第4章

第147話 秋

水の精霊よゼ ファンウンディ マナを喰らってヨルトー ピンマナ 熱を絶ちレタナーゼル しろがず凝らせパヴェ ルコッテ 氷結ドラートス


 小さな声で呪文を唱え終わると、右手の人差し指の表面が氷の膜で覆われた。面白いことにこの時点では冷たさを感じない。ガラス杯の中に入っているのは清浄な井戸水だ。

 水精霊ウンディ適性がある者にとって水は凍ってもなおマナを流すことのできる媒介だ。

 周囲の水を次々に結晶させ続ける魔法現象を頭で想像し続け、余剰マナを消費していく。魔法のためにマナを放出する感覚をイリアは最近ようやくつかむことが出来てきた。


 マナ切れの兆候を感じたので魔法を停止する。小さな飴玉程度の透明な氷塊が出来上がった。魔法媒介ではなく、ただの物質としての氷になった事で初めて指先が冷たくなり、指の周りからさっそく体温で溶け始める。

 イリアは氷を口に入れた。普通の氷の味がする。


「行儀が悪いぞイリア」

「すいません」

「魔法の修練ですから仕方ありませんわお父さま」


 初心者が使う魔法としては高度な魔法なので『マナ操作』が低いうちは消費効率も悪くなる。それでも習熟すれば今のレベルで倍の大きさの氷を作れる計算になる。

 余剰マナは使い切っても1刻半あれば回復する。なので1刻半ごとに修練すれば、一日で8回は使えることになる。

 実際は魔法の修練ばかりしていられるほど暇ではないので、出来るのは朝と夕方と就寝前の3回くらいだ。


 今イリアはハインリヒ商会王都支店の2階、家族のための食堂で朝食の席についている。

 この2、3日、イリアはジゼル一家と一緒に朝夕の食事をとっていた。

 客人として共に過ごせる日数はもう残り少ない。


 カルロッタが朝食の焼き物を持ってきた。アクラ川の少し上流に流れ込む支流、エルーサ川で養殖されたタイラウオの小麦粉焼きだ。

 食べてみると、味はそこそこおいしい。イリアが参加する食卓では必ずカルロッタが料理したものが出てくる。女中のジージャが作ったものの方が味自体はいいのだが、内緒だ。


「それにしても、やっぱり残念ですわ。どうしてもイリアはナジアに残るんですのね?」

「お母さま、あまり何度も言うとイリアを困らせてしまいます」

「でも……」

「ジゼルの言う通りだ。男子は一度志を立てて旅だったら、結果を出すまで簡単に故郷の地を踏むべきではない」


 パンの塊を切り分けながらエルネストが言った。

 明後日の10月4日。ジゼルと両親はソキーラコバルに向かって出発する。

 彼らにとっては父親や義父、あるいは祖父にあたるハインリヒに会いに行くためだ。


 何があったのかよくわからないが、夫婦の関係はかなり好転したらしい。

 心配をかけた侘びと、今後とも末永くよろしくという挨拶。それと単純に家族としてハインリヒと過ごす時間のために、仕事を副店長タマラはじめ従業員に任せ、ひと月以上店を空けるのだ。


「お父さまお母さまは冬の前には戻ってきますが、わたくしはたぶん卒業までソキーラコバル分校に残ります。半年近く会えなくなりますわ。寂しくなりますね、イリア」

「そうですね。でもまあ、何かあれば冬でも会いに行きますから手紙をください」

「ええ。そうしますわ」



 自分の都合のために普段よりも早めに朝食を用意してもらった。

 食べ終えたイリアは後片付けを手伝えないことを詫びると、さっそく自室で準備を整えて南門に向かった。




「遅いわよイリア。西岸からきてる私の方が早く着くってのはどういうことなわけ」

「いいじゃねえか別に。まだカナトも来てないし、3人で迎えにいこう」


 南門の外にはカスターとエミリアが待っていた。

 しまオオムカデとの闘い以来、カナトとカスターと一緒にさらに5回狩りに出ている。そのうち2回はエミリアも参加。4人隊での活動は今日で合計4度目となる。

 二度目からエミリアは弩弓を持ってくるようになった。格闘術ならカスターを地面に這いつくばらせることもできるが、武器を用いて魔物と戦うのはそれほど得意ではないらしい。

 カスターは新たに鋼鉄の胸甲鎧をあつらえている。それが可能なくらいには、キラチフ山域での狩りは収入になっていた。


 「溜まり」に向かう途中でカナトと合流できた。そのまま目的地に向かって走り出す。

 もう何度も通い慣れた道。1刻半で崖に到着。いつも通りカナトが先行して登っていく。





「……やっぱり、この辺りの甲冑蟲かっちゅうむしは全滅させちまったみたいだなぁ」


 午前中いっぱい探索したが目当ての白銀の魔蟲は見つからなかった。

 味付けのためイリアが塩を持ってくるようになってから、カスターはハサミ焼きが好物になったらしく、食べられないのが残念そうである。


「たった8匹しか取ってないのに全滅なんだな」

「奥の方ではたくさんいるでしょ。大人は仮想レベル10の魔石なんか狙わないし」

「いや、どちらかと言えばもう時期じゃないって事だろ。それに前回とったケヅメドリの卵は孵化しかけてた。ここでの狩りは今日で終わりかもな」


 カナトはそう言って、近くの杉の大木に向かうとよじ登っていった。そのスギは前にも登っていた気がする。


 崖の登り口からキラチフ山域に入るのはカナトが居るからできることで、王都周辺の半大人でこの狩場を使える者はほとんどいないはず。独占状態だった。

 だが日帰りで探索できる範囲はもう狩りつくしたのかもしれない。どこかほかの天然魔境に狩場を見出さなければ、魔石も現金も得られなくなってしまう。


 南南東の方角にケヅメドリが居そうな場所がみつかったという事で、降りてきたカナトを先頭にして向かう。二番目がカスターで、そのあとに弩弓を背負ったエミリア。黒革の鎧を纏ったイリアは最後尾。

 今までにないほど離れた場所にある目的地を目指して半刻ほど進む。

 峰に対して平行に進んでいるので急な坂にはなってはいない。大人の隊か、あるいは王都守備隊の巡回か。誰かが最近切り払ったのだろう、道になっている部分を進む。

 進行方向左側にエミリアの身長を超える程度の段差がある。

 むき出しになっている土の表面に木の根が露出していた。


 草藪をガサガサという音。


「危ない!」


 エミリアの叫ぶ声と同時、段差の上から飛び出した何かがカスターの背中を蹴って右の木の枝に跳び移った。カスターの上着に血が飛び散っている。


「いてぇなクソッ! 何だ!」

「猫?」

「いや魔物だ、肥満ヤマネコだぞ、これ!」


 名前の割にそれほど太っては見えない。とはいえその大きさは尋常でない。

 猫は東岸新市街でもたまに見るが、その3倍以上の体長がある。

 茶色と緑を混ぜたような独特の毛色に黒い縞模様が全身に描かれ、耳の先に触角のような長い毛が生えている。

 体つきだけでなく顔も猛々しく、大きな瞳が金色に輝く。

 鼻の横の筋肉を持ち上げ、長い牙を露出させると太い声で「ジャア」と鳴いた。


 エミリアがカスターの後ろに隠れ、背中から降ろした弩弓の本体を足踏あぶみで固定しながら弦を引いている。

 カナトが青銅製の鞘をはらうと、鈍い光を放つ鋼鉄の穂先が露出した。刃渡りは3デーメルテある。

 魔物が乗っている木は傾いた地面に斜めに生えて、その枝はイリアたちの立っている高さとあまり変わらないが、距離があり短鉄棍は届かない。

 カナトが間合いを測るように軽く一突きしたが、届かないことを見透かしたように肥満ヤマネコは微動だにしない。


 人間の生活圏の近くで暮らす普通の猫は冬眠しないが、この魔物のネコは真冬、雪に埋まって寝て過ごす。春になるまで何も食べずに長期間生き延びるために、体重が2倍になるまで脂肪をため込むことで有名だ。そのあたりはクマに近い生態と言える。

 秋ごろから大量の餌を求めて活動を活発化させ、時に人里にやって来ては家畜を狙い、人間の子供さえ襲おうとする。

 純粋な肉食獣の魔物としては一番身近かもしれない、仮想レベル15前後の魔物だ。

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