの身体を思いきりぶち始めました。鈍く重たい痛みが、ビスの身体を襲います。

 しかし、その痛みはいま、ビスの心にある種の安寧をもたらしました。彼は激しい痛みと共に、段々と死が近づくのを感じました。すると彼は、自分が死ぬということを、心の底から切望したのです。それは非現実的で、倒錯した理想ではありましたが、確かな救いとして彼の前に提示された、唯一の希望でもありました。そうして彼は、自身に解放をもたらしてくれるこの親しみ深い苦痛を、喜んで受け入れました。

 けれど、現実は現実としてどのような場合であっても存在し、それが理想と合致することは、ほとんどの場合ありません。だからこそ理想とは理想たり得るものであり、心より望まれるものでもあるのです。いつしか母親は彼を殴るのをやめていて、代わりに彼の頭を泣きながら撫でていました。そして繰り返しこう言うのです。

「可哀相なこ……。わたしが、あなたのことを産んでしまったのが、ぜんぶ悪かったのよ。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」

 そうして、母親の言葉と共に欺瞞と諦観に満ちていった彼の思考はそのまま泥沼の奥底へと沈んでしまい、溺れ死ぬようにして彼の視界は暗転していきました。


 翌晩ビスは、床の上で突っ伏したままで目を覚ましました。全身に鈍い痛みが重くのしかかっていて、起き上がると、身体がズキズキと痛みました。目が覚めた直後というのは、彼にとって最も憂鬱な時間でした。何故なら、学校でも家でも、今日という一日の中で、これから何か嫌なことが起きるということは、目に見えているからです。しかし幸い、今日には体育や図工や音楽といった授業はありませんでした。ああした実技を伴う授業は彼にとっては公開処刑のようなものだったので、それらがない分、幾分かは気分もマシになる思いではありました。

 寝室では彼の母親が大きないびきを立てて寝ており、父親は既に仕事に出かけていていませんでした。彼の部屋には紙皿の上にパンの耳の切れ端が乗せて置かれていて、ビスはそれを口いっぱいに頬張ると、母親が目覚めてしまわない内に、家をあとにしました。

 

 通学中、ビスが夜の街をゆっくりと歩いていると、道路の真ん中に一匹の小柄なネズミがぽつんと座っているのが見えました。

――彼女はあんなところに一匹で、何をやっているんだろう? ……あっ!

 ビスの身体は反射的に動いていました。彼の大きな身体は、彼女の小さな身体を思い切り押し飛ばし、そのまま勢いよく自身の身体も道路の脇へと転がりました。そしてその真後ろでは、自動車が風を切るようにして通り過ぎていきました。全ては一瞬の出来事でした。

 押し飛ばされたメスネズミはゆっくりと起き上がると、ビスの方へ向き直りました。彼女は色白で端正な顔立ちでしたが、黒い瞳は赤く腫れていて、目元には涙のあとがついていました。彼女はビスを見ると、心底申し訳なさそうな顔をして言いました。

「ごめんなさい、ありがとう。あなた、ケガはなかった? ……私、どうかしていたわ……」

 彼女はすると、いきなり自分の頬を両手でぴしゃりと叩き、改めてビスの顔をじっくりと見つめました。

「私、リリっていうの。あなたは?」

「ぼくは、ビスだよ……」

 ビスは突然の出来事に気が動転していました。

「ビス君。あなた、命の恩人ね。本当にありがとう。……私ね、自殺しようと思っていたの、ここで。でもね、あなたのおかげで目が覚めたわ。もう自殺なんて絶対にしない……」

「ぼくも……」

「え?」

「ぼくも死んでしまいたいと思っていたんだ。いや、今でもそう思っている。ぼくは生きていたって仕方ないネズミだから。君の事情はよくわからないけど、ぼくには誰かを救う資格なんてなかったんだ」

 ビスは初対面の彼女にいきなりそんな話をするのは自分でも変だと思いましたが、話さずにはいられませんでした。彼には、自分の感情を吐露する相手が必要だったのです。そしてそれは、先生でも家族でも同級生でもなく、第三者であるリリである必要がありました。リリはビスの告白に一瞬戸惑いましたが、状況を察して、少し考えてから言いました。

「それで、あなたはまだ死にたいと思っているのね。生きていたって仕方ないと言ったけれど、どうしてそう思うの?」

「ぼくは、出来損ないのネズミなんだ。おっとさんもおっかさんもクラスのみんなも、皆ぼくを馬鹿にしている。それはぼくが運動も勉強もできない出来損ないだからなんだ」

 ビスは吐き出すように言いました。

「あなたは、勉強や運動がやりたいの? それが出来ないことは悪いことなの?」

 リリが返します。彼女はビスを問い詰めるように言いましたが、そこに非難の気持ちは認められませんでした。彼女の言葉はまっすぐで力強く、それでいて、優しさを備えていたのです。そしてそのことはビスにも伝わり、ビスは、リリにならじぶんの気持ちを全てさらけ出しても構わないという気がしました。

「やりたくはないよ、でも、やらなきゃいけない。でも、出来ないんだ。だからぼくはわるい……」

 ビスがそこまで言うと、リリはぐっとビスに詰め寄ってきて言いました。

「出来ないことは本当に悪いこと? ねえ。ネズミの社会はここ最近で、随分と平和になったわ。本によれば、昔の暮らしぶりは今では想像もできないくらい酷いものだったみたいよ。平和は、皆が努力して、自身の才能を活かして築き上げた社会のおかげで得られたの。それ自体はとても素晴らしいことだと思うわ。でもね、良いネズミじゃないといけないの? 立派な才能があって社会に貢献できなければ、それは悪いことなの?」

「ぼくは自分を悪いとは思わない……。でも皆がぼくは悪いと言えば、それは悪いということじゃないか……」

「正しさは誰が決めるの? あなた? みんな? 社会? 私はね、自分の正しさを譲りたくなかった。でも、誰も私が正しいとは認めなかったわ。それで自暴自棄になっていたところをあなたに助けられた。……確かに私は少し独りよがりだったと思う。でもね、全てが間違っていたとは思わないの。自分の正しさを貫くこと、それ自体は悪いことなんかじゃないんだから。それに、誰かを馬鹿にしてしまうことの方が、よっぽど悪いことだと私は思うの」

「じゃあ君は、ぼくのようなどうしようもない出来損ないでも生きていて良いって言うのかい?」

「もちろんよ。結局、できるできないなんてものは個性でしかないの。良いと、悪くないなのよ。それを悪いと責めるのは、皆が競いあって余裕をなくしているからだと思う。競争は豊かな社会を築くために必要だと、社会学者たちは言っているわ。人間社会の受け売りなんだけどね。確かにそれは間違っていないと思う。でもね、それは社会の話であって、私たちは競争をするために生まれてきた訳ではないのよ」

 彼女の言葉はすうっとビスの身体へ入り込み、そして死にかけていた彼の心を、倒錯した感情を、優しく解きほぐしました。そしてそれはじんわりと、ゆっくりですが、しかし確かに彼の心の中に浸透していったのです。

「ありがとう……。リリ、君はやさしいんだね」

「ううん、私は優しくなんてないの。私はただ、自分の考えていたことをあなたに伝えただけ。命の恩人のあなたには、ほんとはもっと感謝しなきゃいけないくらいだし」

 二匹はそこでなんだか気恥ずかしくなって、笑いました。心の底から笑ったのはいつぶりだろう? ビスは思いました。学校は遅刻でしょう――しかし、彼の心は今この瞬間、確かに生まれ変わりつつあったのです。


 何かが起きるときというのは、それが良いことであれ悪いことであれ、何の前触れもなくやってくるものです。それは地震や嵐といった自然災害と同じことで、避けようとして避けられるものではありません。ただじっと備えて待っているしかないのです。もちろん、その備えだって必ずしも役に立つものとは限りません。

 学校のネズミ達はぞろぞろと校舎の門をくぐっていきます。するとどこからか、陽気に口笛を吹く音が聞こえてきました。校舎の暗がりの中で誰かが石ころを蹴り、石がころころと転がります。一匹のネズミがその石でつっかえて、文句ありげにその石の転がってきた方を見つめました。しかしその表情はすぐさま恐怖の色へと変わります。

「野良猫だ!」

 ネズミは叫びました。その直後、暗闇からスッと現れ出た真っ黒な野良猫が、そのネズミのはらわたを食いちぎり、グラウンドには鮮血が撒かれました。ネズミはその場で倒れ込み、苦悶の表情を顔に張り付けたまま口から血を流し、その眼からはだんだんと光が失われていきました。野良猫の方では、月光を浴びて恍惚の表情を受かべながら、周りのネズミ達をゆっくりと眺めました。それから口にくわえていたあたたかな臓物をごくりと飲み込み、ネズミ達に微笑んで見せました。ネズミ達は恐怖に足がすくみ、ほとんど声も出せずにその場で立ち尽くすしかありませんでした。

 暗闇からは更に二匹の三毛猫が現れ、三匹はじりじりとネズミ達に詰め寄りました。突如、一匹のネズミが叫び声を上げながら正門を目指し駆け出しました。するとすかさず、黒猫の背後から現れた三毛猫の内の一匹が、逃げ出したネズミへと詰め寄っていき、彼に追いつくと、そのしっぽを思い切り嚙み千切りました。しっぽを失ったネズミは痛みで叫び声を上げたまま、思い切り前のめりに転び、勢いよくコンクリートの地面に顔を擦らせたために、あごを酷く擦り剝きました。

 尻尾を嚙みちぎった三毛猫はけたけたと笑いながら彼のことを見つめると、次に、左耳を齧りました。彼は哀れにも、激しい痛みと絶望で泣き叫ぶことしか出来ませんでした。彼があんまりにも大きな声で喚いたので、猫は段々とそれが耳障りになってきて、次には一口で彼の頭を丸ごと食べてしまいました。

 猫が咀嚼をし、頭蓋骨の砕ける乾いた音が静寂の中に響き渡ります。何匹かのネズミはそこで吐き出しました。

「まあまあ君たち、そんなに怖がらないでくれよ」

 ネズミたちの様子を見ると黒猫は、赤ん坊をあやすような優しい口調でそう言いながら、彼らのもとにじりじりと歩み寄っていきました。

「俺らはただ遊んでいるだけなんだよ。近頃は、馬鹿な同胞どもは人間の奴隷に成り下がっているし、規制は厳しくなるしで、やりきれない思いなんだ。だから、ネズミの一匹や二匹、嬲っておかないとストレスが溜まるだろう? 君たちだってそのへんの芋虫かなんかをそうやって、かわいがってやったことがあるだろう。それと同じことだよ。しかしねえ、そうも怖がられたら、君たちのことをもっとかわいがりたくなっちゃうじゃあないか」

 黒猫は、あくまで紳士的な態度で語りました。しかしその表情には抑えられない興奮が、じわりとにじみ出てきて、彼の顔に下卑た微笑みを湛えました。それから、群衆の中からたまたま目に入った一匹のネズミの元へ歩んでいって、彼の怯えた顔を見下ろしました。そのネズミは、ビスのことをいじめていたグループの主格となっていたネズミで、名はトーマスといいました。トーマスは、身体をびくびくと震わせて、黒猫に縋るような視線を向けました。黒猫は彼の怯えた顔を見ると満足そうに微笑んで、彼の頭を撫ぜました。それからいきなり爪を立てて、彼の喉のところにあてがいました。肌の皮が少しだけ切れて、僅かばかりの血が流れ落ちます。彼は心臓が張り裂けそうなほどの恐怖に支配され、それにより死んでしまいそうな思いでした。

「君たちと私たちは全然違うよ」

 すると突然、群衆の中から一匹のネズミが声をあげました。それは、ロジャー先生の声でした。先生は恐怖で動けなくなったネズミたちの間を進んで野良猫の元にやってきながら、二度同じことを繰り返して言いました。野良猫は、先生の覚束ない足取りと、弱々しい体つきを見ると、先生のことを小馬鹿にしてけらけらと笑いました。しかし先生は物怖じもせずに、野良猫のすぐ傍の所まできて、彼らを見上げながら、

「君たちは暴力を楽しんでいるようだが、それは間違ったことだ。私の生徒たちは君たちとは違う。誰かを傷つけて楽しむなんて、そんなことは許されないのだからね」

 と、いつものように、ゆっくりと力強い口調で言いました。

「これはこれはセンセイ! 俺らに説教を垂れるんですか。ですけどねえセンセイ、鼠であれ猫であれ、純粋無垢な神の子であれば等しく、その心の内には残虐性を秘めているものなんですよ。だから、今そこでぶるぶる震えているネズミたちだって、立場が変われば少なからずこのことを愉快に思うはずですよ。何も違いはありません、全ては同じなんです」

 黒猫は勝ち誇った顔で言いました。

「たしかに、君たちと私たちは多くの点で似ているし、同じと言えるのかもしれないね。しかし、内に秘める残虐性を表に出すのと出さないのでは、大きな違いだ。何かを思うことと、何かをすることの間には、計り知れない距離があるんだよ。それでも、誰だって道を踏み外すことはあるだろう。失敗しないことなんて不可能だからね。それ自体は、まだそこまで大きな問題にはならない。けれどその失敗を失敗と認めずに開き直っている君たちは、最も良くない性質にあるのだよ。私は、私の生徒たちがそんなことにはならないと信じている。けれどいつだって遅すぎるということはないさ。君たちだってまだもとに戻ることは出来るんだ」

 ロジャー先生は黒猫の顔をまっすぐに見つめながら言いました。

「綺麗事をいいやがって!」

 堪え切れなくなった黒猫は、ロジャー先生の顔を、鋭い爪で切り裂きました。先生はその場でばったりと倒れましたが、再び黒猫に視線を向けると、懇願するように言いました。

「私のような老いぼれを殺すのは構わないさ。けれど、私の生徒たちにはこれ以上手を出さないでくれ。どうか頼む……」

 そこまで言うと先生はがくっと力を失い、その顔に宿った少年のような力強さは、その瞳に宿った輝く星は、明かりを失いました。野良猫たちはそれを見てへらへらと笑いました。しかし彼らは少し疲れてしまって、興が覚める気分でした。耳障りな善意をはねのけられるほどの悪意を手に入れることは、容易ではありません。それは真に優しくあることが容易ではないことと、同じことなのです。

 野良猫たちが笑っていると、一匹のネズミが群れの中から飛び出し、黒猫をめがけてものすごいスピードで突進し、そのまま、黒猫の膝のあたりにガブリと噛みつきました。咄嗟の出来事に、黒猫はうめき声を上げながら前足を振り回しました。ネズミはそこで口を離して、パッと後ろへ飛び退くと、またすぐにダッシュできるように姿勢を整えつつ言いました。

「みんな今のうちに校内へ逃げろ!」

 それはフォルの声でした。皆はそこではっとして、一目散に逃げだしました。後ろの三毛猫たちはフォルを一度にらみつけましたが、黒猫はすっかり興ざめしてしまって、

「今日はもう帰るぞ、お前たち!」

 と言いました。そうして嵐は過ぎ去っていったのです。


 トルエは先日の疲労のために起きるのが遅くなり、今日は少し遅れて学校にやってきました。そのため、学校にやってきたころ、既に嵐は過ぎ去った後でした。彼が構内へ入ると、グラウンドに出来た群衆と、妙に鉄臭いなにか嫌なにおいを見つけ、どこか胸騒ぎがして群衆の中へ飛び込んでいきました。群衆の中心には先生の亡骸が横たわっていました。先生は頭だけを覗かせて、残りの部分には土が被せられていました。彼はその場で立ち尽くしました。さっきまで見えていた綺麗なお月様は、段々と灰色の雲に覆われていき、ぽつり、ぽつりと、大粒の涙を流し始めました。

 先日フォルの演じた劇によって作られた空気感とは全く異なる、薄暗い感情がネズミたちの心を覆いつくしました。それは確かに皆にとって、自分自身の体験となって、心に傷を残したのです。トルエは何も考えられずに、その場に立ち尽くしていました。目の前の現実は確かにすぐそこにあるのに、それはどこか遠くの方にあるような気がして、思考は空中で虚しく空回りしました。

 けれど、彼はそれからゆっくりと、確かな怒りを感じ始めました。その怒りが向けられた先は野良猫たちではなく、自分自身でした。彼は思いました。

――僕がもっとはやく学校に来ていたら、ロジャー先生は救えたかもしれない。何故今日に限って、こんなことが起きてしまうんだ……。

 彼は自分の不甲斐なさを呪い、無力さを憎みました。そんな中、沈み込むネズミの群れの中に、フォルが顔を見せました。

「みんな、もう大丈夫さ。猫は僕が追い払ってやったから」

 彼は少し興奮した様子で、けれど周りのネズミたちを励ますようにそう言いました。しかし、

――大丈夫だって? 

 と、トルエは心の内で反駁します。

――何も、大丈夫なんかじゃない。先生はもう戻らないっていうのに。彼なら、フォルならば、ロジャー先生が襲われる前になんとか出来たんじゃないのか? いや、それは違う……これは僕が悪い。これは僕がちゃんとしていれば起こらなかったことなのだから……。しかし、僕がその場にいたとして、僕になにか出来たろうか? 実際、彼がいなければもっと多くのネズミが死んでいただろう。僕がいたとしてどうだ? 僕にできることなんて、本当にあるのだろうか? 僕はいったい……。

 トルエの思考は、ざあざあと激しく降り始めた雨のように、彼の身体に降りかかりました。その雨粒はひとつひとつが鉛のように重たく、彼の身体はそれによって穴が開きそうになるくらいです。不条理の責任を自身に見出した彼は、自問と自罰を繰り返しました。けれどそれによって、ある意味では、確かに自分を保つことが出来ていたというのも事実なのです。雨は尚も降り続けています。ネズミたちは、一匹、また一匹と、その場からいなくなっていきました。彼はその間中ずっと、ズキズキと痛み出した頭を手でおさえながら、膨らんだ土塊を眺めていました。

 彼はそれから、先日の病院でのことを思い出しました。自分の夢を語り、未来を語り、その背中を押してくれた先生はもういません。それに気づいたとき、彼は初めて涙を流しました。そこにはもう怒りはなく、ただ海のように果てしなく、どうしようもなく広がった現実的な悲しみだけが存在しました。

 それからどうなったのか、彼はよく覚えていません。気が付くと、彼は自分の部屋のベッドの中にいました。どうやら長いこと眠ってしまったようでした。まるで長い長い悪夢にうなされていた気分でしたが、彼の布団に置かれた濡れた枕が、さっきあったことが確かに現実であったのだということを無情に突きつけました。

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ネズミの学校 砂糖 雪 @serevisie1

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