第195話 渡河
国境であるタイニース川を眼下に望む丘。葉の落ち切った大樹の高い枝の上でイリアとカナトは息を潜めていた。
今年の
ナラ類と思われる大樹の根元には魔物が一頭うろついている。
星明かりに照らされる、灰色の輪模様で全身を飾られた白い影。大きな成体のカザマキヒョウだ。
長く立派な尾まで合わせると体長3メルテ。仮想レベルは30台半ば。
だがその数値が示す以上に強力な魔物だ。風の精霊力を操り、空を飛ぶがごとく跳ねまわって格上の魔物の大黒ジシさえ単独で捕食するという。
完全な肉食性の魔物。現在のイリアやカナトでは、とても対応できるような相手ではない。
バスポビリエ州の東端、州都ベレキタニスの壁外地域で宿をとり、風呂に入り衣類も洗い、保存食は全て捨て値で売り払った。
夜になってこのタイニース川流域に侵入するまでの間、匂いが強い食べ物は一切口にしていない。
気温が低いことも相まって、カザマキヒョウがこちらの匂いに気づくことはない。
そう思いたい。もしそうでなければ確実に命を取られるだろう。
たとえ空腹でなくとも『凶化』した魔物は人を襲い、殺す。
そこに意味などは無い。それが魔物と人間の関係だ。
乾いた雪を踏みしめるギュッギュッと言う音を立てながら、形だけは猫に似た魔物は去っていった。
姿が見えなくなってからも半刻以上、イリアとカナトは一言も発さずに、吐く息さえ毛布の中に隠してじっとしていた。
「……そろそろいいか……?」
「まあ、たぶん……」
「こんな場所を通って来たんだな、カナトたちは」
「護衛を雇ってたからな。来たときは平気だったよ」
皇帝国との紛争が絶えないスダータタルには世界中から傭兵が集まってきている。
傭兵と言っても「雇われ兵」という元の意味とは、有り様が少し違っている。
もう何十年も大陸で大きな戦争は起きていないので、大金を払ってでも兵力をかき集めたいという需要は無い。
現代において傭兵というのは人間同士の真剣勝負に憧れて紛争地に乗り込んでくる異常者のことだ。イリアと違ってそんな事をしてもレベルは上げられないし、たいして金になるわけでもない。
スダータタルは開拓されていない山岳森林が多くあり、傭兵たちはレベル上げをするにも困らない。だが経済活動が活発な国ではないため、魔物資源の売買で現金の収入を得るのは難しい。
なので一部の傭兵たちはスダータタル人が西に逃げるのを手伝う裏仕事をしている。
自国の民が逃げ出すのを手伝うようなことは、族長国に雇い入れられている形の傭兵にとっては背信行為のような気もするが、そんな事など気にしない連中もいるということだろう。
カザマキヒョウが去ったのを確認の後も木の上から動かなかった。そろそろ凍えて体が動かなくなる予感がある。
今晩はもう諦めよう。二人の間にそういう空気が漂い出したころ。待望していたものが見えた。
遠くの方に赤い炎が灯り、それがゆっくりと色合いを白く変え、また赤く戻ることを繰り返している。
イリアとカナトは順に枝から飛び降り、足元の雪を蹴散らしながら灯りに向かって走った。木々の間をすり抜け、河原に続く坂を下っていく。
10分ほどで、その照明火魔法の主を確認することが出来た。向こうもこちらに気付いているようだ。
「お客さんが来たのかい?」
「ああ、若いお客だよ。二人組だ」
赤と白に色が変わる魔法を使っていたのは、真っ黒な髪を長く伸ばした背の高い男だ。女物のように上と下が繋がった服を着ている。
寒い中で上着を着ていないのは何故だろう。体の周り物や空気を加熱できるアビリティーがあったからその保有者かもしれない。
もう一人。男の隣で敷物の上に座って蹲る人物は性別も年齢も不詳だ。
頭の上から大きな布をかぶり、声は高く中性的にも聞こえるが、ひどくしゃがれている。
イリアとカナトは話しかけなかった。光りが向こう岸から見えないよう背後に目隠しの幕を張っている。
その幕の後ろに舟が見えていることからほぼ明らかではあるのだが、もし罠であったなら言質を取られるのはまずい。
「賢いお客さんだね、私は好きだよ」
そう言ってから、小さくうずくまる人物はヒヒヒと笑い声を出した。
「そうだね。じゃあ僕から言おう。僕らは君たちをこのタイニース川の対岸に連れて行ってしまいたい。そしてそれとは関係ないのだが、金貨が1枚ほしいんだ」
変に持って回った言い方だが確かに川渡しの者のようだ。見たところラハーム系人種ではなさそう。
他国の領土に勝手に入りこむことはチルカナジアの法で禁じられているので、この二人は犯罪者だ。そして彼らの手を借りて今からイリアは密入国を図る。
この二人にしてみれば、タイニース川を渡る途中でイリアとカナトを突き落してしまえば契約を果たす必要はなくなる。
代金は向こう岸についてからでいいかとイリアが訊くと、小さい方がまた「賢い賢い」と笑った。
8人くらいまで乗れそうな木の葉型の木造船に乗り込む。布をかぶっている人物は背の高い男に抱きかかえられ、舳先の近くに座り込んだ。
砂利だらけの川岸に半ば乗り上げている舟は周囲の水が凍ってしまっている。
その氷に、真っ黒な肌をした細長い腕が触れた。
『モタティ デ …… オドマン ネチケンァ…… ……プタス…… ヴォーレ……』
ごく小さな声で不思議な呪文が聞こえてくる。精霊言語的な要素もあるが、まったく意味が聞き取れない。
それもそのはずで、川渡しで舟を守護するのに使うのは顕現精霊魔法だ。イリアの使っているような現代魔法とは同じ水魔法でも系統が違う。
呪文が終わると周囲の氷は一気に融けた。その水が川と混じると、水面が引き上がってきて舟を囲んだ。舟は砂利と擦れてごりごり音をたて、そして膨らんだ水に浮かび上がる。
鞭を振るうような音が聞こえたので背後を見ると、3メルテほどの細長い尾のようなものが空中を舞い踊っていた。
「今夜の
「お客さん、もう出るからしっかり船べりを掴んでいてね。落ちたら冷たいよ」
イリアもカナトもその言葉に従ったが、男は舟の一番後ろに立ったままでいる。
川の水面より高く盛り上がった顕現精霊の背に乗ったまま、4人を乗せた船は南東に向かって進み始めた。
タイニース川は小湖海に注いでいる。アクラ川に比べれば小さな川で、源流から河口まで数十キーメルテはあるのだが、川幅は100メルテあるかないかと言ったところだろう。
イリアとカナトはこの旅の間も同じ規模の川を何本か越えている。その時渡ったような橋も架けようと思えば架けられるだろう。タイニースは国境として機能させている川だから、そんなことをする者はもちろんいない。
北東から南西に、人がゆっくり歩く程度の速さで水は流れていく。その川を、櫂で漕いでいるわけでもないのに横切っていく舟。下で顕現精霊が泳いで運んでくれているのだ。
以前バイジスとの戦いにおいてジゼルが使った「随意操作性顕現精霊魔法」は行使者の体と魔法構造体が繋がっていなければ動かせなかった。
現代魔法もほとんどが同じ原則に従っているのだが、舳先で前を向いて座っている精霊使いは水に触れてもいない。
何をしてほしいか、呪文と共にあらかじめ願って使うものを「祈願顕現精霊魔法」という。手放しで使えるから最新式の魔法技術なのかと思えばそんな事もなく、実はこちらの方が古くから存在するらしい。
数百年来の魔法研究の成果により、祈願顕現精霊魔法は『導師系』アビリティー保有者以外でも使えることが分かっている。魔法現象を理解し呪文を唱えさえすれば発動するような現代戦闘魔法と違い、長年の修業が必要になるそうだが。
対岸に着くのはあっという間だった。わずかに1分足らずだろう。
チルカナジア側と同じ、凍てついた砂利だらけの岸に降り立つ。
懐から出した金貨を支払った。この川渡しの二人は、たった30秒で10日は楽に暮らせる金を稼ぐのだ。
「お客さんたちは運がいいよ。なんでも、東の方でバスポビリエ駐屯軍が動いたのがバレたみたいでね。川を挟んでけっこうな規模の睨み合いが起きてるらしい。見張りの連中もそっちを強く警戒してるだろうし、うまくすれば見つからずに済むかもよ」
「悪運が強い子らだ。将来が楽しみだね」
舟から降りることもなく、そのまま二人はタイニース川を戻っていった。
場所を変え、イリアたちのような密入国者の客をまた呼び寄せるのだろう。
「ついに来たんだな…… ここがスダータタル族長国か……」
「問題はこれからだけどな。どうなるにせよ、はやく人が住んでるとこまで行こう。魔物に食い殺されるのが一番バカらしいからな」
森の木々の半分は葉を落としているため、地面には雪が積もっている場所も多い。そこを乗り越える時に一番体力を使ってしまう。前後を交代しつつ先を急ぐ。
見つかるとまずいので照明魔法をつけることもできず、わずかな星明りでは10メルテ先に何があるのかも見えない。
夜の森の中を進むのは心臓が縮みあがるような体験だった。
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