第181話 溢
ラシードの尻を刺していた肉削ぎバチを弾き飛ばし、空中を舞ってもう一度向かってくるのを下からの逆さ打ちで仕留めて大人しくさせた。
「いいから早く女王をやれ!」
ラシードが急かす。
目的はこの場の肉削ぎバチのせん滅ではない。井戸から次々に入ってくるのだからいくら倒してもきりはない。
背中に鋭い痛みがあった。毒針に刺されたのではなく顎で噛み切られた痛み。
ほとんど同時にドルカの拳の衝撃が加わった。「すいません!」という声。
返事をする間もなく、正面から二匹同時に襲い掛かる新たな肉削ぎバチ。
黒光りする三日月形の目。金属音を立てる二枚牙。
振り上げて弾き、打ち下ろして水中に叩き落す。
魔法の制御を離れ自然に燃え続ける石炭の火は魔蟲にとっても明るく見えているはずだ。だが肉削ぎバチの動きは昼間より単調に感じられる。女王を守るために必死になっているのかもしれない。
どうであれ、イリアはさっきから手加減が出来ていない。『速さ』による認知・思考速度の向上は邪魔をしないのだが、短期間で急激に上がった『力』のほうはそうはいかない。
少し力を抜かなければまずいことになると解ってはいるが、命さえかかった状況でそれができるほど器用ではない。二匹目を打った時、とうとう「バキッ」という音とともに敵の甲殻が割れた感触があった。
左右を熟練のスダータタル戦士、背後をドルカに守られて進み続ける。
正面から来る肉削ぎバチだけを相手にしているのに、その数をもう数えられていない。
水中から顔を出してから20秒ほどだろうか。ようやくあと一歩で燃える石炭の転がる岩棚に到着する。
女王を守ってに立ちふさがるように居た一匹が翅を激しく動かし始める。
もう何度かレベルが上がってしまっている。レベル上昇の感覚は強烈で、それに気を取られないように必死で戦い続けた。背中の傷も痛む。
目の前の一匹は誰かに倒してもらいたかったが、左右の男も忙しそうに魔蟲を打ち返し、捕らえては処理している。ドルカの魔法は帰り道に使うから浪費できない。
やむを得ず、短鉄棍を剣術の型で左斜め下から斬り上げる。またレベル上昇してしまった。
甘い痺れのような感覚が全身に満ちると同時に、とうとう来た。
頭と首。胴体にそれと手足。骨の髄かあるいは神経なのか。体の芯から痛みが広がって感じられる。強い力を持った何者かの掌が体の内側を握りつぶそうとするかのような疼痛。
レベルが上がり、ステータスが上昇したはずなのにもかかわらず、手足の力がかえって入らなくなっている。
思わずうめき声を出したが、自身に起きた事よりも衝撃的な光景がイリアの目に飛び込んだ。
サナギの皮の形を見ると女王の脚は通常個体より何対か多く見える。そのうち2本が皮を突き破って外に出ているのだが、今イリアが弾き飛ばした通常個体が脚の一本に捕らえられ、持ち上げられて女王の顎の、通常個体の3倍もある牙に食いちぎられた。
なぜそんな事をするのか。改めて磔の女王の姿を見る。
飴のように半透明の皮に体の7割ほどを覆われ、残りの部分は露出している。
全体が普通の肉削ぎバチの3倍はあり、人間で言えば右肩および左のあばらの部分が鉄
頭部は顎の部分が露出しているのだが、まだ皮で覆われている上半分の形がおかしかった。
目があるはずの部分。そしてその間の触角が生えるはずの部分が、無残に破壊されている。鋭い刃物でそぎ落とされたかのように平らになって、体液が染み出してぬらぬらと湿ってみえる。
「仲間を認識できていないのか……?」
殺されることで強烈ににおいを発し、その
感覚器をそぎ落とされ、自分と同じ親から生まれた姉たちを認識することもできない女王。通常個体にとっては姫であり妹でもある。
脚に捕らえられないように位置取りながら、赤子をあやすかのように寄り添い、牙でやさしく撫でている。
女王がサナギの皮で覆われた腹部をぐにゃりと曲げ、先端から細長く赤い何かが飛び出した。空中にいる通常個体一匹に向かって高速で伸び、先端の黒い針がかすめ、翅に当たったのかラシードの足元に墜落した。
あらゆる生き物を捕食し、人間にとっては悪夢の顕現と言える肉削ぎバチの群れ。カナトに二度と消えない傷をつけ、スダータタル溜まり壊滅の要因になろうとしている最悪の魔物。
だが、イリアはその姿に哀れさを感じてしまった。目も触覚も破壊され、それでどうやって敵の接近を感じているのかはわからない。
このまま鉄杭を抜いて開放しても、この女王は近寄るものすべてを敵と認識して殺し続けるのだろう。
憐れんでいる場合でもなかった。
女王の状態は羽化しかけというところだ。この大きな個体が飛べるのかどうか知らないが、ともかく自力で移動できるようにしてやれば問題は解決するかもしれない。
ラシードに続いて岩棚に上がったイリアは、疼痛で感覚がおかしくなっている体をなんとか動かし、1匹、2匹と飛んでいる魔蟲を打ち払って間合いを詰めた。相変わらず打ち払うだけで甲殻を割ってしまっている。『速さ』で加速された視覚認識に、折れた牙が宙を舞ったのが見えた。
その一方肉体というか、アビリティーから受け取るマナの感覚は曖昧だ。
経験上、おそらくは成長素を得てしまっているだろう。撃ち落された個体は大人しくなっているように見える。
もう2匹倒してしまった。だが先ほどステータス不適応症の症状と共にレベルが上がっているので、4匹までなら倒しても「次」は来ない。
たとえ女王の仮想レベルがいくらだろうが、等格の1.7倍以上の成長素が摂れることはない。だから女王を鎮静化させてもまだ余裕はある。
短鉄棍を右肩の延長線に構えた。女王の腹がぐにゃりと曲がって先端がイリアを向き、赤い産卵管が高速で飛び出した。衝撃と共に胸に痛み。鎧の白鉄板装甲を貫いて体に刺さっている。
構わず、人間で言えば首にあたる部分に武器を振り下ろした。失敗。
守るように割り込んだ個体に当たってしまった。途中で気付いて急制動をかけたので成長素は摂れていないはず。
武器を回し、膝を岩棚に着くような姿勢で左に横なぎ。鉄杭の刺さった部分に当たり体液が散る。
産卵管が引き戻され、また腹部の先端がイリアを狙っている。
発射された赤い管。その先端に黒い針。卵を産むためなのか女王は毒を分泌しないらしい。
イリアの顔面に突き刺さろうとする針を間一髪で避けつつ、真正面から。触角が生えるはずだった頭部のど真ん中に打ち下ろした。曖昧だが【不殺(仮)】に成長素が吸収される。
産卵管が力を失い、ゆっくりと女王の腹の中に戻っていく。
女王の鎮静化に合わせるかのように、心なしか辺りの翅音も静かになった気がする。
3、4匹体にまとわりつかれながらラシードが女王に近寄ると、両手に一本ずつ鉄杭を握って力任せに引き抜いた。
半分サナギ状態の女王は落下して岩棚に転がり、姉たちが大きな妹に群がった。傷を癒そうとするかのように口先を寄せている。
井戸水で全身がびしょ濡れのイリアは急激に疲れを感じた。全身の感覚が半分麻痺していて、後退るのに足がもつれて転びそうになった。ドルカに背中を支えられる。
「限界ですね、女王を外に出すのはあきらめます。自分たちで何とかしてくれることを期待しましょう」
何に使うわけでもないだろうにラシードは鉄杭を持ったままだ。右手に新たな石炭を取り出し照明の火魔法を灯す。元来た方向、西の井戸に向かって水しぶきを立てながら戻り始めた。全員でそれにつづく。
ドルカが風魔法で守るために最後尾。
イリアは全身がズキズキと痛み、上昇した筋出力に手足の動きが振り回されてうまく走れない。
少し先を行くアガルスが心配したのか振り返った。
鉄兜のひさしの上から、見慣れた形の影がぶら下がって来た。肉削ぎバチの腹部だ。顔に毒針の先端が向いた。
「イリア君っ!」
アガルスが一瞬で間を詰め、掌底で兜に止まっている肉削ぎバチを突いた。
甲殻にひびが入る音が聞こえ、勢いで後ろに転がった。
以前縞オオムカデの幼体と戦った時もあった。ついさっき背中の肉削ぎバチをドルカが倒した時も起きた事だ。
イリアの体に接触した状態で魔物が倒されると、他人の攻撃であっても【不殺(仮)】の異能作用が働いてしまう。
頭と体の芯から全身に甘い痺れが広がり、それを追うようにして痛みが全感覚を支配していく。
痛みを訴えるため叫び声を上げようとしても、口も喉も舌も。肺までも力が入らない。
「カ……。……ハ……ァ」
「おいっ! どうしたイリア君!」
アガルスの腕に体を支えれられなければ水の中に沈んでしまう。力の抜けていく右手から短鉄棍が落ちるのを、片手で風魔法を操りながらドルカが掴んだ。
「どうしましたイリア!」
「毒か? 麻痺させるような毒ではないはずだが……⁉」
「……カ、ハ……」
「……とにかく出ましょう。アガルスさんお願いします」
「う、うむ」
軽度のステータス不適応症はある意味で警告だ。活用されず、馴染まないままで肥大化したステータスがアビリティー構造を
軽度の発症からほんのわずかの間も置かず、さらにレベル上昇をしたイリアは確実に重症化している。
まだレベル2だった6月のころ。皇帝粘菌を殺してしまった時。あの時の感覚とすこし似ている。違うのは意識がはっきりしたままなことだ。
明瞭な意識の中で、アビリティーが
糸の切れた操り人形のごとくぐったりとしたまま、アガルスに背負われイリアは西の井戸から地上に帰還した。
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