第5章
第198話 8カ月後
スダータタル族長国は小湖海と裏海に挟まれた土地にある。東西の二つ海の間は広いところで400キーメルテ近くある
そして南には
東西と南を開拓不能の魔境に囲まれているだけではない。
北にある大森林から西に向かってタイニース川が流れ、東の裏海に向かってはマヤリナ川が流れている。
アクラ川ほどではないがマヤリナも大河と言える。蛇行しつつ、ときおり湖を形成しながらゆったり流れるマヤリナは220キーメルテの長さがあり、ラハーム教自治領との間に自然の国境を形成していた。
ようするに、スダータタルは四方すべてを踏破困難な地形に囲まれた、巨大な天然の城砦なのだ。
そのスダータタルに潜伏して8カ月の時が経過した。
イリアとカナトはこのひと月半ほど北東部岩石砂漠地帯で暮らしている。
カルガグとも呼ばれる岩石砂漠は国土の4分の1を占めていて、南部山岳地域ほどではないとはいえマヤリナ川流域よりは標高が高く、運河を引いて畑を作ったりするのは難しい土地だ。
というより、そもそもスダータタル十氏族のなかで本格的な農業をしているのは
そのひとつであるサヤニ村。数十キーメルテ北にはマヤリナ川の水で潤った森林地帯があり、対岸はラハーム教自治領。ラウ皇帝国の勢力圏という事になる。
村の人口は300人に満たない。いちおう
客が10人入ればいっぱいになってしまう小さな酒場。
奇妙な形に曲がった純銀製の管を手に持ち、イリアは『
アビリティーを持つ者の3人に一人は
水源の整備があまりされていないこの国では、それほど精緻ではないイリアの『浄水』でもちゃんと需要がある。
2キーラムほどの清水を作り出し、2つのガラス水差しに溜めた。
濃度が上がった汚水が桶の中に4分の1残っている。
「イェリヤ、あとどれくらいかかりそうだい?」
「もう終わりですね。これ以上浄化するのは俺の腕では無理です」
「そうかい? じゃあまあ、これくらいかね」
「イェリヤ」というのは別に偽名というわけではなく、「イリア」のスダータタル風の発音でしかない。特に珍しい名前ではなく、200人男がいれば一人くらいはイェリヤが見つかる。チルカナジアで「イリア」はもっと多かったはずだ。
酒場の経営者の妻は銅貨5枚を渡してきた。適正価格よりは少し安い気がしたが、別に文句は言わなかった。
今は寝ているらしいが経営者の男も水魔法を使う。『浄水』の価値は、その男の疲労度によって日々変動してしまう。
「残った水は外の餌箱に入れておいておくれ」
「はい」
「明日もくるのかい?」
「そうですね。こられればまた3刻くらいに」
桶を持って酒場の外に出る。
砂漠という言葉の印象からもっと暑苦しい気候を想像していたが、実際は標高が高い分低温で乾燥していて、過ごしやすさはチルカナジアとあまり変わらなかった。
日照時間が短くなるのに比例して昼間の気温も下がり、何もしなくても汗がふき出るようなことはもうない。『浄水』はともかく、氷づくりで小遣い稼ぎをするのはそろそろ難しくなるだろう。
イリアが桶を持っているのを見て、痩せて肋骨の浮き出た豚が一匹近寄ってきた。
石造りの店建物の壁際にある細長い形の餌箱に桶の中身を流し入れた。洗い物に使った水とはいえ、石鹸や洗剤など家畜の健康の害になる物は混じっていない。ブタはおいしそうに餌箱の中身をなめとっている。
錆の浮いている5枚の銅貨を手の中でもてあそびながら、イリアは村の北側に向かって歩いた。
村中央の井戸小屋を中心には低緑地でなければ見つからない草が生えている。
料理に使うさまざまな香草、薬師が使うための薬草が主だ。利用できない雑草などは取り除かれているため、これもある意味では農業なのだろう。
スダータタルの国土はそれなりに広く、その割に人口は多くない。
にもかかわらずこんな、水を手に入れるのも苦労する場所に人が住んでいるのには理由がある。
ラハーム教自治領との国境であるマヤリナ川流域は広いところでは数キーメルテの幅で魔境森林になっている。川幅はそう広くなく、顕現精霊で守れば舟で渡ることも可能だ。
つまり、見通しのわるい国境の向こうからの侵入を完全に防ぐことは難しい。
敵勢力は国内に入り込んでくるとき、岩石砂漠地帯を通っていく。
このサヤニ村に住んでいる傭兵およびスダータタル戦士の目的は、それら侵入してくる敵を見つけて倒すことだ。
血の気の多い男たちは現在、その大半が睡眠をとっている。
男だけでなく女も少数混ざっているわけだが、ともかく彼らは夜になれば岩砂漠をオオカミのように走り回り「獲物」を探す。
その獲物は二本足で、知恵を備えて武装もしているのだ。
村の北の端に到着した。
細い丸太の柱に、夜露と雨を避けるための魔物皮革を屋根のように張り、三方向だけを壁板で囲ってある小屋がある。今イリアとカナトが寝起きしている場所だ。
床板もない粗末な小屋ではあるが、特別ひどい扱いというわけではない。
同じような小屋が周りに21棟建っていて、高レベルの戦士で真っ当な収入がある傭兵たちも同じようにして暮らしている。
岩石砂漠地帯は夜になると冷える。なので寝る時は毛布と寝袋が欠かせない。
冬になれば暖房を使わない訳にはいかないので、獣毛で織った分厚い布で大幕屋を作り、その中で大人数が共同生活をすることになる。
イリアはまだその冬を経験していない。というより、別にこの村に冬まで居続ける予定はなかった。
小屋の日陰の下でマナの回復を待つついでに体の鍛錬をした。ステータス不適応症で衰えた体だったが、すでに回復している。意識して負荷をかけた運動を続けてきたことで、見た目にはむしろ少したくましくなった。
1刻ほどすれば余剰マナは元通り体に満ちる。そうすれば、今度は自分たちが飲むための水を浄化するつもりだ。材料は瓶に溜めてある生活排水で、腐らないように消毒作用のある薬草を入れてある。
井戸から水をくむこともできるが、それには桶一杯で銅貨10枚という利用料がかかる。
この井戸の利用料というのが地域の支配権を持っている
鍛錬と飲み水づくりを終え、すぐそばの商店で果物を3つ買った。3つでも片手に載せられる程度の大きさ。
シダ植物の仲間だという木が生らせる実で、茶色く干したようにしわしわで、中に大きい種がある。甘味が薄い上に油っぽい口当たり。
マヤリナ川流域の巡回警備のついでに取ってこられるものであり、値段は3つで銅貨一枚。多少の水分補給にはなるし空腹も紛れる。慣れれば味も悪くはない。
「お、いたなイリア。探したぞ」
「どうした? 何か見つかったのか?」
「岩エビが近くにいるっぽい。早く武装取りに行くぞ」
獲物探しに出ていたカナトが戻ってきた。
普段着のカナトと一緒に小屋に戻る。扉も無いどころか壁すら不十分な小屋だが、置きっぱなしの荷物が盗まれる心配はそれほどない。あけっぴろげであることでむしろ住民の監視の目にさらされるからだ。
鍛錬のための重りとして戦鎚に巻いていた鎖を解く。
隣で皮と鉄板の複合鎧を装着しているカナトから、松脂を焦がしたようなにおいがした。
「おい、またかカナト」
「ほんの一服しただけだって。問題なく動けるから気にすんな」
ニヤニヤしている。
金銭の管理はまだイリアがしているのだが、カナトが私用で使うための小遣いは渡している。だいたい収入の1割くらいのものだが、カナトはそのほとんどを酔い草の購入に充てていた。
本人の言う通り数日に一本程度の消費だし、これまでイリアの目から見て明確に戦闘に支障をきたしたことはない。
だがやはり、あまりいい習慣だとは思えなかった。
「頼むぞ本当に。この岩砂漠地帯にいるのはお前のレベル上げのためなんだからな」
「わかってるって」
先に武装を整えたカナトは、イリアが鎧をつけるのも手伝ってくれた。カナトのレベルは現在19である。
スダータタル族長国において、レベル10台の者が狩るのに適した魔物は少なく、居るにしても同じ地域に中級魔物も棲んでいたりする。
環境が過酷な岩石砂漠地帯だが、魔物の強さという点においては比較的人にやさしい土地だと言えた。
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