第188話 2本の何か
778年も残り3日。王都ナジアを逃げ出してから4日目の午後。イリアは疲弊していた。4大街道の一つであるアクラ東岸大街道をずっと進んでいたのならここまで疲れはしなかっただろう。
だが途中の大きな街で宿泊するわけにはいかなかった。防壁のある街では入街審査があり、身分証を提示することはカナトにも、そしてイリアにもできない。
しょっちゅう大街道を外れては小さな農村で食料を調達し、身分証の提示を要求されるかもしれないから宿に泊まることもできず、暗くなってから良さそうな場所を探し、幕屋を張って野営するという夜を3晩も過ごした。
スダータタルに向かうには北東大街道を行った方が地図上は近い。だがイリアには、からっぽの財布を何とかしたいという事情があった。
ほとんどが旧市街に住んでいるとはいえ【賢者】保有者が100人もいる王都からはすぐにでも逃げ出したかったので硬晶の売り先を探す十分な時間は無かった。
東岸新市街には身分証無しで放入れないし、下町に大きな宝石商などは店を出していない。壁外地域のまともではない店で高額取引ができるほどイリアにもカナトにも貫禄は無く、溜まりのまとめ役達に迷惑をかけるわけにもいかない。
結局王都以外の場所で売った方が妥当と結論し、まずは国内で二番目に大きなスダータタル人溜まりがあるという、ウズベラシア州北端の都市クトークを目指すことを決めている。
レベルが8も低いカナトの後ろに付いて、取れない疲労を体の奥に抱えたままでアクラ東岸を南進する。一日に数百人とすれ違う大街道上には雪が残っておらず、都市周辺の石畳と郊外のむき出しの地面が交互に顔を出していた。
雪を『
アクラ川の下流は東に大きく膨らんで流れる。3日で約160キーメルテ下って来たが、地図上は斜めに移動したことになるので、南下した距離であれば100もいかないだろう。
それでも寒さが心なしか穏やかになってきている。イリアの人生においてこれほど南に来たのは初めてのことだ。
進む先、丘陵上に防壁がそびえたっているのが見えた。
その周りにも建物の影が密集し、暖房の煙が白く
あとわずか頑張れば数日ぶりに寝台で休めるというところまで来て、黒い土と白い雪がまだらに見える河原に人影が見えた。
数人集まって輪のようになり、中心に黒い大きな影。
甲高い声で大騒ぎしているのは大人ではないようだ。
「おい、イリア」
「……えぇ?」
「あれまずくないか。魔物だろ絶対」
「そうか……? いや、そりゃそうか……」
カナトが先でイリアが後。土手上を通る道を外れ、子供たちと、子供たちが取り囲む何かに向かって走り下っていく。近づくにしたがって、その何かが亀のような形であることが分かった。
大きさは2メルテもあり全体が暗緑色。地面の土を雪と混ぜて泥にしながら、きゃあきゃあと逃げ惑う子供を追いかけまわしている。
なかなかきわどい。子供が少しでもつまづけば食いつかれそうだ。
「何やってんだお前ら! 遊んでないで早く逃げろ!」
「うっせーな! なんだおまえ!」
「こんな魔物こわくないもん、わたしたちでやっつけるんだっ」
最年長でも10歳くらいだろうか。4人の男児と女児3人。少し距離が取れたら雪をすくい上げて玉にし、大きな亀の魔物に投げつけて遊んでいる。
「バカ言ってんな、魔物には近寄るなって親に教わらなかったのか!」
「こんなヤツていきゅうだよ、いいからあっち行けよっ」
甲羅は硬そうな骨質ではなく、ぬらめいた皮に覆われていて、はみ出している部分もぶよぶよとして鱗があるように見えない。
3本の爪の間に水かきがある短い脚。這いまわる速度は、やはり魔物としては脅威が低く見える。6、7歳の女児にも追いつけない程度。仮想レベルはそこまで高くないだろう。
息を整えつつ少し様子を見ようかとイリアが考えていたら、事態が急変した。
甲羅に埋もれて短く見えていた首が急に伸び、素早く女児の背中に食いついた。
火のついたような泣き声。カナトは槍の鞘をつけたまま突進していく。
イリアも背中の荷物を振り払って後に続いた。
女児はもこもこした毛皮の上着を剥ぎとられただけで済んだようだ。もし冬でなかったらと思うとぞっとする。きっと背中を喰い切られて死んでいただろう。
7人はやっと自分たちのを無謀を理解したのか、恐慌をきたして震え続ける女児を抱えるようにして逃げていく。
「おいイリア! これどういう魔物だ⁉」
「知らない。魔物じゃなければ泥亀みたいだけど、本で読んだことしかないし」
「じゃあまあ、後ろで牽制しててくれ」
現在武器らしい武器を持っていないイリアにはそれくらいしかできることがなかった。無刃の短剣では大きな魔物をどうこうすることは難しいだろう。
「……いいのか?」
「こんなのならいける。見ればわかるだろ」
実はカナトの方も万全ではない。イリアがステータス不適応症で伏せっていた間、一度カナトは一人だけで狩りに出たらしい。
そのとき、魔物を見つける前に毛皮が高く売れる白テンを見つけ、追いつめたが殺すことが出来なかったというのだ。
一昨日の朝、幕屋を出た時に野ウサギを見つけ、捕まえて食料にしようとしたときもカナトは槍を振るえなかった。どうしても体が動かなくなるのだという。
どうやら可愛らしい見た目の生き物を殺すことができなくなっている。原因は精神的な物だろう。
肥満ヤマネコなど、魔物の中にもそこそこ可愛げのある見た目のものはいる。そういう相手を殺せなくなるのはスダータル戦士としては大問題らしい。
落ち着いて槍の鞘を掃ったカナトが、長い首をゆらゆらと揺らす魔物に接近していく。上着の下に鎧は着ていない。まさか大街道上で魔物に出くわすとはイリアも思わなかったが、よく考えれば右手をずっと流れていたアクラ川は王都ナジアの中とは違い、鉄柵水門で隔離されていない天然の魔境水域だ。
常に多くの人間が行き来するから危険はすぐに発見されるとはいえ、自分たちが発見者になる可能性も考慮しておくべきだった。
いちおう短剣を抜き、カナトが戦いやすいように魔物の後ろ側に回る。無視されていては牽制の意味が無いので、近寄って尾の無い尻の辺りを強く踏んでみた。
すると、その尻の甲羅の下から2本、長いものがずるりと出てきてイリアの足に巻き付こうとしてきた。
「ひゃあっ!」
「なんだ⁉」
「気持ち悪いものがっ、うっわっ!」
筋肉の隆起がはっきりとわかる、薄い粘膜質の皮に覆われた長さ1メルテほどの赤い何かがのたうち回る。
それほど速く動くわけではないが、まるで背後が見えているかのように的確に、2本交互に繰り出され近づくことができない。
とはいえ、赤い2本の何か以外は首が長くデカいカメでしかない。
槍の穂先で首を切り裂かれた魔物は数分で失血死した。
カナトは槍の穂先を雪で拭ってから、ボロ布を出して水気も拭き取っている。
「……大丈夫か?」
「問題ないっての。この先、仕留め役をするのはどうせ俺になるんだからな。猫だろうがイタチだろうが殺せるようにする。男ならこんなのはすぐ治さなきゃいけないんだ」
気持ちの悪い魔物だったが、それでもやはり少しだけ心の動揺があるのだろう。
半年前ダンゴネズミを殺せなかった時、イリア自身も似たような体験はしている。だからと言っていい助言をしてやれるわけでもなかった。
イリアの場合はもっと根本的にダメなので、偉そうに何か言える立場ではない。
名前も分からない魔物の魔石は通常通り心臓の下近くにあった。
解体するにもちょうどいい刃物をイリアは持っていない。工作用の小刀では刃渡りが短すぎる。
深紅の魔石を摂取したカナトはレベル13になったらしい。「すいぶん長くかかったな……」と独り言のように漏らした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます