第167話 病
見姑のひ孫であるカスターが一緒なことで視線はすぐ柔らかいものに変わったが、スダータタル人にとって自分は異民族であることを改めて思い出した。
いつも診断を受けている部屋ではなくその隣。誰かの私室と思われる普通の部屋に通された。
カナトが居る。それと見覚えのない壮年の男。二人とも植物を編んで作った敷物の上に座っていた。
壮年の男の太い眉毛はカスターと同じだ。父親ではなく大叔父だそうで、溜まりにおける『塩山の民』のまとめ役だという。『塩山の民』は氏族の名であり、住んでいた土地で岩塩が採れたことに由来するらしい。岩塩の鉱脈が尽きたのは大昔のことであって今回の件とは何の関係もない。
「井戸をダメにした奴の見当はもうついている。だから君に来てもらったのだ、白狼の牙のイリア君」
「……。誰なんでしょうか」
「ヴァーハンのなんとかって奴だ」
イリアの問いにはカナトが答えた。うつむきがちなその表情は暗い。
「ヴァーハン家のオスカーか? なんでそう思うんだ?」
「なんでもなにも、奴が自分で白状したようなもんだ。今日、オレらとは別の壁外の連中を何人も連れて溜まりに乗り込んできた。ここにアール教の教会を建てたいから、オレらは出て行けとぬかしやがった」
「はぁ? オスカー本人がか? 俺たちとひとつふたつしか変わらないただの学園生だぞ、何の権限があってそんな」
いくら名家の一員とはいえおかしい。壁外住民と連れだってやって来たというのも奇妙だ。
ヴァーハン家の一員であることを誇りにし、壁外住民など蔑んでいるはずのあの男にかぎってそんなことがあるのか。
だが実際に顔を見たカナトが本人で間違いないと言っている。
大量の塩を仕入れる資金についても、詳しく知るわけではないがヴァーハン家なら何とかなりそうな気もしないではない。
オスカーらに対応したのはカスターの大叔父アガルスだった。溜まりに正式な指導者は居ないが見姑は重要人物であり、その息子であるアガルスはいちおうのまとめ役になるらしかった。
「たかが15歳の若者がこんな工作をするのは私も奇妙に思うよ。名家の人間が壁外に関わるというのも珍しい。だが、若いからこそ不安定というか、柔軟だともいえる。君もある意味で似たようなものだろう?」
そういえばそもそも、イリアは壁外住民に被害を受けた立場の人間だった。
同じ壁外住民でも、バイジスとスダータタル人では全然違うのでいつのまにかこうなっていたが、王都に来る前には考えられなかったことでもある。
「私が話したオスカーという男はけっこうこっち側になじんで見えたよ。これは悪い方の意味でだがね」
「……でもですよ? そもそも王都には宗教施設を作れない決まりでしょう? 教会なんて建てられないはずでは?」
「オスカーという男が得意げにいうには、ここはそもそも不法に占拠されている土地であって王都とは言えないらしい。それならろくに利用されていない農地の方に建てればいいと言ってやったんだが、橋にも新市街にも近いこの辺りをラハーム教徒である我々が占拠し、アール教徒が遠くに追いやられるなどあり得ないんだそうだ」
「そういう争いを防ぐためにある決まりじゃないんですか……」
「ともかく、今は情報を集めたい段階でね。カナトが言うにはあのオスカーと君たちは、何か揉めたことがあるとか。その辺りの話を聞かせてくれないか」
イリアの理解しているところでは、アール教の教会組織というのは複雑だ。
水晶球で
そしてその上に高位司祭というのがあって、司祭総長というのが一番上の地位。
西部世界の中心、学術・文化先進国のデュオニア公国。そのデュオニアの南側、海に突き出た半島部分の古代都市インディロモに司祭総長は住んでいる。
だがアール教会の権威というのは二つに分離しているようで、あくまで象徴的な存在である司祭総長より、実力部隊であるアール教神兵団の指揮権を持つ審問長官の方が重要という見方があるらしい。戦う力を持つ者が権力を握るのは、魔物の脅威が消え去らないこの世界では仕方がないことだ。
そして審問長官が拠点を置くのは隣国ボセノイア共和国。ボセノイアとの外交を担当しているのが、オスカーの伯父であるヴァーハン家当主だ。
もしオスカーの行動がヴァーハン家全体の意思であるなら、壁外全体から集めても千人足らずのスダータタル人に抵抗する
そもそも溜まりに住んでいるのは全体の三分の1に過ぎないのだから、スダータタル人だからと言ってここでなければ暮らせないわけではないのだ。力を結集して抵抗する明確な動機に欠けるし、既に井戸は駄目にされてしまっている。
とりあえずイリアはオスカーとの間にあったことを話した。エミリアの名は出さなかったが、学園生証腕輪の不正によってイリア自身が外国人だと思われている事や、『岩通し』でぶつかり合ったことも含めてすべてを。
自分にできることがあるかは微妙だったが、深くかかわってしまったスダータタル移民たちはもはやイリアにとって他人とは思えない。
いい関係を築けているとはあまり言い難かったが、こういう場合に頼りになるのはマルゴットだろう。
何の条件も無く協力してくれる人間ではないが、政治にかかわることであれば彼女自身がうま味をみつけ出すかもしれない。
アガルスに訊かれたことに答え終わったイリアは急いで下宿に帰ることにした。
屋敷に帰り着きそばかすの女中に尋ねると、うまい具合にマルゴットは在宅だという。執務室ではなく一階の個人用の居間でくつろいでいるというので、食堂に続いている大扉の隣の廊下の奥へ行く。
突き当り左の目立たない戸を開けて中に入ると、風呂上がりのマルゴットが大きな寝椅子に横たわってブドウ酒を飲んでいた。
丈の長い部屋着を素肌の上に直接着ていて、ずんぐりと筋肉質な体形がわかる。年齢のわりにはかなり鍛え上げられている。
「ゴホンッ。すいません。時間あるでしょうか」
「……まあ、見ての通り休憩中だが。何の用だ」
イリアは現状分かっていることを全て伝えた。個人用の居間には寝椅子が一脚あるだけだったが、そばかすの女中が運んできた食堂の椅子にイリアは腰かけている。
話を聞き終わったマルゴットは座り直し、首を傾げてイリアを睨みつけている。
「ゴホッ。……何ですか?」
「なんですかはこっちの台詞だ。イリア、その咳はいつからだ」
「え? あぁ、そういえば今朝から何度か……」
マルゴットが立ち上がり、イリアに近づいて額に手を当ててきた。それなりに酒を飲んでいるマルゴットは普段より血色がいいが、その掌は妙に冷たい。
「熱がある。流行りの肺熱症かもしれないぞ。部屋に行っていろ、医者を呼ぶ」
「いや、それよりもヴァーハン家の問題を——」
「わかった。移民のことなんぞ私の知った事ではないが調べてやる。だから早く上に行って寝てろ」
あまり積極的とは言えないがいちおう請け合ってくれた。
だがマルゴットが動いてくれた結果、何が起きたのかをイリアが知ることは無かった。
イリアはそれから部屋から出ることもなく、熱にうかされ、咳で飲食もろくにままならないまま7日の間療養することになる。
医者の診断は肺熱症とみて間違いないそうだ。
肺熱症は王都ナジアに大流行し、商工業も行政機能も、その大半が麻痺する未曽有の事態が引き起こされることになった。
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