第173話 怒
客室は狭いが、さすがに国の中心である王都にある宿だけあって清潔であり、寝台の寝心地も悪くは無かった。だが特に安いという事もなく、併設されている料理屋も味が悪い。
アクラ川沿いに数キーメルテ続いている宿屋街には数十軒も宿があるのだし、続けて泊まる必要はない。
今晩からは他所に移るつもりだった。
少し遅い朝食を外で摂り、店を出てアクラの河原を少し歩いた。
実も葉もおちた何本かの果樹は実際は生きているのだろうが、それ以外、植物はほとんど枯れていて見渡す限りが茶色っぽい。水際では首も足も長い大きな鳥が何羽か、たむろして餌をついばんだりしている。
夏頃いつも河原で遊んでいた子供たちはまだ家にこもっているのか一人も見当たらなかった。
しばらくたってから宿に戻ると、1階の玄関で掃除をしていた経営者夫婦の妻の方が話しかけてきた。
「お客さんにお客さんだよ」
「なんです?」
「若い女の人。部屋で待ってもらってるけど構わないよね? 盗まれて困るようなものはこっちで預かってるし」
ここに泊まっていることは誰にも教えていないので不思議に思う。
何かの間違いだと思って3階に上がり部屋の扉を開けると、振り返ったのはマルゴット邸の女中だった。
「……ドルカは密偵の仕事もしてるのか?」
「どうでしょうね。それよりも、勝手に出て行っては困りますよ。マルゴットさんにも迷惑です」
「俺が居る方が迷惑だろ? 世間一般的にはもともと他人のようなもんだし、甘えてたのが間違いだったんだ」
昼までには部屋を空けるよう言われている。イリアは散らかっている部屋の荷物を拾い集め、背負い袋に雑につっこんでいった。
「なんだか態度がよくないですね。お友達に八つ当たりでもされましたか?」
「……」
「当たりですか。それでご機嫌が悪くていらっしゃると」
「そうだったら、なんなんだよ」
「嫌ですね、まったく。やっぱり民族が違うと考え方が違うというか、仲良くなるなんて無理なんですよ」
ドルカは片方の眉を上げ、口の端で笑いながら肩をすくめた。
「まして貧民街の住民ですしね。頭領家の一員たる者が付き合うに値しません。離れてよかったといえますね」
「やめてくれないか? ドルカはそんな事を言う性格じゃなかっただろ?」
「しかし、実際にイリアはここでこうして一人でいじけていますよ? あなたを悲しませるなんて、カナトって子は嫌な奴でなんしょう?」
憎たらしい口調で分かったようなことを言う。いや、分かっていれば絶対にそんな言葉は出てこないはずだ。
最初に会った時。二度目だったかもしれないが。
体の弱い妹のために金を稼ぎたいというカナトの言葉をイリアは疑った。
壁外地域に対していい印象がなかったので、そこの住人がそういう、殊勝な真似をするというのがにわかに信じられなかった。
だが妹の話をするカナトの顔は真剣そのものだったし、都合のいい条件を次々提示してくるので半信半疑だったが話に乗った。
その後アヤと会って、カナトの話がすべて真実だと判明した時。
真剣に妹の困難に向き合っている、立派な兄を疑ったことをイリアは恥じた。
自分勝手に利用しようとしたことを悔い改め、仲間としてその願いの成就に協力したいと、心からそう思っていた。
「俺が悲しんでるって? 少しきついことを言われたからって? 冗談じゃないぞドルカ。俺はあいつがどれだけ亡くなった妹ことを思っていたか知ってるつもりだ。俺だって家族を亡くした経験はある。小さいころだったけど、今なんてあれに比べれば100分の1も辛くはない」
「なるほどなるほど。分かっているんですね。だったらよかったです」
「あん?」
敷布が乱れている寝台に勝手に腰かけ、ドルカは長いスカートの中で足を組んだ。
「おっしゃる通り。大きな悲しみを受け入れて、さらにそこから立ち直るには、長い時間といろんな過程が必要になるんでしょうね。その途上にある人間は、周りの人たちに親切にしたり優しく振舞うのなんてきっと難しいでしょう」
「そうだよ。わかってるじゃないか」
「そういう状態だと新しい仲間を作ったりってできるんでしょうかね? この国に来てそれほど間がないのに、せっかくできた友人も遠ざけてしまって。何もできずに一人、ずっと暗いところで生きていくなんて事になったりしないでしょうか」
「……」
「人生ですから、つらい時期は誰にでも来ます。そういう、一緒に居ても楽しくない時期に、それでも側に居てくれるならそれこそ親友と言えます。私は昔そういう友達を持ってましたが、幸運だったといえますね」
言い終わって、そばかすの女中はにこやかにほほ笑んだ。
どうもわざとらしい言葉に乗せられたような気もしたが、イリアは身支度を整え、預けていた荷物も受け取って、まとめ直して宿を出た。
ドルカに聞いたカナトの新しい仕事場に向かう。東岸農作地で収穫された麦以外の農作物のうち、冬を越しても保存できる乾燥ラム豆や根菜類を保存しておく貯蔵施設。カナトは今そこの見張りをしているという。
久しぶりに渡る、第一と第二の大橋の間に架かる農民橋。
渡ってたどり着いた農作地帯を1キーメルテ半横断する。
もうほとんど働いている農家は見当たらず、収穫し忘れたのか種をとるためか、育ちすぎた秋ニンジンがちらほら見える程度。
畑地の真ん中にある、高さ10メルテ程度の櫓のような監視塔は、作物がまだ実っていた頃に畑泥棒を防ぐ役割をしていた物だ。
はるか東に干拓されていない低湿地が見えてきたあたり。
人間が住む家としては耐久性に不安があるが、湿度を一定に保つ作用のある粘土岩建材でできたずんぐりした建物。
東岸では副次的な作物しか作っていないとはいえ、40万人都市の食糧自給の一端を担っている施設にしてはこじんまりとしている、下町の一般家屋の倍程度の大きさしかない3棟の貯蔵庫。
円柱状の貯蔵庫は、大きな両開き扉が出入り口だ。1棟目の監視員はカナトではなかった。
北から南に並んでいる3棟の、真ん中の扉を引き開けると、そこに友人が寝転んでいた。
「おい、カナト」
「……なんだ、こんなとこまで来たのかよ。しつこいんじゃないか?」
「このにおいはなんだよ。まさかカナト、お前」
松脂を焦がしたようなにおいが保存庫の空気に混じっている。酔い草の煙のにおいで間違いない。古い布製の寝椅子の上で身を起こしたカナトの右手の指に、黒っぽいものがつままれていて先端が赤く燃えている。
「なんでそんなもの、吸ってるんだ」
カナトは鼻から短く空気を吹き出した。笑ったのかもしれない。
「前に俺が嫌いだって言ったから、誤解させたかもしれないな。そんなに悪いもんじゃないぜ」
「……そうなのか?」
「ああ。生の葉を潰した汁を煮つめたものを使うと効きすぎるらしいが、乾かした葉を燃やしで吸う分には
そう言いながら軽く振って火を消した。簡単に消えたので火魔法だろう。残ったものを上着の懐にしまった。
「けど豆ににおいが付くってんで、ここの管理人には禁止されてんだ。人には言わないでくれよな、イリア」
天井を見ながら笑っているが、卑屈な笑みだ。以前の、スダータタル戦士の卵としての精悍な表情ではない。
鬱々とした気分を紛らわせるという酔い草を、今最も必要としているのはカナトかもしれない。だが、しかし。
「……カナト。お前なんでこんな仕事をしてるんだ?」
「なんで? そりゃ、食ってくためだろうが」
「こんなところで寝転がってて、どんな先がある? こんな仕事は隠居した老人がするものだろ。お前はまだ、レベル上げをしなきゃいけないんじゃないのか?」
「はぁ?」
ようやく体を起こし、こちらに向かって座り直した。革上着の下の服は暗がりでもわかるほど汚れている。
「なんだよ、どうしても俺を仕留め役に使おうっていうのか? 自分が
「そうだ。俺は一人じゃまともに狩りが出来ない。……実は、結構前に一度しか経験がないんだが、俺は魔物の命を絶つと意識を失うらしい。その時は2日くらい目覚めなかったんだけど、次はどうなるかわからない」
「本当かよ。見てみたい気もするな」
「俺は嫌だが、間違えばそのうちそんな事故も起きるかもな。けど俺はレベル上げをやめるつもりはないぞ」
「……」
一つくしゃみをして、鼻をすすってからカナトは数秒黙った。薄汚れた、ぼんやりしたような表情で見返してくる。
「……なんでだ? この国の慣習じゃ、レベル20までは半人前扱いらしいが。別に全員がそうじゃなきゃ生きていけないわけじゃないだろ? スダータタルでもいたよ。レベル10くらいのうちに大怪我して、魔石を分けてもらえなくなって。刺繍の仕事なんかで食ってたやつ」
「理由はいろいろある。けど、カナトには言うまでもないだろ」
「何かだ」
「病気だよ。レベルを上げて『耐久』がちゃんとあれば、いろんな病気が軽く済む」
「あぁ?」
明確な怒りがカナトの顔に出た。
アヤはアビリティーを得るためにこの国にやって来た。『力』や『耐久』の恩恵を得て、人並みに生きるために。
同じ肺熱症に
アビリティーがあるためだと断言はできないが、実際14歳以上の若者が亡くなったという話は今のところ聞かない。
「生きるためだ。強くなりたいって気持ちもあるけど、それよりも俺たちは生きなきゃならない。病気でも事故でも、悪意ある誰かに攻撃されるのでも。弱いままなら
「アヤが弱かったから、死んでも仕方がないって言いたいのか⁉」
立ち上がったカナト。イリアの方に向かって来ようとするが、よろめいて寝椅子に手をついた。
酔い草は神経反応を鈍くするので、吸いすぎると立って歩くのにも苦労する。以前カナト本人が言っていたことだった。
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