第200話 舌打ち
岩エビがゴロゴロと接近するのを悠々と避ける。
『速さ』はレベル20の時点で106だった。今は115くらいにはなっているだろう。
現在レベル22のイリアと仮想レベル21の岩エビ。格としてはほぼ等しい。
チルカナジアの常識では1対1で戦うような相手ではないはずだが、今のイリアの目に魔物の動きは緩慢に映る。
『力』の制御の役割もある『マナ操作』を上げるため、体を精緻に動かすことを心掛け、毎日魔法の修練するのはもちろん戦闘にも用いた。
少なくとも国境越えをした時期より不器用になった感覚はない。ステータスの偏りは少しくらい緩和されただろうか。
前転からの尾の叩きつけ攻撃が全く当たらないことを悟ったのか、岩エビは戦い方を変えるようだ。腹を守っていた左右のハサミ、人間で言えば両腕を広げてガチガチと動かし始めた。
挟まれればどうなるかわからないが、それほど脅威は感じない。
6月初旬、イリアがまだぎりぎり14歳だったころ。小湖海東岸の浜辺で出くわした四つ腕シャコの打撃はとんでもなく速かった。一目見ただけで回避・防御が不可能とわかって、相手が陸に上がった海棲魔物であるのをいいことに全速で逃げ出したのを覚えている。
それに比べて岩エビのハサミの動きは鈍重の一言に尽きる。近くでぼんやりしていなければ捕まる事などないだろう。
岩エビを打倒し、成長素を獲得すればイリアは約50日ぶりにレベル上昇し23になるはずだった。
カナトが動かないならばやるしかない。
逃げようと思えば簡単に逃げられる相手だが、尾の肉は味が良く需要が高い。そろそろ積極的なレベル上げを再開しろというカナトの言い分も正しい気がしないでもない。
交互に繰り出される左右のハサミをよけつつ左回りに移動、左のハサミを戦鎚で叩き続ける。イリアから見てではなく、魔物にとっての左側ということ。外殻が2枚とも砕け、爪部分の内殻が露出した。
何か対策をとるでもなく同じように1方向に追ってくる岩エビ。大きく振り回されたハサミに最後の一撃を入れる。爪の付け根にひびが入った。ガチガチと鳴らされていたのが静かになる。
岩エビはこの程度では敗北を認めない。蟲や甲殻生物系統の魔物は、圧倒的な力の差を示したり、動けずに戦闘不能という状態にまで追い込まなければ『凶化』解除に至らない。
持久戦であっても負ける気はしないのでじっくり攻める。次、右のハサミを破壊すれば安全に肉薄できる。イリアは右回りに動き始めた。
カナトは距離を置き、イリアが成長素を獲得するまで動かないというかのようにじっと立っている。
気が付けばその向こうに、いつのまにか人影がふたつある。
「おいっ! カナト!」
「……ッ! わかった! いいから早く決めてくれ!」
槍の穂先の鞘はすでに掃われている。
こちらとあちら、どちらも視界に収められる位置にカナトは移動した。
危険を冒してイリアは岩エビのハサミの間合いに入り込んだ。
まだ健在の右のハサミを盾で制圧しながら、胴体部、盛り上がった丸い背中を滅多打ちにする。岩石と同じ硬さの外殻が次々砕けて剥がれていく。
爪が動かなくなった左のハサミを殴るようにぶつけてきた。鎧で守られたイリアの防御はびくともしない。
同じ場所を打撃し続け数秒後、イリアの体にレベル上昇の感覚が満ちた。岩エビのハサミははゆっくり動きを止め、20対40本の脚で後退を始めた。
「よし、とったぞ。
「本当か? ごまかしてないだろうな?」
「何でごまかすんだ。見ろよ、逃げてるだろ」
「ちょっとまだ動きが活発じゃないか? 蟲系はもうちょっと大人しくなるんじゃなかったか?」
「蟲とは微妙に違うんじゃないか? シャコに似てるし。いいから、早く止めを! 逃げちゃうぞ!」
「よしきた! 任せろ!」
子供のような若々しい声で答えたのはカナトではない。
最近また少し背の伸びたイリアよりも小さい、若い男が飛び跳ねるように近づいてきた。
「は? いや、あんたには頼んでないよ誰なんだ」
「遠慮はいらない! 分け前は考慮するから離れていたまえ!」
止る間もなくイリアと岩エビの間に割込み、腕まくりした右手に何かを塗った。
困惑するイリアをよそにぶつぶつと呪文を唱え、結びに魔法名を叫んだ。
『
男の右腕前腕が真っ白に燃え上がり、その炎が指向性を持って腕の延長線に勢いよく延びた。知らない魔法であり、あくまで見た感じだが複合精霊魔法ではなさそう。射程も短く半メルテ程度しかない。
岩エビはハサミで頭部を守ろうとしているが、白熱する炎は隙間から入り込んで同じ場所を熱し続ける。炭化した触角が燃え落ちていく。
丸い胴体の中心にある、胴と分離していない岩エビの頭部は6、7秒ほどで煙を噴き出した。蠢いていた脚も動きを止め、全体がズシリと地面に落ちた。
「やった! 倒したぞ、これでレベル21だ!」
「……」
イリアの【不殺(仮)】の作用で『凶化』を解除され、戦う意欲を失った相手を一方的に焼いただけだ。
もしそうでなければ、射程の無い魔法を7秒も当て続けられるはずがない。鎧も着ていない男は右のハサミで体をちぎられていた恐れもあり、あまり褒められた戦い方ではない。
「……なんだあんた。横から入って来て魔石を持って行くつもりなのか?」
「横からとはなんだい。君が止めを刺してくれと言ったんだ」
「あんたに言ったんじゃない。向こうにいる仲間に言ったんだ」
イリアはそういってカナトの方を示した。10メルテほど離れた位置で、カナトは男と一緒にいたもう一人とにらみ合っている。
「だがね、君の相棒は手伝いもせず突っ立っていたように見えたよ? 何だって君の危難を傍観してたんだ? 全く動かないでいる人間に止めを刺してくれと頼むとは思わないじゃないか、横入りなんて言われるのは心外だ。事情は知らないが誤解を招くような言動をとったのは君たちじゃないか?」
「それは……」
【不殺(仮)】は基本、イリア自身で打倒しない限り成長素が摂れない。
カナトが手伝わなかったのはイリアのレベル上げを邪魔しないためだったし、またその必要が無かったからだ。
そういう事情について、初対面のこの男に説明するのは不可能だ。
これはもう魔石についてはあきらめるしかないかもしれない。
イリアが黙ったのを見て、男は自分の権利を確信したように口角を持ち上げた。
「理解したようだね! いや、よかった、早く魔石を取り出さなくては! 岩エビの魔物格は21だから、これでちょうど僕もレベルが上がる!」
「え?」
「なんだい?」
「ちょうどって、どれくらいちょうどなんだ?」
「それはもうぴったりちょうどだ。数分の誤差が問題になるほどにちょうど。だからこんな話をしている暇はないんだよ、魔石から成長素が抜けちゃう。ガリムー! 解体ー!」
連れの男を呼んでいる。ガリムと呼ばれてこっちに向かってくる男は大柄だ。
カナトも成長期であり、もはや身長は18デーメルテ近くまで伸びた。男はそれよりもさらに長身で、その上体重は3割増しと言った感じだろう。
「待て。やっぱりあんたに魔石はやれない。岩エビの肉はやるから魔石はこっちにもらう」
「何言ってるんだよ。止めを刺したんだから選択権はこっちにある。魔石が僕で肉はそっち」
「そうはいかない事情があるんだ。譲ることは出来ない。なんなら多少色を付けてもいい。いくらほしい?」
「お金はこっちの方が持ってると思うね、要らないよ。無駄なくちょうどレベルを上げられるこんな機会はそうはないんだからね!」
それがちょうど良くはないのだ。この岩エビの元の仮想レベルは21だが、【不殺(仮)】の効果で20に下がっている。この男が魔石を摂ってもレベルは上がらないことになる。
岩エビの仮想レベルに個体差がないのは知れ渡っていることだ。
些細なことかもしれない。何かの勘違いで済む可能性のほうが高いが、秘密を隠して潜伏中のイリアにとって「変に魔石格の低い魔物が居た」という噂が立つのはできれば避けたい。
「その岩エビはもう逃げ出すところだったんだ。やっぱり権利は俺にある。ハサミ肉も食べていいぞ、それでどうだ?」
「しっつこいなぁ! いい加減にしないと出るとこ出るぞ! ていうか成長素が抜けちゃう!」
左腰から短剣を抜いて解体に移ろうとするのを手で押しとどめる。「危ないな怪我するよ!」とわめく男はイリアの本当の年齢よりも2、3歳年上かもしれない。直毛の髪の毛は丁寧に切りそろえられていた。
「5分くらいまでなら大丈夫だろ。揉めてるなら、こいつで決めるしかないんじゃないか?」
ガリムと呼ばれた男の後に付いてやってきたカナトが、ニヤニヤしながら右拳の関節をパキパキ鳴らした。
またか、と思う。
実際にはしないが、イリアは心中舌打ちをしたい気持ちだった。
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