第175話 飛

 『マナ大氾濫』が起きたのは千年以上前のことだ。正確にはいつなのか分かっていない。

 KJ暦の紀元あたりから【賢者】が世界各地に現れ、人々にアビリティーを与えてまわり魔物に対抗出来るようになるまでの間。300年以上もの長きにわたって人類は絶滅の危機にあった。

 防壁で囲まれた狭い街の中で食料生産もままならないまま、先祖たちは想像したくもないような苦難を味わったのだろうと思われる。

 もし空を飛ぶ魔物が何種類も居たのなら、壁では人の生存圏を維持できない。人類はやはり絶滅していただろう。


 イリアの知っている空飛ぶ魔物は3種類。

 一つは飛竜だ。馬喰らいアギトを凌駕するともいわれる巨体ながら、風の精霊力を利用して巨大な翼で空を飛ぶ。この世界で最高位に位置する捕食者である。

 幸いなことに空間マナ量が多い標高の高い場所でしか飛べないと言われ、人里を襲ったという記録はほとんどない。高山に作られた盗賊の隠れ家が皆殺しに会ったという伝説がある程度だ。

 当然ながら魔石の格も最高位なわけだが、飛竜を獲物とみなす者はそういない。470年代に大賢者トーマ・ブルエフラムがボセノイア東山道で飛竜を倒した話は有名だが、それまで人類にとって飛竜は絶対的恐怖の象徴、会えば逃げるものと決まっていた。

 今でも積極的に狩りに行くのはレベル60以上の『達人級』戦士だけで結成される特別隊くらいだろう。チルカナジアにおいて達人級といえばそのほとんどが戦士団頭領であり、竜狩りの時にだけ臨時で隊を組む。


 皇帝国の帝都ハイフウには南の属国からラウ帝に貢物が届けられる。ラウ帝の好物だという足の無い鳥は魔石を持つ魔物だという。

 鳩くらいの大きさで至上の美味だというが、並の鳥の何倍も素早く飛び回り、そのため捕らえるのは困難を極め一般人の口には入らない。

 魔物ではあるが果物の汁だけを吸って生きているらしく、栽培しているなら農家は困るだろうが、直接的に人の脅威にはならない。


 他にも魔境の奥深くに生息している魔物なら居るのかもしれないが、数が少なければどうということもない。

 人間にとって、最も有害な飛行魔物は肉削ぎバチという事になるだろう。

 蟲系魔物全般に言えることだが繁殖力が高い上に、人里近くだろうが構わずに巣作りをしてはその肉食の性質を発揮する。

 人が森に入って人里への脅威を排除するにあたり、最優先で駆除すべき対象。それが肉削ぎバチだ。



 不吉な翅音を立てる魔蟲が上空をひっきりなしに飛び回っている。

 仮想レベルは20と決まっているという肉削ぎバチ。イリアたちにとって分不相応の相手だし、そもそも投射武器や魔法でなければどうしようもない。戦える大人に任せて避難するべきだ。

 軽く錯乱したようになっていたカナトは、カスターに取り押さえられて大人しくなっていた。


「あんたたち危ないよ! うちの中に入ってなさい!」


 自分の身長ほどもある大弓で先ほど一匹射ち殺した女が話しかけてきた。おそらく自分の家であろう建物を指し示している。


「おばさん、向こうからきてる!」


 カスターが見上げる方角に数匹の黒い影。女が大弓に矢をつがえ、弦を引き絞って放った。一匹に命中して落下する。残り3匹は、仲間の死を意に介すこともなくそのまま向かってきている。

 3人で女の家に入ると、調理場と食堂が一緒になった狭い部屋。

 スダータタル溜まり以外の壁外における一般家庭を見るのはこれが初めてだが、何となく想像していた様子と変わらないようだ。

 10歳くらいの女児と男の幼児がお互いをかばい合うようにして床に座っている。


「あんたたち、二階の外窓を閉めてきてくれないかい?」


 戸口から戻ってきた女はそう言って、細木格子になっている窓に向かった。分厚い木板でできた外窓は中から開閉できる。


「おばさん大丈夫かよ!」


 カスターの声に目をやると、女は足から出血していた。

 子供たちがおびえている。包帯になる物は無いのかと焦った声でカスターが言う。

 女は懐から手巾を取り出し、自分でふくらはぎにできた傷に縛り付けている。ざっくりと切り裂かれていて深手のようだ。見る間に布が赤く染まる。

 イリアは背負い袋を降ろした。結わえていた鉄兜を取り外してからカナトに押しやった。


「中に入ってる服をてきとうに使って包帯にしてくれ。俺は二階の窓を閉めに行ってくる」

「……ああ」


 外から扉に何かがぶつかってくる音がした。2度3度くりかえしてからそれは止んだ。

 壁外地域住人の中年女がどこの国の出身だろうと、大弓を引いていた様子から言ってアビリティー保有者であるのは間違いない。

 その体を噛み切れるのだから粗末な木製の扉だって破壊できるはず。

 カスターが大きく息を吐いて、腰の短剣を抜き放った。


 隣の部屋に行くとそこも外窓が閉じていない。食堂より一回り大きな部屋で、かわやか何かに繋がっているだろう扉もある。

 2つ並んでいる寝台を乗り越えて窓辺に行き、支柱を外して閉めてから掛け金をする。階段はその部屋の隅にあった。


 二階に上がると、廊下などがあるわけではなく一つの部屋の中に直接出た。

 小さな寝台が二つに、箪笥と棚が壁際にあり、木製の玩具とウサギのぬいぐるみが床に落ちている。

 南にある窓の木格子が破壊されている。

 頭部に衝撃があり身を伏せる。兜を被っていなければ負傷していたのは間違いない。外で聞こえていた「ヴーン」というような翅音が間近でうなっている。数は1匹ではない。

 短鉄棍は下に置いてきているので無刃の短剣を久しぶりに抜いた。半キーラム程度の武器はもうほとんど重いとは感じない。


 肉削ぎバチは何度も壁にぶつかりながら部屋の中を縦横無尽に飛び回っている。

 隅に逃げて観察すると2匹だけのようだ。箪笥の上に止まった一匹が、三日月のような形の目でこっちを見ている。翅を広げはばたき、埃を舞い上げて一直線に飛んできた。

 斬り上げた短剣に当たった手ごたえがあった。空中で体勢を立て直してもう一度向かってくる。これも迎撃したと思ったが、短剣にとりついた肉削ぎバチが、刃のついていない剣身を牙でガシガシと挟んでいる。

 翅を掴んで引きはがそうとしたら尻の先をぐるりと回転させた。その先端から黒い針が飛び出し、イリアの左の前腕を刺そうとしてきた。

 大人の体を当たり前のように切り裂く顎だけでも恐ろしいのに、この針には毒があり、注入されると肉が溶ける。


 両手を手放して針を避ける。短剣ごと落ちて床につく寸前を蹴り飛ばした。

 成長素を得られた感覚がない。やはり仮想レベル20もの相手だといいかげんな攻撃では効かないらしい。


 もう一匹のほうがイリアに向かって高速で飛んでくる。飛びながら噛んで来るのをぎりぎりで躱してから階段を駆け下りた。



「上は駄目です! もう入り込まれてる!」

「上はって、じゃあもうこの家はダメってことかい……」


 二階の部屋にも、階段のある隣室とこの食堂の間にも、扉が無い。二階に侵入されたということは、そのままこっちに入ってこられるという事。

 玄関口の隣に覆い布があり、開けてみると小さなガラス窓がある。透明度の低い低品質のガラスだったが近づいて外を見る。

 死んでいたはずの肉削ぎバチ2匹の死骸はいつの間にか消えていて、生きているのが数匹見えている。


「少し増えてます。けど、やっぱり逃げたほうがいい気がします」


 女は頷いた。子供たちが泣きそうな声で母さんと呼んだことから母親で間違いないようだ。

 食堂と隣室の間の、扉の無い戸口でイリアが見張っている間に、母親が左脚全体に水瓶みずがめの水をかけている。筋肉質の脚は顔と比べて日焼けしておらず肌が白い。


「何してるんですか? 血が固まらなくなりませんか?」

「あいつらはで合図を出すんだよ。あたしがやられたとき、きっとにおいを付けられてる。敵だって認識される合図だから、水で流しておかないと」

「じゃあ俺も流さないと……」


 柄杓では間に合わないので、そばにあった棒把手付きの鍋で手早く全身に水を浴びた。11月の水は冷たかったがそんな事を言っている場合でもない。

 ある意味ではカナトのせいでこういう状況になったというのに、本人はぼんやりとしていて役に立ちそうにない。仕方ないと思う反面少し腹が立つ。


 イリアの服の袖で傷を強く縛っている母親は、おそらく早く走るのが難しい。


「近所の家に逃げますか?」

「この時間だから働きに出てるとこのが多いよ。勝手に入ったからって怒られないだろうけど、閉じこもれるかどうかわからない。もうやつらが中にいるかも」

「じゃあやっぱり、他の人たちみたいに南に逃げてみましょう」


 もう一度外を伺い、肉削ぎバチがある程度遠いことを確認してから静かに外に出てみる。水でにおいを流したからなのか、見えていると思うのだが襲ってはこない。


 音に目をやれば上空に飛んでいるのが数匹。辺りの屋根にも少し止まっている。

 カスターと母親が子供をかばって出てきて、後ろにカナト。母親は弓矢を持ってきている。カナトもいちおういつものちびた短剣を腰に差しているのだが、槍ではないのでそこまで戦力を期待できそうにない。


 わずかな距離歩いて、もうすぐ壁外地域を出られるというところ。このまま農作地帯を戻って軍用地地域まで逃げられるかもと思ったが、やはりそううまくは運ばなかった。

 境界付近にある大きなリンゴの木から翅音のうなりが聞こえ、魔蟲が一匹こちら目掛けて飛んできた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る