第161話 脱臼
梯子を上ってエミリアたちが最初にいた屋根の上に戻るとアントニオが待っていた。イリアは毛詰めの革兜を脱いで返した。なにやら顔色が悪いが、体調が悪いのではなく緊張しているだけだという。
アントニオは午後の大人の部、『岩通し』本戦に出る。開始時刻まで一緒に出場する仲間と過ごすというので、イリアとエミリア、それにカナトと、カナトに抱きかかえられているアヤの4人で『喫茶・軽食アプリコス』に向かうことにした。
エミリアの両親はいつも通りに店を営業していたが予約席として一卓取っておいてくれて、全員で無料の昼食にありつくことが出来た。
日の7刻が終わり、いよいよ本戦開始となる。
大通り南半分のちょうど真ん中たり。エミリアたちが最初に居た場所から観戦する。午前の部は千5百人ほどの半大人が参加したが、本戦はその3倍の大人が参加する。
青襟巻の北軍も赤襟巻の南軍も。同じくらの大人数が大通りに密集し、睨み合ったり言葉で威嚇し合ったりしている。アントニオは屋根の上から見える位置、脇の方で同じような年恰好の3人と共に立ち尽くしていた。
1キーメルテも北にある中央広場の様子はまるで分らないが、歓声と怒号が入り混じったような声が聞こえてきて、既に戦いが始まっているのがわかった。
半大人戦の参加者はほぼ全員が男だったが本戦も同じでのようだ。数千人の多くはレベル30を超えているらしい。
壁外地域を除いて王都の人口は30万人ほど。その中から選りすぐられた、百人に一人のいわば「岩通しバカ」。何年も繰り返し出場し続ける者が大多数。
岩が見えている時でなければ直接的な行動が出来ない規則。
北から徐々に近づいてくる、うねりのような音が到達するまでは大人しかった。だがある瞬間、「岩」という声が聞こえたと同時に青と赤の集団は激突した。
武闘派で高レベルの大人同士のぶちのめし合いを見てしまうと、さっきイリアたちの演じた戦いが子猫同士のじゃれ合いに思える。
100キーラムもありそうな大男が次々に数メルテ吹っ飛んでいき、大通りに面する店舗を保護するための木板や柱が、次々にぶち割れ、へし折れて端材と化していく。
やがて、人間の頭より一回り大きな黄土色の岩が北から飛んで来て、3メルテ以上の高さに跳び上がった参加者が空中でそれを受け止めると、岩の勢いで軌道を変えて落下していく。
落下した先で敵味方問わずに取り囲まれ、やがて岩を受け止めた南軍参加者はその場で失神して審判団に回収された。あったはずの岩はどこにも見当たらない。
『岩通し』で使われる岩は建材として使うには心もとない粘土岩で質の悪い煉瓦くらいの硬さしかなく、高レベルの大人が本気で殴ると砕けてしまうのだ。
アントニオは開始早々、肩を脱臼して仮設医療所送りになってしまった。そもそも去年学園を卒業したばかりのレベル22が参加するような催しではないのだ。
結局、見物するイリアたちの前を岩がまともに通り抜けていったのは試合が始まって1刻以上たってからだった。
本戦の制限時間は2刻間。参加者の半数が負傷や失神で戦線離脱。
生き残りの人数もその体力も半分になってからようやく、いくらか競技らしくなってきたと言える。
さらに1刻後、どうやら本戦のほうも北軍の勝利で終わったようだった。得点は「3対4」。岩は半大人戦と同じく100個用意されていたのに、9割以上が粉砕されてしまったらしい。その結果を見ても完全に別物だった。
商店保護のための壁は崩壊し、来年も使えそうな原型の残っているものは半分も無い。これほどバカげたことのために材木を浪費してしまっていいものなのか。
カナト兄妹を送りに東岸へ向かう帰り道でエミリアに訊いてみたところ、「どうせ薪が必要になるのだから問題ない」らしい。
全体に寒冷な気候のチルカナジア王国でも王都ナジアは北半分の側だ。あとひと月ほどすれば初雪が降っても特別おかしいことはない。
「勝利の輪」に岩を投げ入れた瞬間、周囲から浴びせられた称賛と歓声。その楽しい思い出の夢からイリアは目を覚ました。
左側頭部の腫れはすっかり引いていて、首や肋骨にも違和感はない。
寝台から起き上がったイリアは一つ伸びをしてからまともな服装に着かえた。
一階の食堂に降りると、毛のない60代男の先客がいて朝食を食べている。
「おはようございますラドバンさん」
「ああ……」
調理場のカマドの、すでに火の消えている炉口の鍋から、朝食の煮込みを皿にとる。上に中くらいのパン2個を載せて戻り、ラドバンの斜め向かいの席に着いた。塩味の煮込みは羊肉が適量入っている。
「……岩通しで活躍したんだってな」
「さすが、観てないのによく知ってるんですね」
「いいのか?」
「目立っていいのかって話ですよね? まあよくないですが、それほど目立ってないと思いますよ」
「南側の参加者は700人と少し居たが、得点を入れたのは32人だけなんだろ?」
「そうですけど。誰も俺の名前や素性まで分かったはずはないですし」
話はそれで終了した。イリアは今日予定がある。
鎧を着た状態でカナトが槍を十分使えるのかどうかの確認に付き合わなければいけないのだ。
待ち合わせたのはカナトたちの住む溜まりのちょうど真西のあたりの河原だ。
完全武装したイリアと新しい胴鎧を装着したカナト。カナトの槍の穂先は青銅の鞘がついたままだ。
【槍士】の異能≪武装強化・操≫は鞘ごと強靭化できるので、このままでも問題なく戦うことが出来る。
「体は大丈夫なのか?」
「問題ない。昨日一日寝てたけど、何も起きてないよ」
そういって首を回して見せた。一昨日の『岩通し』では意識を失った一瞬があったので念のために自粛していた。あくまで念のためで、最初から痛みや違和感はなかった。
「その兜は新しく買ったのか」
「そう。カナトの鎧を見つけた店にあったから買ってみた」
『岩通し』本戦のあと、エミリアと一緒にカナト兄妹を第一大橋東岸まで送り、とってかえしてアントニオのいる仮設治療所まで今度はエミリアを送り届けた。アントニオは布で右腕を吊っていたがそこ以外は無事でいた。
エミリアの家からマルゴット邸に帰る道順、橋を渡れば軍用地地域というあたりに中古防具店はある。
祭り最終日ということで、もはや客が普段より多く来ることはない。
なのでもう安売りなどしていないと思っていたら、店の前にあふれるようにして割引値段の防具が並べられていた。
何事かと思ったら、いい商品をたくさん仕入れられたので場所が無くなり、処分品が出たということだった。
イリアが買ったのは飾りもなにもない、つるりと丸い鉄兜。椀を逆さにしたような半球状の本体。その左右に、同じく鉄製の頬当てが留め帯と一体化している。
小さい
値段は大銀貨3枚と小銀貨2枚。薄手なので重さは2キーラムほどだ。
カナトとの訓練は有意義な結果に終わった。
以前は槍の間合いに入ることが出来ずに攻撃される一方だったが、鍛えた足運びによる急加速と、『力』の増大で素早く武器を振るえるようになったおかげで十分互角に戦えた。
最初は鎧に慣れないせいだと言い訳していたカナトだったが、肩当の構造がしっかりしていて、全力で動いても破損しないことが分かってからは本気で戦い、それでもイリアを完全には封じられないことを認めざるを得なかった。
もっとも、カナトが穂先の鞘をはらえば鋭利な穂先が露出し、鎧の無い部分で触れればイリアの体は簡単に切れてしまう。
武技系アビリティー保有者の本気の攻撃の恐怖を感じながらであれば、はたしてどれくらい戦えたか。イリア自身にも疑問だ。
鞘付きの穂先が何度か鉄兜に当たったが、内側に厚く柔らかい革と布が重ねてある兜はその衝撃をしっかり緩和してくれた。所々錆びた跡がある中古品だが、鋼の質は悪くないようでへこみも出来ていない。かなり買い得の品だったと言えるだろう。
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