第18話 安藤とメフィストフェレス

「では、人間の側に倫理というものは、必要ないということですか。欲望のまま行動してもかまわないと」

「いえ、それとこれとはまた話が違います。極論を言ってしまえば、確かに、全員に倫理は必要ありませんが、個人に欲望のままに行動されては困ります。最も大切なことは、みなが波風を立てず、衣食住に困らず、快適に過ごせる社会を実現することです。そのために必要なのが、それを実現することができるシステムです。全員を倫理的にすることではありません。

 例えるなら、全員が外国語をマスターする必要がないのと同じです。一部の人が特定の外国語をマスターして、翻訳や通訳をしたり、あるいはAIによる自動翻訳を使用したりすれば、それで事足ります。全員が外国語を学習する必要性は低い。それと同じで、一部の人が、倫理的なシステムを構築し、他の人はそれに身を委ねればそれでいいんじゃないでしょうか。

 逆に、安藤さんは、すべての人間が倫理について関心を持ち、倫理的になることが実際に可能で、またそうするべきだと考えているのでしょうか。そんな思想統一のようなことをすべきだとでも考えているのでしょうか」


「それは……」

「まず不可能でしょうね。ならば可能な手段を取るしかありません。システムの側が倫理的であって、すべての人間をそのシステムの中に留めることで、欲望や本能のままに行動しても、あるいは悪意があったとしても、必ずシステムが矯正し、客観的には模範的な行動となるようにする。最善ではないかも知れませんが、最も正解に近い解決手段でしょう。安藤さんが指摘するとおり、人間の側に倫理があるかどうかはどうでもよいのです。結果として表れた行動こそが重要で、答えなのですから」


「それは分かります。しかし、そうであるなら、やはり人間の側に倫理を求めないシステムは、言ってしまえば人間を否定する究極の非倫理的なシステムとは言えませんか」

「理屈をもてあそべば、そう言えるかもしれませんね。仮にそうだとして、そのプログラムを終えた安藤さんは、今後、財満みたいな振る舞いをしたり、彼らを容認したりするつもりですか」

「いえ。おそらくは、しないでしょう」

「なら、それこそが答えになるのではないですか」

「なるほど。今、この仕事の本質を理解した気がします。この仕事は、倫理を担保する一部のエリート集団、つまり倫理屋であり、人々をシステムに留める倫理警察ということですね」

「そういう風に呼ばれたことはありませんが、そう揶揄することもできますね。しかし、私は、この仕事に誇りを持っているんですよ。国家の側から見れば、この社会は極めて管理コストの低い社会であり、市民として見ても、極めて快適な社会です。そうでしょう」

「私には、究極のディストピアのように思えますがね。最後にもう一つ、訊いてもいいですか」

「構いませんが、そろそろ次の予定があるので、手短にお願いできますか」

「あなたはどうしてそんなに楽しそうなんですか。私の時もそうでしたけど、財満と話しているときは、本当に愉快そうだった」

「それは、簡単です。私は純粋に愚かな人間が好きだからですよ」

「なるほど」安藤は失笑する。「私は、あなたの正体になんとなく見当がつきました」

「正体というのは」

「あなたは、常に悪を欲しながら、常に善を成す、そのシステムの一部だったんですね。食品を消化可能なタイプのアンドロイドといったところですか」

「面白いことをおっしゃる。でも、人間ではないという点では、当たらずとも遠からずといったところですね。返答は急ぎませんよ。決まったら連絡ください。では、これで失礼します」

売布宮は返却口にカップを返し、足早に休憩室を出る。


休憩室に一人残された安藤は、カップの中でぬるくなったコーヒーを飲み干し、店員の女性型アンドロイドを見つめた。

「なにか問題でもありましたか」

「いえ。なんでもありません。コーヒー、ごちそうさまでした」

「ありがとうございます。またのご利用をお待ちしております」

――あなたは人間ですかと問おうとしたが、やめた。本当のことは答えられないと知っていたから。了

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メフィストフェレスの街 的矢幹弘 @dogu-kun

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