第183話 半分回復

 全身の痛みも耐えがたいが、自分では何一つすることが出来ないというのが最もつらかった。不安に押しつぶされそうなままの3日間、イリアはほとんど気が狂う寸前だったといっていい。

 魔法を使ってみろというフランツの案が療養法として意味があるのかは知らないが、とにかく自分の意思で何かできることが嬉しかった。


「君がステータス不適応症になったと母に聞かされて、それで王宮街で研究書や古い文献など調べてきたんだがね。贅沢病などと言われるから昔の、城塞都市国家時代の支配者が患う印象が強いんだが、最近も各国のアビリティー初心者の子供たちに起きてる。ステータス上昇率が大きいから、低レベルの時機に魔石剤を与えすぎるのは慎重にならないといけないのだがね」


 フランツが何か言っているが、集中したいので黙っていてほしい。

 イリアはさっそく『浄水プロウター』を試みた。


 右を下にして横たわっているので、水の入った陶器椀には左手を浸けるている。魔法を使う際はいつも右手だったのだが、マナの扱いに利き手などは関係ない。

 5感のうち、皮膚感覚以外は鈍くなっていないのだが、第6感であるマナ感覚の方はまるでダメになっている。

 呪文を唱えると同時に、媒介である水に余剰マナを流すのが普段の『浄水』の使い方なのだが、それが機能しないためか魔法が発動しなかった。

 声を出さない思考詠唱にも慣れていない。だが考えてみれば、最初に魔法を発動させたときはマナ感覚なんて少しも持っていなかったのだ。

 初心に返る心構えで挑む。水精霊ウンディに呼びかけマナを捧げるという敬虔な気持ち。頭の中で呪文の言葉、その意味と発音を再現する。



「——ああ、王宮街というのは君たちの言う旧市街ってやつだ。ともかく、体の一部が麻痺したり、疼痛、虚脱感をともなう軽度の不適応症からの脱却期間は一般的に20日からひと月くらいになる。だが、古い資料ではもっと短く済んでいる記録が散見された。どういう事例だと思うね?」


 『浄水・ライマン式』の呪文を4度唱え直したところで、椀の中に浸けている左手の周りを媒介化された水が覆ったのが分かった。マナを流した水源素が体の延長として感じられる。

 源素が不純物を押しのけて集まり、親指から小指、5本の指のどれでも。イリアの意思の命じるまま先端に向かって流れていく。


「魔法研究者ってのが結構、不適応症を患ったらしいのだよ。研究には魔法系のステータスが必要になるから、彼らはレベルを上げたがる。その一方研究第一なのであまり自分で狩りには出ないのだな。アビリティーを戦いで活用しないまま、他人の取ってきた魔石でレベルを上げるもんだから、結構年を取ってからも不適応症をおこしたりする。そういう記録が彼らの日誌として残っているんだ」


 ドルカが帰って来て、まずどこかから持ってきた毛布をイリアの体にかけた。

 そして一緒に運んできた薪を暖炉にくべている。客室の壁に備え付けられている暖炉は小さなものだが、明々と燃え上がる炎は見ているだけで温かそうだ。

 実際の温度は分からない。寒暖の感覚も鈍くなっている。


「彼ら魔法研究者は、まあ少しばかり体が麻痺していても続けて研究の日々を過ごすわけだ。10日も経たずに症状が消えたという記述が珍しくなかった。年寄りの日誌なんかだと、ただの神経痛じゃないのかと疑われるのもあったが…… おや、魔法がうまく働かないのかね?」


 『浄水』は水をきれいにしているだけなので、椀の中で水を巡らせていても見た目にはわからない。

 うまくいっていると伝えたかったが、いちいち声にならない音を出すのも面倒だ。

 イリアは使う魔法を『氷結ドラートス』に切り替えた。コツをつかんだので一回の詠唱で魔法は発動。親指を除く4本の指の周りに氷が結晶し始める。


 自分のステータス構成が今どうなっているかわからないが、極めて短い期間でレベル上昇を繰り返したことから傾向も何もなく、だいたい均等に育っていると思われる。『マナ出力』は70から80。あるいは80を超えているかも。

 『氷結』を覚えたころの2倍以上あることになるし、『マナ操作』も同じかそれ以上はあるだろう。そのぶん余剰マナの浪費も少なくなっているはず。

 4本指それぞれにクルミ大の氷が出来上がった。

 フランツも気づいたらしく、「おっ」と軽い驚きの声を出した。


 急に意識がもうろうとし、イリアはそのまま気を失った。

 体内の余剰マナ感覚が掴めないためにマナ切れを起こしたのだった。




 その後3日間。ドルカはたまに消えて知らない女が世話をしてくれることもあったが、とにかくイリアは魔法だけを使い続けた。

 よかったのは痛みで眠れなかった最初のころと違い、いつでも自在に気絶出来ることだ。人間、寝ていると寝ていないでは精神の健康がまるで違うものだと実感する。

 そして体の感覚もわずかずつ戻ってきている。

 手足は動かないままだが、砂糖水を舐めて飲み込むとき、舌や喉などを力強く動かせるようになってきた。

 一日一度診察に来るフランツもそれをみとめ、明日には麦粥を試してもらえることになっている。


 介護にあたる者が体の各部分を揉みながら動かし、左右を入れ替えて手を陶器椀に浸けてくれる。この作業は日に4度繰り返されて、関節が凝り固まるのを防いでくれている。


「それにしてもあれですね。2種類しか魔法が使えないと退屈じゃありませんか?」

「……うあぅ……」


 ドルカの言う通りだった。暖炉をつけるような季節に氷を作っても面白くないし、『浄水』にいたっては椀の中で水と不純物を分けてもすぐまた混ざってしまうので、まったく無意味で不毛な行為である。


「誰か水魔法が得意な人を探してきましょうかね。せっかくレベルが上がったなら新しいのを覚える機会とも言えます。どうせそれ以外できないんですし」



 その日の午後ドルカが連れてきたのは見も知らぬ老婆であった。

 寝たきりになっているイリアをやたらに不憫がり、『水鞭ニーロヴィーポ』の呪文とその魔法現象を丁寧に解説してくれた。

 わかる、分からないという返事を二種類の声で伝え、精霊言語の単語の意味までしっかり教わった。ガラス椀の中の水にマナを流して魔法発動を試みる。


「ぼうや、その水はずっと使いっぱなしなのかい?」

「うーあ?」

「魔法ってのは水の精霊力を借りて使うもんだからね。『浄水』や『氷結』と違って、『水鞭』は水を激しく動かすのに精霊力を消耗させちゃうから、一回ごとに取り換えた方がいいと思うよ。半日も置けば元通り力を取り戻すんだけどね」

「……うぁぅ……」


 そう言われても、それをするのはドルカや世話をしてくれる者の協力が要る。


「そういえば戦闘魔法に使ったあとの水は低い温度でも蒸発するって習いましたね。私は水魔法を使えないので試したことはないんですが。……精霊力の問題ですが、水の量を増やしたら何とかなりませんかね?」

「そうね、それでもいいと思うわ」


 『水鞭』を習得する環境を整えるため、イリアは再び寝台の上に寝ることになった。

 分厚い布団の代わりに植物の茎を編んだ敷物が敷かれ、寝台の左右に中型の樽が置かれる。右に寝転ぶときは右の樽に左手を浸け、左に寝転ぶときは逆。

 マナ切れ寸前の感覚は取り戻せてきたので、日のある間はぎりぎりまで練習し、夜になったら気絶する。



 翌日は麦粥を食べさせてもらえた。7日ぶりに砂糖水以外のものが喉を通った感動で思わず泣きそうになってしまった。


 『水鞭』は一番最初に覚える基本の戦闘魔法でありながら、上級者でも使える奥深い魔法だ。というか、そもそも直接的な攻撃力を持つ単水精霊魔法はこれくらいしか聞いたことがない。

 その後10日たってもイリアは『水鞭』を発動することは出来なかった。複雑な魔法現象を思い描くのが難しい。退屈せずにすんだので、悪いこととも言い切れない。




 療養26日目の午後。

 イリアに客が来たとドルカが伝えてきた。


「だれ……?」

「エミリアさんですね」

「いぁ、それぁちょっと……」


 イリアは自分の姿を見せたくなかった。ドルカらの献身的な看護によって不潔な状態ではなかったが、弱弱しくしか動かせない手足はかなり痩せ、筋肉が落ちた胴体はかえって水膨れのように弛んでいる。口の動きも完全ではなく、ろれつが怪しかった。

 そもそもイリアがここで療養していることは秘密のはずなのだが、どうしてエミリアは来たのだろう。


 自分で見ても不安になるくらい細くなった前腕を見下ろす。見舞いを断ってもらうことにした。


「……まあいいですが。一般論としてはそんな姿でも会ってあげた方が相手のためにもなると言っておきます」

「おれぁ元気だとつたえておいてよ、もうすこし回復したら、会えるからって」

「わかりました。まあお年頃なのでしかたないですね」


 お年頃と言われどういう意味だと言い返したかったが、実際イリアは自分でも不思議に思った。

 見舞いに来たのがもしカナトやカスターだったなら、別に気にせず会ったような気もする。




 フランツ式の療養法は見事に功を奏したと言っていいのだろう。

 現代ではほぼありえないほどの重症のステータス不適応症であったが、イリアの回復は目覚ましい。

 【不殺(仮)】に関連した症状でなければ論文にして発表したかったとフランツは言った。


 アビリティーの活用が出来ていないままレベルを上げることで発症する不適応症。アビリティーの活用は予防であると同時に回復法でもあるのだ。

 だが、体を動かすのが難しいほどの重症者は回復のための運動も出来なくなってしまう。そのため本当に何もできないまま、ただただステータスが馴染むのを待つしかなくなるわけだが、魔法が使えれば話は別だ。魔法の行使もまたアビリティーの活用ということになる。


 魂起たまおこし直後のアビリティー初心者が魔法を使えないのは当然として、過去においてもこの単純な療養法が確立されなかったのは意外に思える。

 まあそもそも、自分で魔物と戦わずに金で魔石を買うような怠惰な連中だったというから、少数の研究者以外の患者には魔法を使える者が少なかったのかもしれない。


 またイリアが水精霊ウンディ適正だったのも運がよかった。

 療養中の室内で火魔法を使うのは危険だし、使いっぱなしで気絶すると放火することになる。地精霊魔法は大地の地圧を精霊力として運用するので、やるなら地面の上に直接寝るか、何かもっと工夫しなければばならない。

 療養しながらでも問題なく使えるのは、水魔法の他に風魔法だろうか。ともかく精霊適正によっては回復はより困難だったことだろう。


 寝台の上に上体を起こしていられるようになっている。今日からは運動機能を取り戻すための鍛錬も開始する。

 窓の外にちらちら見える雪はもう4日前から降っているらしい。

 初雪が降るのを見逃したのは物心ついてから初めての事のような気がした。

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