第182話 ステータス不適応症
原因が分からずうろたえるドルカだったが、アガルスに言われて先に自分の治療を済ませることにしたようだ。太腿を刺され、わずかだが毒をくらっているらしい。
水で濡れたズボンも脱がされ、裸の上半身に包帯を巻かれ、寝台に横たわるイリアにカスターが顔を寄せてきた。
「おい、毒にやられたわけじゃないんだな?」
「……」
「怪我もそこまでじゃないようだし、ひょっとして、あれか?」
「……」
返事が出来ない。口もまぶたも半開きでになっていて、浅く弱弱しい呼吸が意識せずに繰り返されるだけ。指一本動かすのも難しい。
全身が痛いがなぜか目玉だけは無事だ、ゆっくりとだが左右に動かすことが出来た。
今いるのは玄関から直接つながる広間ではなく、カスターの母親などが避難していた誰かの私室だ。小さなロウソクの火だけが灯っている。カスターに視点を移す。
「今オレを見てるよな? 意識はあるんだな?」
「……カ、ハ……」
喉の一部を動かし、少しだけ呼吸を制御して声にならない音を出した。肯定の意味だ。
意識があるかという問いに否定の返事はあり得ないので、当然カスターに意図は伝わった。
「……バカやろう、何でそこまでやったんだよ…… そこまで頼んでねえよ、ったく……」
「……」
魔石を摂取する場合の話だが、仮想レベルと獲得成長素量の関係は完全に一定というわけではない。生き物相手なので机上の計算とは必ずしも一致せず、わずかに揺らぐことはあるらしい。
【不殺(仮)】の成長素吸収にもそういう誤差があるならば、サナギの女王の仮想レベルがどんなに高かろうと、通常個体と合わせて4匹ではぎりぎりでレベルが上がらない可能性もあった。
実際は上がってしまった。女王の仮想レベルが27以上であれば、計算上ぴったりと必要成長素量に合う。
ともかく、今の状態になってしまったのは事故だ。アガルスの不意打ちのせいであって、イリアの自己犠牲の精神とかではない。なのだが、カスターは変に感動してしまっている。
ついアガルスの事を恨みたくなってしまう。だが地下に潜った4人のうち無傷の者は居ない。外傷という点ではイリアはまだ軽い方で、二人のスダータタル人壮年男性に守られていたことは理解している。
アガルスは今、隣の広間であちこち噛み切られた部分を縫合している。
そして隣の寝台では全身いたるところを毒針に刺されたラシードが毒を抜いてもらっている。
≪耐久倍加≫はとっくに切れている。
残った毒で赤く腫れあがった部分がひどく痛そうだ。
なにか揺れている感覚があって、改めて目を動かしてみるとカスターが肩をゆすっていた。
「本当に大丈夫かイリア? ステータス不適応症で死ぬことは無いってのは絶対なんだろうな?」
「……」
そんなことを聞かれても困るが、死者が出たという記録はたぶん本当に無い。
だが贅沢病という別名があるくらいだから、過去の発症者はだいたいが権力者や金持ちだったわけだ。貧しいものが発症し、寝たきりの状態が続くとすれば命を落としていたとしても不思議なことはない。
ラシードがうめき声を出しながら寝返りを打った。3人の女に濡らした布で患部を冷やされている。
「……なかなかひどいよな。けど作戦はいちおううまくいったって大おじさんに聞いた。礼を言うぜイリア。オレみたいなどんくさい奴じゃ、たとえお前と同じアビリティーがあってもあんなのとは戦えなかったからな」
「……カ、ハァ……」
「安心しろよ、不適応症が良くなるまで、全部俺たちで面倒を見るからな」
「それはどういう意味ですか、カスター君」
誰にも聞こえないように小声で話していたはずが、いつの間にかドルカがそばに来ていた。びくりと顔を上げるカスターに、濡れた服からスダータタルの民族服に着替えたドルカが迫る。
「不適応症? このイリアの状態はステータス不適応症なんですか? なぜ? いつの間に?」
「えっと、いや、その……」
「答えてください。私に隠し事は無駄です」
「……おいイリア、どうすりゃいいんだ? ていうかこの人知らなかったのか?」
「……カハ」
「カスター君。ちょっとむこうの小部屋に行きましょう」
結局イリアの同意を得ることもなく、【不殺(仮)】の秘密はドルカの知るところとなった。
スダータタル人が責任をもってイリアの面倒を見るという話は消え去って、その後イリアは下町の旅人宿で療養することになる。
スダータタル溜まりの空を覆いつくした肉削ぎバチの群れはその晩のうちに姿を消した。哀れな姿にされたサナギの女王は元居た巣穴に連れ帰られたのだろうか。
昼になってから警士隊の新市街分隊が数十人で出動、溜まりに残っている肉削ぎバチはほんのわずかで、壁外全域でもそれほど見つからなかったという。
実際にはすべての個体が消えたわけではなく、後に井戸の回復のために掃除に入った住民が、何匹か生きているのを見つけたらしい。その多くはラシードによって翅を切り落とされた個体だ。
巣に帰らず壁外地域をうろついていた個体は、若いアビリティー保有者のレベルの足しになったのだと思われる。
戦力組織の主力として働けるレベルの者にとっては、あまり成長素源とならない点もこの魔物の厄介な点だ。もう少し魔石格・仮想レベルが高ければ、狩りの対象として積極的に狙われ、数を減らしているはずなのだ。
悲しい現実だが、自分の利益にならないのに公共のためだけに働けるものは多くない。
翌日から3日の間、イリアは満足に睡眠をとることもできなかった。全身の痛みはいつまでたっても慣れることがなく、常に呼吸が苦しくて安息が得られない。
部屋を取った旅人宿は下町でも南の端に近い位置。窓からはラウラの土橋こと第一大橋が見えるらしいが、寝台の位置からは鉛色の空が見えるだけだった。
仰向けの姿勢で口に水を流し込まれると溺れそうになる。ドルカはそのあたりのことは心得ているらしく、匙で少量ずつ水を垂らしてもらうという作業が日中の時間の3分の1を占めた。
水には砂糖と塩が少量混ぜてあるようだった。視覚や聴覚同様、味覚も鈍くはならないらしい。
このままの状態ではひと月生きられるとは思えない。
死を意識した療養3日目の午後。宿の3階の部屋に来客があった。
上を向いたままの視界に横から急に顔を出してきた。
「君がイリアだね。私の名前はフランツという」
30代後半に見える男。頭につば無しの平たい帽子をかぶっている。法衣に似た服を着ているが、白く装飾の無い意匠は医者が着るものだ。顔にどこか見覚えがあると思ったが、よく見なくても四角い輪郭はマルゴットにそっくりだった。
「ドルカ、この敷き布団は分厚すぎる。替えが無いのならいったん床に寝かせるぞ」
「……床にですか?」
「ああ。それと横向きにしてやれ。たぶんその方がいい」
二人でイリアの体を抱え、敷布を広げた板の床に寝かされた。
フランツの言葉通り、横向きにされると多少呼吸が楽になる。
呼吸のためには肋骨を広げるよう動かす必要があるのだが、獣毛のつまった敷き布団の弾力が動きの妨げになっていたことが分かった。
「……カハァ……」
「いやはや。ここまで重度のステータス不適応症なんて現代じゃめったに見られるものじゃない。医者としては貴重な体験でもあるな」
「フランツさん。喜んでいる場合ではないのです。イリアはどんどん痩せています」
「まあ、あと5日くらいはこのままでも持つさ。それで改善しないようなら胃の中に管を入れて粥を流し込むとか、方法はあるから心配いらない」
「はあ」
「それよりも部屋をもっと暖かくしてあげなさい。かけ布団も胸を圧迫してしまうから、薄い毛布を用意して」
「わかりました」
薪を取りに行くためにドルカが出ていった。
「……さてイリア君。不適応症の症例についての文献をいろいろと調べてきたんだがね。君はこのままだと数カ月単位で寝たきりになるかもしれない」
「……」
「そうなると、元通りになるかも怪しくなってくる。それは困るだろ?」
「……カ、ハァ」
「それでね。ラドバンから聞いたんだが、君は水魔法がそこそこ使えるというじゃないか。なので、ぜひやってみてほしい療養法があるんだが試してみるかね」
イリアとしては一も二もない。声にならない音で承諾を伝えると、フランツは頷いて準備を整えだした。
準備と言っても、顔を洗えるくらいの大きな陶器椀に清水を注ぎ、イリアの手元まで持って来ただけであったが。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます