第184話 完登
運動能力回復のための鍛錬は苛烈を極めた。
動くようになった個所は負荷をかけた運動をドルカに強制され、日ごとに軽くなる不適応症由来の疼痛はよりひどい筋肉痛に置き換わった。
食事の内容も日々充実し、チーズ入りの粥からひき肉の肉団子。煮込んだ塊肉から、最後は焼いただけの厚切り肉が食べられるようになった。
やせて弛んだ手足が少しづつ筋肉を取り戻すと、気付けば皮膚感覚も違和感がなくなっていた。
バイジスに左ひじを削られた時。あの忌まわしい肺熱症。そして発症してしまったステータス不適応症。
王都に来てからいったい何日間療養生活を過ごしただろうか。
イリアは自分の財布袋の中身を見てため息を吐いた。
既に40日以上にもなる宿泊費は、ドルカが勝手に財布から抜いて支払っていた。
文句は言えない。
朝夕イリアを看護してくれているドルカや、日雇いでやってくる近隣の主婦の給金をイリアは払っていない。おそらくはマルゴットから支出されている。
そして医者であるフランツの診療費だって本当はイリアが払わなければいけなかったし、諸経費というものもある。
本来なら元の持ち金の2倍ほど借金があって当然なのだ。
「ハァ……」
「財布の中を覗いてため息を吐く男ってのは、世の中で一番みっともないものかもしれませんね」
「ひどい言い方……」
「いったい何をそんなに嘆くことがあるんですか」
「いや…… いいんだけどさ…… これから先どうしようかと思って」
不適応症の方はいちおう、生活に支障がないほどに回復した。痛みは残っているが消え去るのも時間の問題だろう。
2か月前、肺熱症を患う以前に考えていた予定であれば、今頃はレベル15か16になっているはずだった。その想定よりはるかにレベルは上がっている。
だが、衰えた体をステータスで補い、なんとか以前とおなじくらい動けるようになったというのが現状。
骨・皮膚などの丈夫さや認知・思考速度は向上したのだろうが、総合的には強くなった気がしない。
冬は森の木々の何割かは葉を落とすし、積もった雪の上では生き物の動きやその痕跡が目立つようになる。人間にとって過酷なようでいて、実は魔物狩りが活発になる季節でもある。だがそれは魔物資源を剥いで売ることが出来ないイリアには関係ないことだった。
狩りとは別に何か稼ぐ算段をしなければいけない。
今すぐでも収入を得なければ、最悪の場合研究処に身売りするしか選択肢は無くなるだろう。
「おかしいですねえ…… イリアはかなりの金持ちだとマルゴット様に聞いていたんですが、実はとんでもなく浪費家だったんですか?」
「どんな根拠でそんな話になったんだ? 俺は王都に来たときは金欠寸前だったし、そのあともずっとカツカツでやって来たんだけど?」
「いや、賊に
「……?」
ヤモリとその相棒が持っていた鋸刃の短剣は2本合わせて大銀貨5枚あまりで売れた。その程度で金に困ることは無いは言い過ぎのはずだ。
肉削ぎバチ襲来時、イリアはいろいろな場所に荷物を置いてきた。それらは全てドルカが回収してきてくれている。
部屋の隅に置いてある自分の背負い袋に歩み寄り、底の方に手を突っ込む。
心当たりのある物を取り出した。バイジスの使っていた回転盤だ。
「これのことか? でもこんな変則的な武器はまともな値段にならないだろ?」
「……その、縁についてるのが高いんじゃないですか?」
「え?」
直径3デーメルテほどの、それほど厚みもない鋼鉄の円盤だ。その縁を取り巻いて並んでいる、透明の石のような物体。
ドルカが円盤を手に取って、陽光にかざして見ている。
「光り方がガラスや水晶じゃないです。硬晶だと思いますよ」
見たことは無いが知ってはいる。
硬晶は極めて硬度の高い鉱物であり、同じ硬晶同士でなければ傷をつけられないと言われるほどだ。金属やガラスを切ったり削ったりするのにつかわれる工業用素材であり、また光の屈折率が高く、まばゆく
その硬晶が60個ほど円盤の周囲に埋め込まれていた。大きさは小指の爪くらいで、形は角ばっていて不揃いだ。
「……これって、どれくらいの値段になるの?」
「ちゃんとした職人が研磨しないと宝石としての価値は付かないでしょうから、売るにはそっち関係の伝手が必要なはずです。原石としての値段であっても、ひとつで大銀貨2枚くらいにはなるのでは」
本当ならば、60粒で大銀貨120枚という計算になる。金貨で12枚。多腕が最高値で4頭分。
頭がくらくらした。
バイジスはとんでもないものを武器に使っていたようだ。
売る先の当てがないが、もう新市街に戻っているだろうジゼルの両親などに相談すれば見つかる気がする。
とりあえず生活のため研究処に身売りしたり、再び養ってもらえるようにマルゴットに懇願する必要はなさそうだ。
出勤するというドルカと、王都南東部、軍用地地域まで同道した。マルゴット邸に一緒に行くためではない。目的地までの方向がここまで同じだっただけだ。
「……あまり一人になるのはお勧めできないんですが」
「いや、もう大丈夫だよ。一昨日も昨日も無事に帰れたから」
「勝手に行くなと言っておいたはずなんですがね」
「だったら一緒に行ってくれよ。早く体力を戻したいんだ」
「……私もそんなに暇でもはないので。くれぐれも注意して行ってきてくださいね」
「わかったよ」
途中で分かれてキラチフ山域につづく道をイリアは走っていった。
草原だった部分は手のひらが埋まるくらい雪が積もっている。辺り一面真っ白で照り返しの光がまぶしい。
行き交う人に踏みつぶされて雪が溶け、道は半分凍ったぬかるみのようになっている。
まだ朝と言っていい時刻なので気温は低い。綿服の上に毛編みの長袖を着て、その上から皮上着という3枚重ねでなければ凍えてしまいそうだ。
『耐久』は体組織の細かな損傷を防ぎ疲労を抑えてくれるが、直接的に持久力を向上してくれるわけではない。
心肺に疲労が蓄積しづらくはなっているが、5日前までろくに部屋から出なかったイリアは当然ながらも元々の心肺が衰えている。
それでも何とか一度も立ち止まることなく。2刻間走って目的地にたどり着いた。
カナトたちとなんども通った、中腹にちょうど窪みのある崖から、さらに南に6キーメルテほど。
崖は少しずつ低くなっていき、やがて刃物で切り込みを入れたように楔形の溝が出来ている場所にたどり着いた。
5日前からイリアはここに通い、筋力回復の鍛錬に崖登りをしていた。
初日はドルカが手本を見せてくれて、上に生えている松の木に綱を結わえてくれている。その綱は多腕狩りで割ってしまった
この綱を掴んで崖の上まで昇ろうというのではない。それは初日に成功していて、鍛錬としては簡単すぎた。
イリアの目標は綱を使わずに登りきることだ。綱はあくまで失敗し落下する時につかまるための命綱だ。
毎度のごとく短鉄棍は持ってきている。上に魔物が待ち構えていた時の備えであり、鍛錬のための重りでもある。
上着の腹帯とズボンの腰帯の両方に短鉄棍を通し固定する。崖の溝の一番奥まで入り込んで岩肌に手をかけた。
カナトは崖登りをする際、長い手足でわずかな手がかりを捉えて巧みに登るのだが、それを真似できるわけではない。
今のイリアは爪が硬くなっているので、猫が平らな壁面を登るようにして無理やり這い上がる方法が可能だ。
楔形の溝の両側面に爪を立て、ぶら下がっている綱から離れないように少しずつ登っていく。
一度目の挑戦は失敗し、すこし休んでの2回目も失敗。半刻の休憩を入れてから3度目。ようやく上端の岩に指をかけ、ついに崖の完登に成功。
崖の高さは15、6メルテほどだろうか。一度の挑戦で10分とかかるわけではないので、思ったより体力は残っていた。明日からは重りになる物を増やした方がいいかもしれない。
足元の地面にも、見上げるキラチフ山域の峰々にも雪が積もっている。
イリアの体温で温められた吐息が空中に白く濁った。
「よお、やっと成功したんだな。今日も無理だったら他の方法を考えたとこだ」
急に背後から声を掛けられ、振り返りつつ距離をとる。背中の短鉄棍を取り出そうとしてもたつく。上着の帯を一部破損させてしまった。
「しばらく見ないうちに様子が変わったよな。やつれてるし、髪も伸びすぎだろ。お前だって確認するのに手間取っちまった」
「あんた…… オスカーの……」
「そうそう、覚えててもらって光栄だね」
カナトよりも少し背は高く、栗色の髪を真ん中わけにして、目の形は垂れぎみ。
羽織っている毛皮の上着の下、佩いている細剣は柄を含めると1メルテの長さがある。
オスカー・ヴァーハンのとり巻きの一人。ダヴィドだった。
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