第123話 火事
深夜、起きていたイリアの耳に窓の割れる音が聞こえた。
借りている部屋は3階にあり、正方形に近い敷地の北東の角にある。
音は小さく、割れた窓は近くではないように思われた。覆い布を開くと部屋の窓の外に橙色の光が見える。
イリアの故郷ノバリヤは魔境森林のほとりであるためか木造が多く、壁内の家屋は密集している。そのために火事が大規模の火災になる事が多かった。具体的に他所の大都市と比べてどれくらい多かったかは知らないが、そのはずである。
幼いころから年に一度は目撃した不穏の象徴。
魔法によって消火が可能な現代において、火事とはそれほど恐ろしい災害ではなくなったとはいえ、炎の光が闇を照らす光景は、不安と高揚の
そして今、同じ色がガラス窓を照らしている。
部屋から出て、エルネストの寝ているはずの隣の部屋の扉を叩いた。
「エルネストさん! 火事みたいです!」
ドンドンと強い音を立て続けること数秒間。中でガタガタと音がして扉が引き開けられた。
「イリアか? 暗くて何も見えんな」
「明りを持ってきますか? 部屋で灯壺を点けてます」
「いやいい。いま窓から見たら、火はうちの店の一階で燃えているようだ」
廊下には照明が無く真っ暗だ。エルネストの部屋の窓は覆い布が開けられていて、そこから差し込む炎の光がわずかに反射して、何とか足元が見える。
三階は外周を囲うように8部屋が並び、内側に2部屋ある。その二部屋は窓が無いため物置としてしか使われていない。北側の廊下を進んで北西の階段に着く。
一階に降りるのかと思ったらエルネストは上に上がっていこうとする。
「どこ行くんですか」
「アスランたちを起こしてくるから、イリアはお母さん…… 違った、カルロッタを起こしに行ってくれ」
「はい」
言われた通りにしたいのだが、明り無しでは廊下を進めない。何年も暮らしている住人とは違うのだ。
イリアは一度部屋に駆け戻って点けっぱなしの灯壺を掴み、南西の角のカルロッタの部屋の前に向かう。その間およそ20秒。
外から「火事だー!」と声が聞こえてくる。分厚い壁でできた建物内にもちゃんと届くほどの大声だ。
扉を叩くと、既に騒ぎに目を覚ましていたのかすぐカルロッタは出てきた。
「火事はうちの店ですのね?」
「分かりませんがそうみたいです」
「ジゼルを起こしてあげてください。わたくしは消火に向かいます」
「大丈夫ですか?」
カルロッタは話している間も中空を見て、イリアの方を向いていない。自分にとって十分な明るさは、カルロッタにとっては暗闇と変わらないのだろう。
灯壺に使われる灯り脂は不純物を取り除き、融点を調節するために加工されているもので、それなりに値段が高い。
詰め替えたばかりの灯り脂の節約のためと思って小さく絞っていたが、イリアつまみを回して火を大きくした。
カルロッタはそれに気づくことも無く、階段のある方に向かって速足で向かう。見えていなくても、やはり自分の家なので慣れたものなのだろう。
カルロッタがどんな魔法適正なのかは知らないが、どの単精霊魔法であっても火事の対応はできる。
いずれにせよ、カルロッタはある程度魔法を使えるから消火に向かうのだろう。
カルロッタを見送り、ジゼルが寝ているはずの、母親の隣の部屋の扉を叩こうとしたところで、その向こうからガラスの砕ける音がした。
火事を拡大させるわけにはいかない。はずみで灯壺を壊さないようにしようという最低限の理性をのこし、イリアは把手の部分を蹴り破った。
広い室内の真ん中に据えられた大きな寝台の上、太った男が横たわるジゼルを左腕で押さえ込みながらこちらを見た。右手には中型の短剣。武技系異能で武器を強化できない者が使うための奇態剣。鋸の歯を拡大化したようなギザギザの片刃が付いている。
ジゼルもイリアの方を見ている。意識ははっきりしているようなのだが、口を動かしているのに声が聞こえない。
「なんだ? 娘を
そう言ったのは、いまさっき割られたばかりの窓の内側に立っている男。痩せていて小柄。逆立った髪。ギョロ目。
太った男が立ち上がり、ジゼルを左腕でぶら下げたままでギョロ目に向かって何か言ったようだが、声が聞こえない。
「聞こえねえっての。自分で異能使っといて、バカがよ」
ジゼルは太った男の腕に両手の爪を突き立て、寝間着の裾を翻して足でその膨らんだ腹を蹴りつけた。ジゼルのステータスでは効果は期待できない。鋸刃の短剣を突きつけられて大人しくなる。
「今からそっちに行くが、デカい声を出すとお姉ちゃんの顔が切り刻まれるかもしれねえぞ? 大人しくできるな? 嬢ちゃん」
ギョロ目はそう言って、丈夫そうな布でできた大袋を持ってイリアに近づいてきた。イリアは気持ちと喉を作り上げて口を開いた。
「……お姉さまを攫うって、どこに連れて行く気なのですわ」
「バイジスの情報も甘いぜ、妹がいるなんてな。心配しなくても命はとらんよ」
灯壺を奪われ、大袋を頭から被せられた。足元まですっぽり覆われ、足を払われて横に倒され、そのまま肩に担がれたようだ。
「今は、な」
男の不吉なセリフとともに、移動する感覚。ガラスの破片を靴で踏み割る音が聞こえ、3階の出窓から、担がれたままで外に飛び降りたようだった。
袋の中に居るのでよくわからないが、辺りには人の気配がある。火を放った者の仲間かもしれず、安易に声を上げて助けを求めたりすればジゼルに危害が及ぶおそれもあり、出来ない。
そうではなく、近隣のまっとうな住民がいたのかもしれないが、火事から人を助け出したように見えているのかもしれず、誰もイリアを担いだ男を止める気配はなかった。
イリアはもごもごと動き袋の口から頭を出した。赤銅色のカツラの額部分は製紙用の糊でしっかり止めてあり、後頭部は髪留めを3つ使ってぎっちり自毛と絡めてある。多少暴れても外れたりずれたりしなかったようだ。
袋は異常に頑丈でイリアの腕力で破れないが、口は完全に閉じられてはいなかった。音から予想していたが馬車に乗せられているらしい。
向かい合った二つの座席の、進行方向の側に寝間着姿のジゼル。後部にギョロ目の男が居て、火が付いたままのイリアの灯壺をいじくっていた。
座席の間の床部分にイリアは転がされている。ジゼルがこちらを見て複雑そうな顔をしている。
夕食後に部屋を訪ね、寝間着と髪留めを貸してくれと頼んだ時にも同じような顔をされた。
イリア自身、まさか脅迫状を送ってから一日でバイジスが手を下してくると思わなかった。
エルネストの対策が功を奏すか、あるいはイリアの連絡により街道保全隊の誰かに手を貸してもらえるまで。頼まれたわけではないが、自主的に夜番を引き受けるつもりでいたのだ。
マルゴットの屋敷で読んだ英雄物語の内容。
偉大なる英雄王マクシミリアン1世の、【王位継承】を受け継いでから数年の修業時代。
歴史に記されていない、敵対していた他国へ密偵として潜入したという逸話の中でマクシミリアンは変装の名人であった。
そして、カツラを借りる際にそれとなく聞いてみたところ、初めて目にしたマルゴットの格好もまた変装であったようだ。
王都の中で密偵まがいの事をしているのかは知らないが、「自分の素顔を一族以外にさらしたことは無い」とマルゴットは言っていた。
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