第169話 涙

 気持ちが何度も折れそうになりながら、いつもの崖の下まで来た。

 巨木の幹から雑に抉り出されたような木材が落ちている。

 来たのは良いが、この崖を登る方法を考えていなかった。

 いつもカナトが先に登り、綱を降ろしてくれたから登れていたのだ。


「上に行きたいんですか? 恥をかいてもいいのなら、私が背負ってあげてもいいですが」

「……頼む、……いや頼みます、ドルカ」


 ドルカの背中にしがみついて連れて行ってもらう。

 カナトが岩の小さな凹凸に指をかけてすいすいと登っていたのに対し、ドルカは平らな岩にでも爪を立てて登る。靴も靴下も脱いで、足の爪でもおなじようにしている。

 イリアの『耐久』では同じまねはできない。爪に全体重が掛かれば、剥げてしまうか、そうでなくとも岩の表面で削れてずり落ちてしまうだろう。


 上まで登ってしまえばカナトがどこにいるのかの見当はつく。焚き木に使うのは枯れ木だ。生きている巨木から湿った生木を切り出しているはずはない。

 この場所から一番近い枯れ木と言えば二人で最初にケヅメドリと戦った場所だった。狩りの際何度か訪れているので、山中での地理感覚に鈍いイリアでも行き方はわかっていた。本調子ではない心肺機能に無理をさせ、急いで向かう。




 種類によっては紅葉し、あるいは枯れている森の木々を背景に。左肩に木材を担いだカナトが立っていた。


「よぉイリア。ひどい顔だ、やっぱりあの風邪は、お前にとっても厄介だったらしい」

「……カナト……」


 7日の間普段の半分も食べられず、薬湯ばかり飲んでいたイリアの頬はこけている。だが、カナトの顔はそれどころではなかった。目が落ちくぼみ唇にまで皺が寄っている。


「体調は大丈夫か? お前が手伝ってくれるなら、3往復で必要な量が運べるんじゃないかって思うんだが」

「手伝うよ、もちろん」

「そうか。けど無理するなよ? 病み上がりだろ?」


 カナトは担いでいたものを自分の足元に投げ出し、振り返って倒木の横たわる場所に向かった。腰の短剣を抜き払うと、ナタのように使って新たな部分を斬り出そうとしている。

 コンコンと、カナトの剣が幹を叩く音が鳴り続ける。イリアは後ろに控えているドルカを振り返った。


「さっき何か武器を取り出そうとしてなかったか」

「持ってきていますが、ああいう作業に使える類の刃物ではないです」

「そうか……」


 そうなると、焚き木の切り出し作業はカナトに任せるしかないようだ。

 異能で強化しているはずの短剣を振り上げ、一心不乱にそれを打ち付けている。イリアはただ無言でその作業を見守るしかなかった。



「あ、ちくしょう、出やがった」


 顔を上げ、カナトのと同じ方向に顔を向ける。

 倒木の根元近くに中から穴が開き、緑色の牙が二本揃って見えていた。

 ドルカが向かおうとするのを見てカナトが大きな声を出した。


「なあ! やめてくれよ! それはイリアにやらせてくれないか!」


 ドルカが振り向き、意図が分からないというような顔をした。


「この焚き木は妹のための物なんだよ、魔物の血で汚したくない。イリアならできるだろ? 頼むよ、な?」

「……ああ、わかった。任せてくれ」


 マダラカレキ蟲くらい一人で何とでもできる。ドルカが後ろ腰から取り出した武器は刃のない刺突剣だった。

 それを受け取って、鞘を掃わず留め金をかけたままで魔蟲に挑む。


 まだら模様の甲殻を持つ体長半メルテの魔蟲とわずかな時間たたかい、何が決め手か分からないが敵は急に大人しくなった。背中を両手でつかんで遠くに放り投げる。少なくとも2刻の間は再び襲ってこない。

 イリアが戦っている間もずっとカナトは倒木の解体を続けていた。


 急に動きを止め、不自然なほど汗をかいた顔を上げてイリアを見る。


「マナ切れだよ。しばらく休憩だな。このちびた剣、異能抜きで使ったんじゃすぐ砕けちまうから」

「……なぁ、カナト」

「悪いなイリア、お前と一緒にせっかく稼いだ金、無駄になっちまった。アヤはいつも言ってたんだよ、自分のために大事なお金を使うなんてもったいないんじゃないか、って。分かってたのかもしれないな。こんなふうになるってことが」


 うつろな目で、無理に平静な顔を作っている。

 イリアは首を横に振る事しかできなかった。今王都中で誰もが肺熱症と呼んでいるが、別に昔からある病気ではない。この流行が始まって初めてそう名付けられた新しい病だ。

 アヤが分かっていたはずはない。

 アビリティーを得て、体を丈夫に出来れば健康な人間のように生きられる。そういう希望を、いつからか確かにアヤは持っていたはずだった。



「けど、全部無駄になったわけじゃないんだぜ? 信じられないくらい熱が出て、咳がいつまでたっても止まらなくてさ。壁外じゃ結構何人も死んでるんだが、うちほど立派な医者に診てもらえたところは無いんだ。……下町から呼んできた医者で、結局治すことはできなかったけど、医者の出した薬で咳も熱も穏やかにはなって、妹はそんなに、苦しまなかったんだ」


 その決定的な言葉。溜まりでは最後まで確かめる勇気の出なかった、その事実。

 イリアの目の前で、たった一人の妹を亡くした兄は見る間に表情を崩壊させた。


「ただ穏やかに…… 眠るようにして、ただ呼吸が弱くなっていくんだよ……! 薬を飲ませて、濡れた布で何度も体を拭いて、それでも熱は少ししか下げられなくて……! ……アヤッ!」


 色とりどりの木の葉が積もる地面に崩れ落ちるように、カナトは両膝をついた。

 駆け寄って、その両肩を支えた。


「オレは! 何もしてやれなくて! 何故だ⁉ なんで、何もいいことが無かったアヤに、なんで神は何も与えてくれなかったんだ⁉ ……オレは、何のためにっ? アヤにアビリティーを与えてやりたかった、ここでならそうできると、信じていたのにっ!」


 あふれた涙で顔をぐしゃぐしゃにし、叫ぶ。

 慟哭するカナトに何一つかけられる言葉を思いつかなかった。

 マルゴットの話では、アヤが息を引き取ったのは一昨日のこと。イリアの病状が明確に回復を示し、医者がもう心配ないと保証した日の、その晩だったという。


 『岩通し』のあった日、カナトとアヤの兄妹と、エミリアの4人でした食事の風景が急にイリアの脳裏によみがえった。

 店で一番人気の卵料理に目を見開いて喜んだアヤの顔。


 二度とあり得ない光景。

 両親を亡くし、そしてアヤまでも。

 カナトの人生からは、家族と共に食事をする時間は永遠に奪われてしまった。


 耐えられず、イリアの口と鼻の両方から空気があふれ、声になった。

 両目からもカナトと同じ色の涙が流れ、雨粒のように地面の枯葉に零れ落ちた。

 晩秋のキラチフ山域の森に、二人の少年のむせび泣きだけが聞こえていた。




 結局カナトは焚き木の採集を再開できなかった。1刻もの間泣き続け、やがて崖を登ってやって来たスダータル人の大人たちに連れられ山を下りた。

 焚き木も大人たちが十分以上の量を切り出し、溜まりまで担いで一度で持ち帰った。


 王都ナジア全域で今も患者が増え続けている肺熱症は、あまりレベルを上げていない高齢の老人やアビリティーを持たない子供を中心に被害を広げ、既に200人以上が命を落としているという。

 200人というのは各地域の役場で把握されている数であり、壁外地域の者は含まれていない。

 学園図書館の書籍や【賢者】の≪賢者書庫≫にも同様の病の記載はなく、治療法は不明。通常の風邪と同じように、鎮静効果のある咳止めと熱さましの薬湯を飲ませ、体を冷やすことしか今のところ対処法が無い。


 王政府は具体的な対応を示していない。レベルの高い者にとってはただの風邪と変わらず、アビリティーを持たない子供でも大半は命の危機にまでつながらない。

 大半というのは、すべてではない。

 発症者の子供の実に10人に一人が呼吸困難によって重篤な症状に陥っていた。

 そしてその何割かが回復を見ない。

 元気に屋外を遊びまわる、健康的な子供であってもそうであるらしかった。

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