第176話 風
ハンナに文句を言われそうだが、短鉄棍を剣のように構えた。
全体重を乗せて強く打ち込む打法はまだ練習中で完成していない。相手は高速で飛び回る肉削ぎバチであり、今は慣れた型での素早い攻撃が必要なのだ。
左斜めの斬り上げで迎撃。カンと、高い音。
はじき返された魔蟲は左にぐるっと廻り、もう一度向かってくる。
やはり速い。投射物と相対している感覚だ。
右の横なぎ。体ではなく翅に当たり、魔蟲は体勢を崩して地面に墜落する。
その方向には子供たちが居る。全力で駆け寄り全力で打ち下ろした。命中して、肉削ぎバチは地面に少しめり込んだ。
なおもがいているところに大上段から追撃を加え、甲殻が割れたような感触は無かったが、やっとイリアの体の芯に甘いような痺れが走る。
土を叩くうるさい翅音が消えた。やはり蟲系魔物は倒すと動きを止める。
母親と子供たちはそのまま南に向かって走っていく。カスターも続くのにカナトが動かず、何故か今更腰の短剣を引き抜いた。
そしてそれを、地面の肉削ぎバチに叩きつけた。2度、3度と振り下ろす。
「お、おい何してる!」
「え……? だって、魔石が……」
「こんな時に何言ってる⁉」
短剣は鋭利に研ぎあげられ武技系異能で強靭化されている。そのため、あれほど硬かった肉削ぎバチの体はずたずたになっていて、おそらくは死んでいる。
改めて状況を理解したのか、ハッとしたようにカナトは立ち上がり、慌てて先を行く4人を追いかけた。
荷物は一家の家に置いてきている。鎧を着て武器を持っていても、現状この6人でイリアが一番足が速い。すぐに追いついて先頭に出る。
しばらく走って気付いたが、幼児に長距離を走らせるのは無理な気がしてきた。
カナトとカスターに抱いて走るように提案しようと振り向くと、北の空に黒い影が幾つも見えた。
「矢場い! またこっちに向かってきてる!」
「どうすんだ⁉」
どうしようもない。肉削ぎバチの飛行速度はイリアの全力疾走よりもはるかに速い。つまり全員逃げ切ることは不可能だ。
「……俺がやるから逃げろ、1キーメルテ先にカナトが勤めてた貯蔵庫がある!」
「バカ言え死んじまうだろ!」
「さっき見てたろ、俺なら勝てる!」
「数が違うだろうが!」
言い争うカスターとイリアの後ろから矢が飛び、一匹が墜落した。
残り6匹。新たに矢をつがえた母親が宣言した。
「ここで迎え撃って皆殺しにして、それから逃げよう」
イリアは鉄兜を脱ぎ、少し迷ってから女の子供に被らせた。男の幼児では大きすぎて目が隠れてしまうだろう。
母親がまた一本矢をつがえて狙いを付けている。
矢筒には残り4本の矢がある。つまり全部命中させても倒しきれない。覚悟を決めてイリアは武器を構えた。
カスターが近くにあった石を拾って投げつける。遅れてカナトも真似をする。
近くの石全てを投げつくしてもはるか遠くの相手に一発も当たりはしなかった。だが飛行が乱れた肉削ぎバチは半分が出遅れ、3匹だけ先行してくる。
子供たちは泣き喚いたりせず、中心で体を小さくして自分を守っている。アビリティーを持つ4人でそれを囲うように陣形をとる。最前線はイリアだ。
先行する3匹。先頭の1匹を来た方向に打ち返し、そのまま回転してもう1匹にも当てた。打ち漏らした3匹目がカナトに向かって行ったが母親が射撃した。
蜂は頭部と胸部と腹の部分がはっきりと別れ、そのつなぎ目が細くくびれているものだ。肉削ぎバチも形としては同じで、矢がそのくびれに当たったらしい。体の下半分を失った3匹目は高く飛びあがりどこかへ行ってしまった。
最初に打ち返した1匹の翅音が再度接近したので、振り返って今度は右上から打ち下ろす。
地面に叩きつけたと思ったらぎりぎりで持ち直し、背後に向かって飛んでいく。
2匹目も来ているし、遅れた後続3匹も20メルテの距離。
左から右への切り返しが2匹目の頭部を捉え、空中でコマのように回転しつつ落下した。落下したところをさらに上から叩きつける。農道の横の草むらの柔らかい地面にめり込ませた。
背後からカナトのうめき声が聞こえたが、そちらに気を払う余裕がない。
後続の3匹に矢が飛んだが、狙いは確かだったのに宙を舞って避けられた。
3匹同時に相手にしなければならないと思ったら1匹がイリアを避けて上空を通過。
複数同時に相手をしていると当てることができない。短鉄棍をしゃにむに振り回し、何とか接近されるのは防ぐ。
背後からカスターの「痛てぇ!」の叫びが聞こえたが、いつもの調子なので気にしない。横に振り回すと上下に避けられるので、やったことは無いが真下から上に振り上げてみた。
命中して敵は向こうに吹っ飛んでいく。重かった短鉄棍はもう完全に自由自在に振れるようになった。ステータスは確実にイリアの筋出力を増大させている。
知らぬ間に右太ももにとりついていた1匹がその顎をバチリと鳴らした。黒革の鎧があっけなく食い切られ、皮膚まで切れて鋭い痛みが襲った。
右手を武器から離し、強く握った右拳で打つも避けられる。
飛んで逃げると思ったが、そのまま鎧にぶら下がっている。なぜかと思ったら尻から突き出した針が深く刺さったままだ。革を重ねてある膝当て部分でなければ貫通している。
膝を着き、翅が地面と接触して動けなくなった相手を拳で何度もたたいて土にめり込ませた。牙に接触して小指の付け根が傷つく。
背後を振り返ると戦闘は行われていない。向こうへ行った2匹はどうにか処理したのだと思われる。カナトが負傷したらしく、カスターが上半身裸になって、服で頭部を抑えてやっている。
翅音はしないが、嫌な気配にまた振り向くと、6本の脚で地面を這ってきている肉削ぎバチがいた。カサカサというような音が聞こえる。
右側の翅がちぎれ飛んでいることから、一番最初に矢で墜落した、7匹いたうちの1匹目ではなかろうか。
飛んでいなければどうということは無い相手。しっかり狙って、全力で一度打ち付けただけで沈静化した。レベル上昇の感覚が全身に満ちる。
7匹全部処理できた。カナトのようすを確かめる。
出血のひどい頭部に加えて肩もやられたようだ。皮上着が切れて血がにじんでいる。
「なんだあいつらは、カナトばっかり狙ってきやがったぞ!」
「それより針で刺されてないか? 毒を抜かないと肉が溶けて、最悪腐るぞ」
「それはないが…… クソッ!」
カナトが意識を失ったようだ。死ぬほどの出血とは思えないが、寝不足等の体調不良に加えてだから、耐えられなかったのだろう。
子供たちの小さな悲鳴が聞こえた。母親が震える声で言う。
「あんたたち、子供らを連れて逃げてくれないかい? こんどはあたしが囮になるからさ……」
その視線の先を見る。
北の空に黒い影が見えた。まだ遠いが、その数は少なくとも5匹はいる。
母親が腰にぶら下げている矢筒の中には、もう1本しか残っていない。
1匹ずつ飛んでくるならまだ何とかなるだろうに、昆虫風情が戦略的な知恵でも持っているのだろうか。
あの数をイリア一人でさばけるはずがない。追いつかれれば必ず被害者が出る。
「……とにかく逃げましょう、早く、カスターはカナトを担いでくれ!」
イリアは左腕で男児を抱え、カスターがカナトを背負って走り出す。
母親の左足からも血が滴り、命がけの逃亡は痛みと共に続く。
なぜ誰も通りかからないのか。
軍用地地域に逃げ込んだ誰かが応援をよこしてくれてもいいはずではないか。
肉削ぎバチの飛行速度は今のイリアたちの移動の3倍は早い。
背後に不吉な翅音を聞きながら駆け続ける。左前方に、カナトが見張り番の報酬を受け取った屋敷が見えてきた。だが、いよいよもう間に合わない。
母親に追いついて男児を手渡す。
覚悟を決めて振り返る。距離はもう30メルテ。
「待てイリア! 誰か来たぞ!」
カスターの声。振り返る余裕はなかったが背後から風音が聞こえてくる。
それに負けないほどの大声で女の声が聞こえた。
「すいません! 私が友達に会いに行けなんて言ったばかりに、なんか酷いことになったみたいで!」
イリアの横に駆け付けたドルカ。あごまでの長さで切りそろえられた黄金色の髪がたなびいている。
その両手が突き出されると、大きなつむじ風が大蛇のように伸びて肉削ぎバチの群れを襲い、次々に地面に叩き落した。
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