第4話 貧弱令嬢は回想する


 カナリーの護衛セルヴォとは、実はマインテンより長い付き合いだ。


 マインテンと婚約したのは3年前。カナリーが13歳の頃。マインテンは今のカナリーと同じ16歳だった。

 セルヴォと引き合わされたのは、10年前の6歳。


 か弱く貧弱な武家の姫を守る護衛の一人として、セルヴォとカナリーは顔を合わせた。


 実を言うと、この時護衛として紹介されたのはセルヴォだけではない。他に4人、彼を合わせて5人の護衛が紹介された。

 5人の護衛は全てカァニス家の分家の出で、カナリーと年の近い若者が多く配属された。12歳から15歳の若者を集めてカァニス家のお姫さまの護衛に当てたのは、優秀な若者をカナリーの婚約者として宛がう算段も含まれていた。

 カナリーはそんなことをまったく気付かず、たくさんお兄様ができたときゃっきゃ無邪気に喜んでいたが…迷い込んだ猫を追いかけ、お約束とばかりに、彼らに庇われ守られる中で、足を折った。


 ポッキリ折った。五回ほど折った。


 そして護衛対象のあまりの脆さに、護衛達の心も折れた。


 カナリーの骨と一緒にポッキリ折れた。


 結果、誰一人として護衛は残らなかった。


 カナリーは盛大に泣いた。わんわん泣いた。

 兄のように接してくれた5人全てが青ざめた顔でカナリーを避けるようになり、寂しさでわんわん泣いた。骨折の痛みではなく、寂しさで泣いた。

 仲良くしてくれた人たちが一気にいなくなって、寂しくて泣いた。


 そんなカナリーに、真っ白い猫の人形が差し出される。


 涙に濡れた目で見上げた先に、困った顔で猫の人形を差し出すセルヴォがいた。


『申し訳ございませんお嬢様。これからも一緒に居ますので、どうか泣かないでください』


 …セルヴォは優しい人だから、泣いているカナリーを見て引き返してきてくれた。

 わざわざ小さな女の子が好きそうな、猫の人形を携えて。

 泣きすぎて肋骨を折るのではと心配しながら、小さな手でカナリーの小さな背中を撫でて慰めてくれた。

 その時のセルヴォは12歳。カァニス家分家の次男だった彼は、それからずっとカナリーの護衛として傍にいてくれた。


(…わたくしが、あまりに泣くから)


 優しい彼は、泣いている女の子を放っておけなかった。それだけなのだ。

 カナリーの護衛は婚約者選別の一環だったが、武の家カァニス家は、一度逃げた者を許さない。護衛として傍に置いても、婚約者候補…カァニス家の跡取りとしては見られなかった。


 だからそれから7年後、カナリーの婚約者にはマインテンが選ばれた。カァニス家の管理する軍部から、若く将来有望な強い男を。


 しかし強い男は、か弱い女に魅力を感じなかった。

 強い男は強い女を求め、更なる高みを目指して二人で旅立った。


 カァニス家はカナリーの婿…カァニス家の跡取りを、より厳重な審査で選別している。

 きっとそこに、セルヴォは入っていない。


(…でも、次もまたきっと、武人なの)


 わかっているからこそ、カナリーは強くなりたかった。


(だって武人は、わたくしみたいな脆い女は好まないのでしょ…?)


 力の限り抱きしめたい、とマインテンは言った。

 だけど、カナリーだって。


(わたくしだって…殿方に、力一杯抱きしめて貰いたい)


 息が苦しくなるくらい熱烈に、抱きしめて貰いたい。

 真綿で包むような触れ方じゃなくて、力一杯。温もりを感じるくらい。

 だから。


(やっぱりわたくし…筋肉をつけねばならないわ…!)


 どれだけ考えても結論、筋肉。

 脆い身体を鍛えるため、カナリーはひいこら言いながら邸内の庭で散歩に勤しんでいた。


「お嬢様そろそろ休憩にしましょう。すごい汗ですよ」

「まだ…まだ、はじめて十分も経っていないわ…!」

「十分も歩き回ればたいした物です。普段部屋の中でじっとしているのが仕事なんですから、それだけ歩けば疲労も溜まります」

「仕事じゃないもん、仕事じゃないもん…っ」

「とにかくここまでです。休憩してから部屋に戻りましょう。ほらこの石に腰掛けて」

「まだ歩けるもん。あの角まで行けるもん…っ」

「そうですね、休憩してから行きましょうね。ところでお嬢様」

「なによぅ…」

「世の中には疲労骨折というものもありまして」

「休む…」

「はい、水を貰ってきますからここでお待ちください」

「ううううう…っ」


 セルヴォが手ぬぐいを置いた石の上に腰掛ける。大きく平らな庭石は、どっしり構えて安定感がある。うっかり滑って落ちることもないだろう。

 カナリーが座ったことを確認してから、セルヴォが周囲を見渡して使用人に声を掛けに行った。想像以上にカナリーが頑張ったので、水分補給をさせることにしたらしい。確かにとても汗をかいた。カナリーは額に張り付いた前髪を指先ですくい、この程度で疲れる自分に眉を下げる。


 これでは筋肉もりもりになるまでの道のりが遠すぎる。きっと亀よりも遅い歩みだ。のそのそというよりよちよち歩いている気がする。


(亀って、こんな気持ちでいつも歩いているの? あの角を目指しているのにまったく辿り着かない焦燥感といつも戦っているの? それとも心にゆとりを持ってまったりゆったり進むからこそ亀なの? わたくしに足りないのはゆとり? いいえ、亀の万年にわたくしの生涯は短すぎますわ。時間の経過が恐らく違う…)


 汗が流れる。カナリーはしたたり落ちる滴に逆らって空を見上げた。

 気持ちの良い青空。爽やかに密やかに吹く風。ゆっくり進んでいく白い雲。

 カナリーの傘になっている、日を遮る緑の葉。


(…セルヴォは、ここが木陰だから座るように言ったのね)


 いつも、カナリーを気に掛けてくれる優しいセルヴォ。

 分家の次男としては、本家のお姫さまの護衛を務めるのは名誉なことだ。彼の家は長男が継いでいるし、長男以外の家督を継がない男児は皆、武人として武勲を建てるか文官として国を支えるか。マインテンのように家から、都から飛び出し武を極めるのはごく少数。

 どんな形であれ、本家に関わる仕事は分家にとって名誉なこと。

 名誉なことだけど…。


(セルヴォも…武人、なのよ)


 護衛は武人だ。戦う人だ。武を持って主人を守る人。


(だから、わたくしみたいな鶏ガラみたいな女を抱きしめたくは…)


 一人で考え込んで、一人でダメージを負い、カナリーはえぐっと嗚咽を漏らした。


「少しで良いからさ、一緒に行こうぜ」

「そうそう、結構お得だと思うよ?」

「あの、困ります…」

(あら?)


 半泣きになっていたカナリーは、聞こえてきた声にぱっと顔を上げた。

 カナリーは散歩として、邸の敷地内を外周するつもりで歩いていた。カァニス家は広く、カナリーの歩幅で外周を完走するには一日じゃ足りない。だからカナリーの現在地は、彼女が生活する範囲からまったく離れていない。


 だから、聞こえた弱り切った声の主を知っていた。あれはカナリーの部屋を掃除する下女の声だ。


 本来、使用人は主人に見られないように掃除洗濯を熟す。だから主人であるカナリーに見られてはいけないのだが、その下女を知っているのには訳があった。

 あの下女はカナリーがうっかり汚してしまった猫の人形を、根気よく綺麗にしてくれたのだ。

 それが仕事ですのでと恐縮していたが、カナリーはとても感動していた。もう二度と白い猫に会えないと思っていたから。

 ラー油の油汚れはしつこかった。もう二度と食事中に人形を抱えたりしない。


 白猫の救世主である下女が困っている。

 これは、恩を返す時が来たのでは?


 カナリーは深く考えず、よいしょと立ち上がった。


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