第172話 狢

 溜まりの中央広場でスダータタル人の男女が数人集まっている。

 イリアが近づいてみると、石で作られた簡易のカマドに大きなな平鍋がかけられているのがみえた。炊き出しかなにかかと近づいてみたが、料理の匂いはしない。


「ん? あんた確か、ジェミスさんの甥っ子と友達じゃなかったかい?」

「あ、はい。それって何してるんですか?」

「塩水から塩を作ってんだよ。見ろよこれ、真っ白で上等の塩だぜ、海塩みたいだろ?」


 鍋の内側や底の方に白い結晶が溜まっている。柄の長い鉄杓子しゃくしでその結晶がすくい取られ、別の容器に移し替えられる。そして少なくなった鍋の中に、水のように透明な液体が追加された。


「それって井戸の水ですか?」

「違う。……いや、まあ元は井戸水なんだが。白い口髭を横に伸ばした変な爺さんが、井戸の塩気をずいぶん抜いてくれたんだよ」

「頭が禿げてる人ですか?」

「そうそう。その爺さんのおかげで、今は何とか飲めるくらいにはなった。使ってればそのうちどんどん薄くなって元通りになる。それで、すごい濃い塩水が樽に何杯分も残されたもんで、炊いたら元通り塩になるんじゃねえかって誰かが言い出してな」


 イリアも出会った謎の老人の働きで溜まりの井戸の問題は事なきを得たらしい。

 わずかだが魔法を使えるようになったイリアだから分かるが、老人のしたことは最上級に高度で、かつ極大規模の魔法運用だ。


 見ていないのでどの程度か分からないが地下洞穴湖になっているという井戸の中の水、そのすべてを浄化するなど、余剰マナ量の観点から見て不可能に思える。少なくとも並の人間の所業ではない。

 というよりも、そもそも魔法現象としては『浄水プロウター』とはぜんぜん違うことを起こしていることになる。

 汚れた水からきれいな水を取り出すのが『浄水』なので、塩水から塩分を集めて取り出すのは逆の作用と言える。

 なにをどうすればそうできるかイリアにはまだ理解できないが、ともかく老人が偉大な魔法使いだったのは確かなことのようだ。

 オスカー・ヴァーハンのしたことを許す気はないが、結果としてここに住むスダータル人に利益がもたらされたなら、それは良いことだと思いたい。


 広場を通り過ぎ、西側の奥に向かう。

 3匹の小鳥を彫刻した赤い扉を叩くと、わずかな間をおいて中から人が動く音が聞こえてきた。貫木かんぬき錠が開けられ、カナトが顔を見せた。



「……イリアか……」


 顔色は悪くない。目の下に大きくクマが出来ていたが、アヤが亡くなった直後の、唇まで皺がよっていたときよりマシに見える。

 勢いで来てしまったが、どんな言葉をかけるべきかまで考えていなかった。


「えっと、……叔母さんは?」

「居ない」

「珍しいな、いつもは昼に寝てるのに」

「……」


 戸口の低いスダータタル式の家なので、カナトは姿勢を低くしないと話せない。腰がだるくなったのか中に引っ込んでしまった。招きの言葉は無かったが、イリアも続いて中に入った。


「それで何の用だ」

「用という事もないんだけどさ。……元気にしてるかと思って」

「……元気さ。寝てるし食ってる。何も問題はない」

「そうか……」


 アヤが寝ていた寝台はそのままになっている。

 その枕もとの壁際に、遺灰の詰められた容器が置かれている。細長い真鍮の金属瓶は、ほんの3デーメルテほどしか大きさが無かった。


「荷物がデカいな。どこかに行くのか、お前も」

「ん? いや、下宿先を出ただけだ。今のところナジアを離れる気はないよ」

「……そうかよ。羨ましいな、どこにでも泊めてもらえる場所があるんだろ? 俺たちは新市街どころか、下町にだって住むのは許されない」

「……」

「魔物狩りのお供なら他を当たれよ。オレはもう、お前のために代わりにとどめを刺してやる義理は無い。金を稼がなくていいからな」

「そんなつもりで来たわけじゃないよ、アヤさんの葬儀から、まだ二日しかたってないんだし」

「ひと月経とうが一年後だろうが同じことだ。お前らはお前らどうしで隊を組めばいいんだ。オレに関わるなよ。ご立派な血筋の、チルカナジア人」


 聞いたこともないほどの冷たい口調だった。

 カナトは顎をしゃくり戸口の方をしめす。

 イリアは何も言い返さず、黙ったままカナトの家を後にした。


 胸中になにか大きな穴の開いたような感覚。

 酷い態度と言えるが、あれがカナトの本性だとは思わない。アヤを失ったことで心が深く、大きく傷ついているのはわかっていたことだ。

 だがイリア自身も万全の精神状態とは言い難い状態だ。

 アヤのために流したのとは違う、悔し涙のようなものが滲んでしまうのを抑えられなかった。




 カナトの言葉とは違い、現在イリアはどこでも泊めてもらえる状態には無い。マルゴットに作ってもらった下宿先証明書は置いてきたので、王都住民としての資格がなく東岸新市街に入るにはいちいち税がかかる。


 だが新市街の宿など値段が高いだけで別にいいところはない。

 イリアは橋を渡って下町地域に入り、アクラ川沿いに建ち並ぶ旅行者用の宿に部屋を取った。

 夕食付きで一泊小銀貨3枚。現在の所持金で約50泊できる。朝昼の食費や諸経費の分だけの収入を得れば50日間王都に居られるということだ。


 意欲が失われていても稼がなければ生活は出来ない。

 50日の間にそれなりの頻度でレベルを上げればステータスはだいぶ大人に近づくだろう。

 そうなればまともな仕事にも就けるのではないか。今度こそ完全に自立できる気がする。

 とりあえずは以前断念したディナルド高地での魔物狩り。いや、狩りとは言えないかもしれないがレベル上げに行く。

 多腕おおうで2匹分とマダラカレキ蟲の成長素が溜まっていて、あとわずかでレベル14なのだ。




 レベル上げに必要のない荷物を宿に預けた。旅行者用の宿はそういう、預かり業務というのをやっている。背負い袋の中身の半分以上を無料で預けて、返してもらうときに銅貨10枚を支払うことになる。期限内に取りに戻らなければ荷物は売り払われてしまう。


 ブルガルの街の宿で、学園生どものたてる騒音に苛立ちながら夜を過ごし、翌朝早くからディナルド高原に赴く。

 自生するヤギを捕食して暮らす「立ちムジナ」という魔物は肉食の割に臆病だ。人が近づけば自分で掘った巣穴にすぐ逃げ込んでしまって襲ってこない。

 穴の入り口を武器で崩したり、周囲で飛び跳ねて音で威嚇したりしながら四半刻ほど、怒りの限界に達したのか出てきた立ちムジナは、後ろ足だけ地面に着いて直立する。


 仮想レベルは12か13。今のイリアにとって等格に近い。

 低くはないのだがここまで遠征してくるような学園生の狙う対象ではない。

 直立した時の頭の高さはイリアと変わらず、目の周りの毛が黒いのと尾が長いことを除けば、細長いクマにも見える。その立派な爪は基本的に穴掘りのためのものだ。

 もちろん引っ掻かれれば怪我はするだろうが、危険度は赤グマ以下と言ってよかった。短鉄棍で7発ほど、急所とも言えない部分を殴っていたら勝った。レベルが上がる。



 なんとなくむなしい思いでその日のうちに王都に帰還した。

 荷物を預けた宿はその日も部屋があったので、3日続けて泊まる契約をした。

 小銀貨9枚かかるところが8枚で済むという。

 気分を盛り上げてレベル上げをしてみたが、どうしてもやる気が起きなかった。金銭的収入がともなわないせいなのだろうか。

 あるいは、強敵との戦いを一人でこなすことで高揚感を味わいたかったのかもしれない。だが等格の野生の魔物にもかかわらず、立ちムジナは思ったほどではなかった。


 季節柄、人間が利用できるような森の恵みもそろそろ枯渇気味のはずだ。

 外に出ないでできる仕事を探したほうがいい気がしてきたが、宿の狭い客室内では再生紙作りなどもできそうにない。

 変に財布の中に余裕があって、差し迫った金欠の危機ではないためかついだらけてしまう。

 ディナルドから帰って3日の間、宿で貸しているくだらない内容の冊子を読んで寝て過ごした。



 併設されている料理屋の食事はまずい。市場が縮小しているせいで食材があまり良くないせいかもしれない。

 料理屋で一人の客が明るい口調で話していた。肺熱症は一度かかると二度とはかからないことがわかったという。どんな根拠があるのかと訊いてみたが、話していた口の大きな旅商人の男は噂話以上の根拠を持っていなかった。

 とはいえ嘘と決めつけるのも違うかもしれない。

 そもそもそんな感じはしていたし、下町地域はその噂を真に受けてか、少し活気を取り戻しつつあるように見える。

 イリアには、そのことが何故か少し腹立たしくもあった。

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