第186話 麦
ダヴィドを崖の上から落とした。やはりレベル19もあれば落ちても死にはしないようだった。19ではなく18に落ちているかもしれない。その可能性のほうが高かった。
自身も綱を使って崖下に降りたイリアは、倒した敵を担いで王都ナジアに戻った。2刻間すれば気絶から覚めるかもしれないと思ったが、マルゴットの屋敷に到着するまでダヴィドが意識を取り戻すことは無かった。
門前にダヴィドを横たえる。呼吸があることをもういちど確認し、イリアは立ち去った。
逃げるようにして、まずは昨晩まで安眠できていた旅人宿に向かう。
それから二晩経った。
早朝、まだ日も昇りきらず辺りは薄暗い。
丸一日以上身を隠していた壁外地域の路地裏からイリアは這い出した。ダヴィドから奪った毛皮上着を着ていなければ寒さに耐えられなかっただろう。
農閑期となり誰も利用しなくなった農民橋を渡り下町地域に入る。
大通りを横切って一本裏通りへ。『喫茶・軽食アプリコス』はまだ営業していない。玄関扉の下の隙間に
雪が降り出した。アクラ川の水際にわずかに薄い氷が張っている。
カナトとの約束の時刻ぎりぎりまで待って、駄目であればそのまま出発するつもりだった。
「なんかここって最初に会ったのと同じところじゃない?」
その声を聞くのは何日ぶりだろうか。
アヤの葬儀の日以来なので、50日以上会っていなかったことになる。
土手の上を振り返ると、そこに真っ赤な髪をした眼鏡の少女が居た。寝間着の上に毛織の上着を羽織り、襟巻もしている。
「最初にあったのは学園の正門前だったよ」
「まあそうか。……それにしても、なんか大変なことになったね」
「うん」
「ありえないでしょう、たった半年でレベル20になるとか。いや、不適応症で倒れたのはひと月以上前だから、もっと短いのか。ほんとめちゃくちゃね」
アビリティーを得てからレベル20まで上げる期間は、短すぎてはいけない。最も果敢に魔物狩りに挑むスダータタル戦士でも1年が限度なのだ。
5カ月で上げてしまったイリアが重いステータス不適応症になったのは当然と言える。むしろ、レベル18になるまで症状がでなかったのが奇跡に近い。
だがそれも、もう済んだことだ。
手足は以前よりも細いままだ。運動能力は低下している。
体を元に戻し、違和感なく動けるようにするにはどれくらいの月日がかかるだろう。
あるいはもう元通りにはできないかもしれない。
一度変わってしまったものは、元に戻らないことの方が多い。
「不適応症はもう治ったってことでいいの?」
「まあ、だいたいね」
「そっか。よかったよ、本当に心配した」
「うん」
「……話は変わるんだけど肉削ぎバチ事件のこと、話聞いてる?」
「……どうなったの?」
「なんかオスカーのとり巻きが犯人だったって話が昨日から広がってるんだよね。本人が行方不明になってて、オスカーも姿を消してるらしいよ」
「そうなんだ。それは、よかったよ」
「良くはないんじゃない? オスカーも関りがあったのなら、その罪は絶対裁かなきゃダメでしょう?」
「……」
そんなことはイリアにはもう、どうでもよかった。
ただこの王都ナジアで、イリアが出会った大事な人々から遠ざかってくれるならそれでいい。
土手に積もった雪の上を慎重に降りてくるエミリアだったが、途中で軽く滑って後ろに倒れるように体勢を崩した。
最後の一歩、飛び降りるように河原に降り立ったが、そこも凍った草の上に雪が積もっている。
一歩前に出て、イリアはその軽い体を受け止めた。
「どうも」
「うん」
「別に転んだりしなかったけどね。……それよりあのさ、ひょっとしてバカなの?」
「急にひどいね」
「だってステータス不適応症から回復したばっかりなのに、またちょっと成長素溜めてるじゃない。懲りなさいよ」
「……」
「ん? それになんか、異能の雰囲気が変わったような? ひょっとして異能変異起こしてるんじゃない?」
北から強い風が吹き、積もった雪の表面を吹き散らした。
上着の前を合わせ寒そうに身を縮めたエミリア。髪が乱れている。
イリアは強く目を閉じ、叫びそうになるのを、息を飲み込んでうつむいた。
確かめたくはなかった。
何かの間違いであればいいという思いが頭の隅にずっとあったが、そんな非合理的な希望はあっけなく打ち砕かれてしまった。
エミリアの魔眼には見えている。イリアの身に起きたことが勘違いなどではないという確かな証拠。
「そっか。どういう変異したかを確認しなきゃいけないのか。研究処に頼らないって決めた以上は、性質は自分で調べなきゃ無責任だもんね。それで、また魔物を倒してみて何かわかった?」
「……エミリア」
「ていうかその荷物はなんなわけ? どこか遠征にでも行くの?」
その問いには答えずに、イリアはエミリアの肩を引き寄せ、エミリアのしている襟巻に顔をうずめるようにして抱き着いた。
「ちょっ、とっ」
小さな力で押し返されるが離さなかった。
ダヴィドにやられ、カナトに縫ってもらった肩の傷が痛む。
やがて少女は力を抜き、両腕を体の横に下ろした。
「なんなの……」
「エミリア」
「……どうした?」
普通に話してしまうと声が震えてしまう。
気持ちがあふれてしまわないように強く抱きしめる。分厚い衣服越しにエミリアの体温が伝わってきた。
「もう一度呼んでくれないか。俺のことを、君だけの呼び方で、もう一度だけ」
原初の二賢者マチルダが共通語を広める以前、この地に古代から住んでいた民族に伝わる言語で「麦」を意味する単語。
収穫時機の麦の穂に髪色が似ているという、単純な理由でつけられたあだ名だった。
後になって調べてみると、それは大地の恵みを願い、太陽と精霊を称える祈りの歌の一節として残る言葉だった。
二人きりの時しか使われることの無かった、イリアのもう一つの名前。
「ウーフ……?」
「……」
イリアがゆっくりと体を離すと、エミリアはずれかけた眼鏡を治し、疑問と不安が半分ずつ混ざったような顔をした。
「……じゃあ行くよ。元気でね」
「待って、行くってどこに?」
答えられない。
顔を見られないようにしてその場を去る。後ろから追いかけてきて何度も「待ちなさい」と言ってきたが、イリアが本気で走り出すと、寝間着姿のエミリアは諦め立ち止まったようだった。
第一大橋を渡りきると、約束通りカナトが待っていた。荷を満載した背負子を自分の隣においてある。ちらちらと降る雪を避けるためか、肩まで覆う革頭巾をかぶっていた。
毛皮の上着を持っていないらしく、丈の長い革上着の下は着ぶくれしている。
「済ませてきたか?」
「……」
頷いて答えた。
伸びすぎた麦の穂色の髪から、溶けた雪が顔に滴っている。
「泣くなよ。別に、二度と会えないわけじゃない」
カナトの言葉は本当になるだろうか。なればいい。
頭を振って水を飛ばし、懐から取り出した手巾でいいかげんに拭いた。
背負い袋の上部に積んである鎧を詰め込んでいる袋の中から鉄兜を出し、被る。
鎧もなしに毛皮の上に兜を被るのは変な見た目だが、荷物の底から雨具を取り出すのは面倒だった。
雪が北風に流され斜めになって落ちてきている。
アクラ川越しに下町地域を振り返ると、東から登った太陽が街並みを影にしていた。その影もだんだんと真っ白に覆い隠されていく。吹雪になるのだろう。
12月24日。イリアは王都ナジアを去った。
二度と帰れなくなるかもしれない。
王都だけではなく、このチルカナジアから。そして西側世界からもイリアは去らねばならなかった。
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