第197話 先代頭領と訪問家庭教師もどき

 湯衣の上から毛織の上着を着こみ、自分用の居間で寝椅子に横たわりマルゴットは3杯目のブドウ酒を飲み干した。

 レベルは58、『耐久』297のマルゴットは酒精への耐性も人の3倍はあるのだが、連日の激務のせいかもう酔いが回ってきた気がする。

 瓶にはまだ半分以上酒が残っているが、次の一杯を注ぐ気になれない。丸卓にガラス杯を戻した。


 小さな居間には不釣り合いに立派な暖炉に煌々と火が焚かれ、深夜にもかかわらず照明無しでも明るかった。

 やれることはもうすべてやり終えている。連絡が来るとすればそれは悪い報せのはずだった。

 扉を叩く音がする。決まっている特別な拍子の叩き方はドルカのものだ。


「入れ」


 樫材の扉を押し開けてドルカが入って来た。やはり疲れがたまっているのか目の下にクマが出来ている。

 親に捨てられ貧民街で身を持ち崩していた15歳の少女を拾ったのはいつ頃だったか。王都守備隊剣術指南として評価され、マクシミリアン王に謁見を果たした年なので、ちょうど10年前だったかもしれない。


「ハンナさんがいらっしゃいました」

「そうか、すぐに来るように伝えてくれ」


 悪報ではなかった。むしろ同じ問題を共有できる、数少ない味方の一人と言っていい。

 緋色の刺繍布を張られた寝椅子から起き上がり、上着の前を合わせてぼたんを閉じる。


 開いたままの戸口から雪で全身を濡らした真っ黒な髪の毛の塊が入って来た。

 両手で前髪をけると、少し骨っぽい整った顔貌が現れた。


「いやはや、ナジアは今年もひどい雪ですね」

「戻ってくるのは年が明けてからだと思っていた。……知っているのか?」

「ええ、まあ。学究派賢者の連中は『書庫』なんてズルで学者ぶっているから嫌いですが、世俗派の中には友達もいるんですよ、これで」


 暖炉前の物干しに掛けていた汗拭きの布を勝手にとり、ハンナは頭をがしがし拭きはじめた。

 世俗派賢者に情報源を持っているのはマルゴットも同様である。


「……賢者共はまだ知らないはずだが、君が言っていたようにイリアは『人食い化』した」

「でしょうね。そうでもなければ、あの子が私にも伝えないでナジアを逃げ出す理由がないですから」

「まさかと思っていたのだが、なぜ予想できたんだ?」

「そりゃまあ連中と同じですから。【吸血鬼】もレベル20で人食い化するのはご存じでしょ?」

「そこまで分かっていたのなら、近くに居てやるべきだったのではないか?」

「いやだって思わないでしょう! なんで半年で20まで上げるんです? その時が来るとしても春以降だと思ってましたよ、いくらなんでも」


 まったくその通りだった。イリアがステータス不適応症で倒れたと聞いたとき、想像したレベルはせいぜい17か18くらいのものだった。実際には20になっていて、既に異能変異を起こしていたことになる。


 フランツに診せる前に水晶球鑑定をさせるべきだった。後悔しても時間は戻らない。

 以前イリアにも言われたことだが、やはり自分は失敗が多い。

 そもそも、マルゴットは自身のことを優秀な人間と思ったことはない。男どもに比べれば固定観念に捉われない思考ができるだけだと自覚していた。



 12日前。

 ヴァーハン家一族のダヴィドが体中を骨折して門前に捨てられているのを発見した。ドルカはじめ手の空いている者にイリアを探させたが、広い王都を数人で探しつくすことはできない。療養させていた宿のイリアの荷物は消えていた。


 事情を調べるためににダヴィドを預けた。

 結果が出たのは翌日早朝。オスカー・ヴァーハンと共に犯した愚かな罪の告白とともに、イリアとの戦いの決着時、異常な精神状態を経験したとの供述。

 ハンナに可能性を示唆され、【不殺(仮)】の作用を聞いていたマルゴットはすぐに察した。

 もぐりの鑑定士にステータスを調べさせた結果、やはり合計値が450しかなく、19だったはずのレベルが18に低下していることを確認。

 その時点ではイリアが自ら身を隠したのか、あるいはヴァーハン家一味によって捕らえられたのかは分からなかった。


 一族から「新種の人食い」が出たなどという話になれば『白狼の牙』頭領家の名声は地に落ちる。

 少なくともマルゴットの立場は大きく揺らぎ、これまで恨みを買ってきた相手からの復讐により、息子や孫たちの身の安全まで脅かされてしまうかもしれない。

 秘密を握りあっていればお互い都合の悪いことを隠し通すことも可能。そういうやり方もある。

 だがマルゴットが選んだのは、先にヴァーハン家の失脚を図り、その信頼性を葬り去る方法だった。戦術の好みの問題と言える。


 情報工作とそれに慌てたヴァーハン家関係者の動向調査の結果、イリアが姿を消しているのは自らの意思であるというのが確定的になる。ヴァーハン家はもう放っておくことにし、手駒をかき集め本格的な捜索を開始したその日の深夜。

 情報提供者の賢者から報せが入り、書庫通信によってイリアの逃亡が賢者議会にまで伝わったことがわかる。

 イリアがエミリアとかいう訓練課程の賢者の娘と親しくしていたのは、秘密を洩らさない約束が出来ているのだとマルゴットは思っていた。

 その考えは甘かったらしい。女運に恵まれない男だ。

 賢者議会にイリアが捕まれば、人食いであることはすぐにでも調べられてしまうだろう。


 イリアはスダータタルに向かう見込みが一番大きいとドルカが言うので、むしろその逃亡を手助けするように動いた。

 情報提供者とは別の、弱みを握っている書庫通信員の賢者に「イリアが新種という根拠はユリウスが見たということだけなのか」という疑問を「記載」させた。もしエミリアが証人として出てくるのなら、その信頼性を毀損するような工作も必要と考えていた。

 老齢のユリウスが耄碌しただけではないかという意見が世俗派賢者から少なからず出る。マルゴットがそう誘導した。賢者保有者の多く住むこの王都ナジアだからこそできることだった。


 結果、賢者側の動きを遅滞させることに成功。数日たっても王政府が表立ってイリアの身柄確保に乗り出す気配はなかった。

 さらには各大都市に一人はいる協力者に暗号書簡を届けさせ、非公式な捜索の開始も可能な限り妨害した。

 向こうは書庫通信で指示を出せるため、さすがに東部国境の封鎖を事前に阻止するのは間に合わなかったが、次善の策としてバスポビリエ駐屯軍の動きをあえてスダータタル側に暴露するように内通者に伝えている。

 功を奏したかどうか今のところ分からない。封鎖が始まってから6日ほど経っているはずだが、イリアが確保されたという報せはまだどこからもない。



「むこうの動きを妨害しただけですか?」

「もちろんこっちも手の空いた者から順に捜索を再開した。主要な街道は網羅したらしいのだが、イリアはみつからなかった」

「まあ少人数では限界があるでしょうね。途中でわき道に入られたりしたら行き違いますし」

「イリアの回復が十分ならもう族長国に入ったかもしれない。どう思うハンナ、君はあの地にも行ったことがあるんだろう?」


 イリアがスダータタルに入ろうとするのは微妙な選択だ。

 紛争の絶えないあの地では人間同士で戦いになることが多く、人食いが発覚する危険はむしろ大きくなるかもしれない。

 まさか積極的に人間を狩るためスダータタルを目指しているわけではないだろう。そこまでバカではないはずだ。


「人目を気にする必要はなくなりますね。まともな賢者が一人しか居ないんですから自由なのは間違いないです」

「だが危険な紛争地だ。あののんきな世間知らずぶりでは野垂れ死ぬかもしれない」

「あなたにはその方が都合がいいのでは?」

「……」


 ハンナの表情は一見にこやかだが、真意が見えない硬直した表情にも見える。

 そしてその言葉はある意味で事実。

 イリアが居なくなってしまえば、それと同時に全て問題は消滅する。

 マルゴットが犠牲を払ってまでイリアのことを救わなければいけない理由はあるだろうか。


 『白狼の牙』で団長と呼ばれていたのはたったの9年間だ。次男のフランツに手がかからなくなってからなので、妊娠出産や子育てのために遠征を欠席したことなどない。

 外部から雇い入れていた『感覚強化系』の正団員登用を画策したとか、魔法戦士団『黒狼の尾』設立に資産を流用したとか。いろいろな難癖をつけられたが、マルゴットが頭領の座を追われた理由は、単に「女だから」だったのではないだろうか。

 養父が主導したとはいえ地位を奪い取った本人はギュスターブだ。イリアはその息子。仇とまではいわないが複雑な関係なのは否定できない。


 わずかな期間、同じ屋敷に住みながら数回しか話しをしなかったイリアの容貌を思い出す。

 血筋の現れ方というのは不思議なものだ。イリアはのあるギュスターブの顔の特徴をあまり受け継いでいない。

 ほとんど血縁がないはずのマルゴットの父、ラファエルの若いころにどこか似ていた。


 マルゴットの四角い顔は母譲りだ。6年前、ノバリヤの地で寿命を迎えた父ラファエルは特徴のない鶏卵型の輪郭をしていた。

 『白狼の牙』の団員だったのは30歳までで、怪我で引退した後は家具職人として一家の生活を支えたラファエルは、その性格もイリアに似ていたような気がする。

 強者が弱者を虐げているような場面に会った時は、自分の損得を考えずに怒りを燃え上がらせるお人好しな男だった。



「……確かに厄介な存在だが、あれも一族の一人だ。人食いと言っても【吸血鬼】とは違う。死ねばいいとまでは思わない」

「もちろんそれは私もそうです」

「君が行って保護してやることはしないのかね?」

「うーん……」


 ハンナは無作法にも丸卓の上に座った。ブドウ酒を杯に注ぎ、これも勝手に飲んだ。


「人食いになった【不殺(仮)】の研究は確かに心惹かれますね。こっちでやってる研究全部と比べてもまだ価値が高いでしょう」

「では——」

「傭兵として入るにはにいろいろと根回しする必要がありますよね? そうなるとお国にばれませんか。私が行くってことは、イリアがそこに居るのを確定させることでは」

「密入国では駄目なのか?」

「どうでしょう。自分では分からないんですが、どうも私は目立つたちらしくて。こっそり入れても、こっそり活動できるかどうかはちょっと」


 確かにその通りのようだ。隠密に動くならドルカの方が絶対にマシだが、スダータタルの地では女というだけで目立ってしまう。


「あと、こう言っては何ですが。状況次第であなたはイリアを謀殺する側に回るわけでしょ? あなたの配下を送ること自体賛成しませんよ、私」

「信用がないんだな。そんなに私は冷酷に見えるか」

「心配しなくても大丈夫じゃないでしょうかね。世間知らずに見えてもあの子はなかなかしたたかですよ。私の教え子ですから」


 身勝手の化身のような女はブドウ酒をさらにもう一杯注ぎだした。


 マルゴットは自分の家族と『白狼の牙』頭領家。そしてチルカナジア王国を愛している。自分の孫でもおかしくない年齢のイリアのことも、今は慈しむべき対象だと感じていた。

 だが今この時。数奇な運命に翻弄される少年のためにマルゴットが出来ることはもうないのかもしれない。

 隠された事情をまだ知らない、「親切な無自覚の敵対者」につかまることなく、無事スダータタルに入国できますように。

 普段は意識にも上らない古い信仰。運命の女神に心中で祈りの言葉を捧げた。

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