第168話 拳

 寝台から起き上がり、イリアは久しぶりに自分の力だけでかわやに向かうことにした。

 咳もおさまり、微熱はあるらしいが食べた分だけ体力も蘇ってきて、本当は昨日も一人で歩くことは出来たのだ。それを許さなかったのは女中のドルカだ。

 そばかすの女中ドルカは白い布で頭を巻いて髪を隠している。この7日間付きっ切りでイリアの世話をしていた。ドルカ以外の人間には一度も会っていない。

 25歳独身のドルカは本来住み込みの女中ではない。イリアの介護のために今回屋敷に泊ることになったらしい。

 イリアがかかった肺熱症は普通の風邪同様に人から人に移っていくらしく、家族がいないドルカだから世話役に選ばれたのだ。

 アビリティー種別は教えてもらえなかったがレベルは32もあるらしく、一般人よりもずっと高い。イリアから肺熱症をもらったとしても、命にかかわる事態を避けられるだけの体力がある。


 7日も寝台の上で寝たきりだったから筋肉は少しばかり衰えているだろう。だがそもそも筋出力はステータスで増強されているので、歩行に困難を感じるとことは無かった。

 食事量が少なかったために脂肪が薄くなっている。少しふらつくのは、言ってしまえば空腹だからだ。壁に手をつきつつ無事に部屋まで戻る。

 尿瓶しびんを持ったドルカが部屋の中で眉を吊り上げていた。


「勝手に出歩かないで欲しいんですが。転んで頭でも打ったらどうする気です?」

「大丈夫だって、病気になったからってアビリティーの恩恵がなくなるわけじゃない。板張りの床に頭を叩きつけたってどうってことはないよ」


 言い終わってから一つ軽い咳をした。二、三日前までなら一度出た咳はその後何度も連続して意思では止められなかったが、今は逆に咳をして痰が出ていくたびに健康を取り戻せるような気分だ。


「生意気なことを言いますね。まだレベル13のひよっこのくせに」

「うるさいな、いいからそれをどっかにやっちゃってよ。できればもう食堂で食べたいんだけど、どうせダメって言うんだろ?」

「ええ。完全に咳が止まるまでは人前に出るのは遠慮してほしいですね」


 言われるままに自分の寝汗で湿った布団に戻り、持ってきてもらったチーズ入りの麦粥を食べた。

 食器を片付け、まだ戻って来たドルカの手にはお湯の入った金属たらいがあった。


「さあ、寝間着を脱いでくだい。体を拭きますから」

「わがまま言って悪いんだけど、風呂に入っちゃ駄目かな……」


 この7日間一度も入浴はせず、ドルカに体を拭いてもらっていた。

 人間は汗をかくだけで体力を消耗する。日中でも温かさを感じなくなってきたこの季節、湯冷めなどすれば病が長引くというドルカの話も分かってはいる。


 咳が止まらず呼吸まで苦しかった時期、イリアは命の危機さえ感じていて、拭くだけでは不潔感があるなどと言っていられなかった。

 体はともかく頭が痒い。『雪が積もってから地竜の悪口を言う』ではないが、体力も少しばかり回復したのでねだってみた。ドルカは口をゆがめてしばらく考えたのち、意外なことに首を縦に振った。


「長風呂なんかしないで手早く済ませて、すぐ部屋に帰ってくること。それを守れるならいいでしょう」

「本当に?」

「まあ適切な入浴は本来健康にいいものですから」


 ドルカはすぐに準備をしてくれた。まず小さな暖炉に薪をくべて火を大きくする。温かくなった部屋で熱さまし効果のある薬湯を淹れ、時間をかけてたくさん飲むようにと言いつけられた。

 屋敷の風呂は普段夜にしか沸かさない。丘の上にあるため井戸が大変深いのだが、勤めている使用人数人がかりで水をため、火魔法が得意な者が効率的にお湯に変える。個人邸宅としては大きめの石造りの湯舟である。


 入浴中は風呂場の外にラドバンが待機していた。少し過保護な気もするが、倒れたりすれば救護してもらわなければならない。迷惑にならないようにすぐ湯につかり、体が温まったら手早く全身を洗った。

 入浴を済ませて新しい寝間着に着替え、濡れた髪はラドバンが風魔法で乾かしてくれた。ラドバンはドルカどころか、マルゴットに匹敵するほどのレベルだそうだ。

 部屋に戻ると寝具が取り換えられている。湿っていた布団が予備のものに取り換えてあった。


 温かい部屋で心地よい寝台に横たわっていると、いつのまにかまた眠くなってくる。

 寝れば寝るだけ回復するとドルカに言われているので、真昼間にもかかわらずイリアは眠りについた。




 翌日、咳がほぼ止まったイリアはマルゴットの執務室の扉を叩いた。返事があったので中に入る。

 11月に入った王都ナジアの空は厚い雲に覆い隠されていて、正午だというのに薄暗く寒かった。まともな服の上からノバリヤから持って来た皮上着を着こんでいる。寝間着以外の服を着たのは7日ぶりだった。


「ご心配をおかけしました。おかげさまで回復しました」

「ああ」


 今日のマルゴットの服装はいたって普通。年相応の年配女性の格好だ。

 分厚い毛織のスカートに飾り気のない綿服。その上から短い外套のような、袖なしの上着を羽織っている。


「なんだか久しぶりですね。同じ屋根の下に居たのに」

「前からたいして顔を合わせてはいなかったが」

「そうだったかもしれません。まあ、そんな事より聞きたいことが。スダータタル移民とヴァーハン家の問題はどうなったんでしょうか。自分はずっと寝てて、何もしなかったのにこんな事を言うのは心苦しいんですけども」

「今のところ特に大きな動きはない。肺熱症の流行は悪化中だし、どちらもそれどころではない状況なのだろう」

「そうですか、病気は問題ですけど、そっちが悪化していないならよかったです」

「……」

「どうしました?」


 少しやつれたように見える顔で、マルゴットは小さなため息を吐いた。


「……病み上がりの、たかが14歳のひよっ子に伝えるべきことか分からん。言うのが遅れたと私に怒りを向けるなよ? 知ったのは昨日のことだし、お前の回復に配慮した結果だと考えろ」

「何ですか、早く言ってください!」

「今言う。落ち着いて聞け」


 マルゴットの話を最後まで聞くことなく、イリアは外に向かって駆けだした。




 屋内に閉じこもっていただけでははっきり分からながったが、「溜まり」に向けて数キーメルテの距離を走っている間、やはり体力の低下を実感した。いままで一息に走り抜けていた道のりなのに、何度も立ち止まり息を整えねばならなかった。

 あるいは焦りのために適切な速度を維持できていないのかもしれない。冷たい空気が肺を出入りするたび頭痛のような症状も起きる。

 後ろから女中服のままでドルカが付いてきているが「ぶり返すから屋敷に戻れ」とは言ってこなかった。


 壁外地域の様子は一見普段と変わらなく見える。ふざけ半分で関わればとたんに暴力沙汰になるような、血の気の多そうな若者が粗末な露天でなにかにと用を足している。

 だが路地の奥や、道が交差する位置のちょっとした広場を見れば、そこで元気に遊びまわっていた子供や、世間話を語り合う老人達の姿が無いことに気づく。


 一切の武装をせずに壁外に入るのは考えてみれば初めてのことかもしれない。それでも別に絡まれたりすることもなく、スダータタル溜まりまでたどり着いた。


 溜まりの中央広場の真ん中にある、塩で使えなくなったという井戸。

 ただの塩水なので薄めれば飲食にもつかえるわけだが、薄めるための清い水は他所の井戸から手に入れるしかない。

 あるいは塩水を浄化してもいいわけだが、魔法で浄化するなら井戸水である必要は無く、アクラ川の水を直接汲んできても同じことだった。


 広場に入り少し歩くと、井戸の中から誰かが出てくるのが見えた。

 鉤付きの縄梯子を登り切り、井戸を補強している石垣を乗り越え、滑車を使って鎖でつながった桶を引き上げている。通り過ぎようとしたイリアを見て話しかけてきた。


「おや、君はひょっとするとイリア君というんじゃないかね?」


 頭頂部以外に生え残った短い髪。横に長く伸びた口髭も真っ白で分かりにくいがラハーム系住民の特徴がない。溜まりに居るはずのない種類の人間にいきなり名を呼ばれ、イリアは警戒した。

 背の低いふくよかな老人で危険な感じはしないが、人が良さそうであっても今関わりあっている暇はない。


「御老人、そこで何をしておられますか」


 イリアと老人の間に割り込むようにドルカが位置取り、硬い声で話しかけた。右腕をスカートの後ろの辺りに突っ込んでいる。


「この井戸にひどい悪戯がされていると聞いてね。わたしの魔法で何とかしている所だよ。見なさい、と言っても見ただけじゃわからないが、この桶の中に塩分をめいっぱい詰めてきた」

「そうですか、それはご奇特な事ですね。では、我々は用事がありますから」

「ふむ。だがイリア君、カナトという少年に用ならここにはいないよ。焚き木がたくさん必要だという事で、さっきキラチフに向かって行った」


 得体のしれない老人の言ったことも重要だったが、それよりも確かめなければいけないことがある。マルゴットを疑うわけではないが、どうしても信じがたい。信じたくなかった。



 カナトの家の扉の前に立ったとき、希望が粉々になる音がした。

 扉の向こうから聞こえてくる絶えない女のすすり泣きが真実を物語る。

 赤く染め上げられた木製の扉には、スダータタル文化独特の意匠で3匹の小鳥が舞い踊る姿が彫刻されていた。


 把手に伸ばした手が途中で止まる。健康を取り戻したはずの呼吸が苦しく、震える肺が息を吐くのを忘れて吸い続けてしまう。

 開ければ目に飛び込んでくるに違いない悲劇の光景。


 それを確かめる勇気が。自分の手で扉を開けるための勇気が。いくら歯を食いしばっても、どんなに強く拳を握っても。イリアの中から湧き上がることが無かった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る