第178話 夜

 男4人女2人の壁外住民と、イリアとドルカとカスター。合わせて9人で壁外地域を目指して走っていく。肉削ぎバチの不吉な翅音は聞こえてこない。

 全員が寝具用の敷布を頭からかぶっていた。攻撃自体を防ぐ目的ではなく「におい」を吹きかけられたときの対策だ。着けられたらすぐ敷布を脱ぎすて、戦わずに逃げる算段だ。

 そのにおいは人間の鼻に感じられるものではない。嗅覚を強化するアビリティーは存在しないが、肉削ぎバチに攻撃を受けた部分を【美食家】保有者が舐めると、揮発性の物質が付着しているのが分かるという。


 肉削ぎバチの攻撃行動はかなり複雑だ。

 そもそも肉食の魔物だから、獲物を見つければ殺して食べようとする。その対象には人間も含まれる。

 捕食以外にも、防衛として近づいた生き物を攻撃し、その際仲間に援護を求めるにおいを敵に吹き付ける。においを嗅いだ肉削ぎバチは離れた所からでもやってきて集団で攻撃してくる。

 さらに厄介なことに、殺してしまうとその瞬間、もっと強烈ににおいを出してしまう。風向きなども関係するだろうが、最悪の場合群れ全体を一度に相手にしなければならなくなる。

 知性がある魔物ではないはずだが、本能によって形成された戦略的な行動様式は人間の軍隊並みに厄介だ。


 そういう現象が全て『凶化』で片付くはずがないと思うのだが、何故かイリアに倒された個体は【不殺(仮)】の作用によって一様に沈静化する。

 魔物の頭の中で一体何が起きてそうなるのかは、魔物に聞いてみなければ分からない。

 ≪凶化吸収成長≫に今回のような利用法もあるのだとしたら、やはりもっと、まともな学者による研究が必要になる気がした。



 アルベナ一家の家を通り過ぎ、壁外地域の中に侵入していく9人。相変わらず翅音は聞こえてこない。

 辺りの家や店舗から灯りが漏れてくることは無く、雲間に隠れがちなわずかな月明かりが照らす景色はとても暗い。

 にもかかわらず先頭を行くドルカは迷いなく駆け続けていく。整理されていない壁外の通りはまっすぐでなく、家々の並びはがたがたなのだが、すいすいと通り抜けていく。イリアは体を寄せて小声で訊いてみた。


「ねえ、ひょっとしてドルカのアビリティーって……」

「内緒ですよ。気付いたからって口に出すのはダメでは?」


 【夜警】かもしれない。

 かつては【梟】と呼ばれた「盗っ人アビリティー」だ。

 こういう場合の有用性を思えば、やはりそんな呼び方は不当だと言って間違いない。


 暗くて今は見えないが、昼間見た時は狐のような顔をしていた30代の女が、イリアに近づいて来てやはり小声で話しかけてきた。


「周りの家の中にもいっぱい人が隠れてるのが聞こえるよ。さすがのあたしでもクソ蜂の心臓の音までは聞こえないけど、ブンブンうるさい翅音なら遠くのでもわかる。けど、なんか全然聞こえないんだよね」


 狐顔の女は【耳利き】だ。これも夜間行動において間違いなく有用なアビリティー。

 魔法は不得意だというし、身のこなしや体つきから言ってあまり戦える感じではないが、避難者の大人数十人の中に居てくれたのは幸運だったと言える。


 壁外に侵入してから数百メルテ走り続け、6人の壁外住民は自分の住処に向かうために一人、二人と抜けていく。戦力的に低下していくがしかたがない。

 避難していた屋敷から壁外までが約1キーメルテ。そして新市街防壁を取り囲んで広がる壁外地域の厚みも約1キーメルテある。

 道が入り組んでいるので実際に走った距離は2キーメルテでは済まないのだが、その間、結局一度も戦闘は行われなかった。狐顔の女の指示のもと、たまに聞こえるという音に身を伏せるだけでやりすごせてしまった。




 4人が離脱し、イリアたちの他には顔も体つきもごついカタギとは思えない男と、狐顔の女も残っていた。

 何度も通った道であり、暗いとはいえあと少しでスダータタル溜まりに到着するのが分かる。

 【耳利き】の狐顔がまた顔を寄せてきた。先導しているのはドルカで、溜まりに向かう動機をもっているのはカスターなのに、イリアがこの臨時隊の中心人物に思われている。


「矢場い矢場い、目的地まではついて行ってあげようかと思ってたけど、これは無理」

「なんでですか」

「向かってる先、北西の方に数えきれないくらい居るっぽい。翅音も聞こえるし、クソ蜂どうしの体がぶつかる音が聞こえてる。ひしめき合ってるって感じ。あたしらはここで抜けるから、あとは頑張りな。命は粗末にするんじゃないよ」

「……わかりました。ありがとうございました」


 ごつい男と狐顔は闇の中に消えていった。残されたのはドルカと半大人二人。

 溜まりは別に塀や柵などで他と区切られているわけではないので、どの方向からでも立ち入ることは出来る。

 だが物陰から肉削ぎバチが飛び出してくるというのが一番怖いので、結局裏路地ではなく広めの道の真ん中をいく。

 中央井戸広場へ続く出入り口を示す、細くて曲がった木でできた門が、30メルテほど先にあるはずの位置。

 ドルカが立ち止まってイリアとカスターを振り返った。


「……聞こえますか」

「ああ、居るな」


 イリアもうなずく。人間の活動する音が聞こえないために、ざわざわというかガチャガチャという異音がよく聞こえ「ブーン」と、短い距離を飛ぶ翅音も聞こえる。


「夜は寝てるって言ってたが、全部じゃねえんだな」

「そうですね。夜番がいるということでしょう。どんなに静かに近づいても多分反応されます。鼻がいいので、人間のにおいを近くに嗅いだら食べようとしてくるんじゃないでしょうか」

「何か手は?」


 イリアには溜まりに入り込むこと自体不可能に思えた。

 ドルカは10秒ほど考えてから宣言する。


「こういう時は正攻法でしょう。純粋に力勝負です。こっちはレベル32なので、仮想レベル20の蟲程度、無力化できます」


 そう言ってイリアとカスターを招き寄せ、三人がそれぞれ後ろ向きに背中を合わせるようにして立った。体が離れないようにと硬く腕を組まされる。

 合図とともに歩き出す。まともに前を向いているのはドルカだけで、二人は斜め後ろに歩くという曲芸をすることになる。

 やがて溜まりへの門が近づいてくるにしたがって、周囲に激しい風が吹き荒れ始めた。

 その風は旋風となって3人を取り囲み、風音で何を言っても何も聞こえないし、口を開けば頬の肉がぶるぶると震えてしまう。

 門が吹き飛びどこかへ飛んでいき、鉄兜でさえ浮き上がり留め紐が千切れそうになる。それどころかイリアの体自体浮いてしまってカスターが引き戻してくれた。


 旋風に巻き込まれた肉削ぎバチの縞模様が目の前を高速で横切り、そのまま上空に吹き上げられていく。

 ろくに歩けもしなかったが、魔法行使者のドルカと体重の重いカスターがイリアを運んでくれ、何が起きているのかほとんど分からないまま、どうやら見姑ザターナの家の前まで来たようだ。

 呼びかけるまでもなく扉が開き、誰かが顔を出す。

 暗くてよく分からないが立派な体躯と灰色の太い眉毛が見てとれる。

 カスターの大叔父にして、この溜まりの『塩山の民』の代表者アガルスだ。

 挨拶などしてもどうせ聞こえはしないので、ドルカが風を止めると同時に3人で扉の中に転がり込んだ。



「何事かと思ったらコンスタンティンかっ! ……何してるんだ、まったくっ!」

「おじさん、母ちゃんは無事なのかっ⁉」

「ああ、奥の部屋にいる。サリオスはどうしたかわからないか?」

「親父? 知らねえけど、外に出てたんだし無事だろ」


 アガルスは一度開けた扉を大急ぎで閉め、前に来たときは無かった大きな貫木かんぬき錠を二つかけた。外側から硬いもので叩かれる音が何度もする。

 コンスタンティン? と一瞬思ったがカスターの本名だった。

 母親が居ると聞いてカスターは奥の部屋に向かって走っていた。


「それで、イリア君。何で来たんだ? カスターをわざわざ送りに来てくれたのか? この人食い蟲の巣と化した場所に」

「まあそうなんですが……」


 玄関に入ってすぐの広い部屋にはスダータタル人の老人や女性に子供。成人男性も数名。合わせて二十人以上が床に座っていた。


 どこまで事情を話したものか。

 とりあえず、詳しい話はカスターが戻って来てからにしてもらいたいという旨、限界まで抑えた声量でイリアは伝えた。

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