第122話 先代
街道保全隊の事務所は特に思ったよりも小さな、何の変哲もない建物だった。
アシオタル州内に駐在する師団だけで国軍の総勢は1万人を超えるのに対し、街道保全隊は第1から13までの中隊にそれぞれ数十人が所属するのみ。合わせても500程度でしかない。
それを考えれば、事務所がハインリヒ商会王都支店並の大きさしかないのは妥当ともいえる。
受付で、自分の名前と下宿先、マルク隊長もしくはカミーラに緊急に連絡を取りたい旨を伝えて外に出た。
そのまま東に向かって道を行く。基本的に男性が多い戦力集団の集う地域。とうぜん酒場などの建ち並ぶ繁華街があると思ったのだが、そういうのは何本か奥の裏通りにあると思われる。
合計で7つ、防壁で連結された砦を過ぎる。防壁には所々窓が開いていて中に空間があるのがわかる。きっと砦と砦の間をつなぐ渡り廊下の役目も果たしているのだろう。
歩き続けていくと北の方に訓練用地が見えてきた。なにも無いだだっ広い用地に草が短く刈り整えられ、遠くの方に上半身裸の男たちが100人以上、群れになって規則正しい運動をしているのが見えた。
さらに少し進むと甘カブラや、イリアの知らない野菜の畑が見える。
アクラ川の氾濫の恐れがある東岸の農作地には、不可欠の食料供給源である麦などは少ないようだった。
肉が苦手なものが好んで食べるラム豆が育つ畑もある。成育環境に関わらず豆の大きさが変わらず、乾燥重量が一定になることから重さの最小単位基準として使われるのがこのラム豆なのだ。
もらった地図の通りに交差路を北に曲がる。
舗装も無い細い道に入ったことで荷車も通行人も見当たらなくなった。
アクラ川から農業用水を引く小さな水路を乗り越えて、水路沿いの道を東へ。
目的地は小さな丘の上のようだ。扇型の葉をつけた奇妙な木が立っている並木道の坂を登る。
まるで防壁のような高さを備えた真っ黒の石塀。そして錆止め塗料の分厚く塗られた鉄門扉。
『白狼の牙』先代頭領の住む屋敷は本家である頭領屋敷よりもさらに敷地が広いようだ。
門扉を押し込んでみても開かない。間の隙間から覗き見れば
前庭が広く取られているらしく、屋敷本館までは距離がある。イリアは拳を硬く握って、大きな音を出すために強く鉄門扉を叩いた。
屋敷の玄関広間の内装は木調だった。白漆喰の壁に、隙間なく敷き詰められた組木の床。建物を支える役に立っているのかわからない細い柱が2本ずつ、合計8本北東側に並んでおり、柱の間に二階への階段。これも木造。
建物の基礎構造自体はおそらく煉瓦か石造り。本当の意味での木造建築でもないのに、天井まで無垢材でできているのにはなにやら違和感がある。
南西側には鉄格子付きの大きな窓がずらりと並んでいて、広間は全体が明るい。
「あの、それでマルゴットさんは」
「……」
門扉を開け、イリアをここまで案内してくれた男は何も言わずに、前歯をむき出しにするような笑顔を向けてくる。
頭髪が無くよく日焼けした顔。背を曲げて歩くせいで最初は70歳程度かと思ったが、顔だけ見ればそこまで老人という感じではない。皺が少ないわけではないが肌の色艶を見れば第一印象より10歳以上は若いだろう。
マルゴットに用事であると告げてから、イリアは身分証の提示はおろか名さえ聞かれていない。執事というにはあまりにみすぼらしい格好の男は、あごでもって階段を示した。上れという意味だと思われる。
短鉄棍を持ったまま階段を上がるのは、まるで本当に殴り込みを掛けに行くかのようだ。そもそも何のために武器を持って来たのかイリア自身よくわかっていない。
持っていると不安が紛れるような、そういう存在になっているのだろうか。
イリアが途中の踊り場まできたところで、一階広間に立ったままでいる男が「突き当りの扉ん中」とだけ告げ、玄関と反対がわの扉に向かって去って行った。
口がきけないわけではない事が分かった。
濃褐色の重厚な両開き扉を拳で叩いても返事がない。把手を持って押し開け、おそるおそる中を見る。部屋の調度品の配置はギュスターブの執務室に似ていたが、何もかもが少し大きく、豪華に見える。
誰も居ない。
部屋からさらに奥に続くような扉も無い。
何かの間違いかと思って一度外に出たが、間違いなく二階廊下の突き当りはこの部屋で間違いない。途中にあったのは平凡な片開きの扉であって、私室とか寝室という感じがする。勝手に開けるのは気が引ける。
中で待っていろという意味なのかもしれず、イリアは事務机に向かい合うように置いてある、来客用だろう革張り椅子に座った。
部屋の扉が乱暴に開けられる音でイリアはびくりとなった。勝手に読んでいた英雄物語の本を取り落としそうになる。
振り向くと、赤褐色の飾り着を着た女が入って来た。
「お前がイリアか。どれくらい待たせた?」
イリアの記憶が確かであれば、マルゴットの年齢は60歳に近いはずだ。
背はイリアより少し高いくらい。太っているわけではないが、並の男性よりも分厚い体つきをしたマルゴットは年齢が分かりにくく感じる。
若く見えるという事でもない。そもそも女性らしく見えないので、比較対象が思い浮かばない。
だが、それよりもだ。
「3刻は待っていないかと思います。 ……何で俺の名前を? ここに来てから誰にも言っていない」
「それはだね……」
マルゴットと思わしき女は飾り着の上に羽織っていた同系色の上着を脱ぎ去ると、机の横の上着掛けに放って被せた。そして頭から髪の毛をむしり取った。
赤銅色で肩まで波打っていた豊かな髪はカツラであったらしい。中から現れたマルゴット自身の髪の毛は総白髪で、男のイリアよりもずっと短く刈り揃えられてる。
見慣れない風貌で、いわゆる社交的な衣服の意匠とも合っていないが、不思議とカツラをかぶっていた時よりも違和感が少なくなった。
「教えられない。私にはいろいろな情報を得る手段があって、それが私の力の一部として働いてる。そうとだけ覚えておけばいい」
「入街審査の記録を誰かに見せてもらってるとかですか?」
「ふっ」
薄く笑ったマルゴットの四角い顔をよく見ると、左こめかみから目じりを通り、下に真っ直ぐ古傷が走っている。薄い眉毛の辺りを指で掻いて、机の上にカツラを投げ出し、執務椅子に腰かけた。
「用件はなんだい、イリア。私を頭領の座から追い落としたギュスターブの子が、何か頼み事かい?」
「よくわかりません。父はあなたを侮るようなことを言ったことは無いです。当時の父はまだ若くて、あなたを追い出した人が居るとすればそれは祖父なんだと思います。義理のですが」
「ふん。まあ、だいたい正しく把握しているようだね。所詮ギュスターブなど、ブライアンの手駒に過ぎなかった」
あまり良い気持ちがする話ではなかったので、イリアはすぐに本題に入った。
マルゴットは警士隊の上部組織である王都守備隊に顔が効く。ジゼルの一家が見舞われている危機に対し、何か働きかけてもらえないかという相談。
イリアとマルゴットは血のつながった一族であり、ジゼル一家は同郷と言えば同郷。さらに何の罪も無い彼らの苦境に手を差し伸べる事は、どこから見ても正義の行いのはずだ。
話を聞き終わり、マルゴットは立ち上がった。イリアの近くによって、英雄物語の本をよこすよう手を出してきた。本を返すと、それを書棚にしまった。
「……話は分かったが、何もしてやれることはなさそうだね」
「そんな」
「お前も別に、本当にどうにかしてもらえると考えて来たわけじゃあるまい? その詩とやらが罪に問える内容に思えないし、私は現状、一私人に過ぎない」
「……」
「警士の一部に不正の兆候が見られるからと言って、王都の警士隊全体が腐敗していると見るのは性急だね。普通に東岸新市街の分隊事務所に通報しておけばいい。巡回を増やしたりしてくれるだろうさ」
おそらくそんな事ならエルネストが既に手を打っている。わざわざここへ来たのはそんなありきたりな助言をもらうためではなかった。
実際、自分にできることを精いっぱいやろうと思っただけだ。マルゴットのいう事もわからないではない。イリアは立ち上がって、横に置いてあった短鉄棍を掴む。
「それよりも、そのハインリヒ家に世話になっている現状を何とかすべきじゃないのかい? 頭領家の男子ともあろう者が、他人の家に居候とは情けない」
「今はそんな事を言っている場合じゃない……ので」
「大げさにとらえるねえ。たがが貧民街の小物一匹、用心棒も居るというならどうとでもなるだろうよ」
「俺は嫌な予感がするんです。実際にバイジスを近くで見れば感じると思います」
「最近まで田舎の家にこもっていた、世間知らずの半大人の予感だろう?」
「……」
もう話すことも無さそうなので、イリアは帰ることにした。腹が減って来たし、なるべくハインリヒ商会に待機していたい。
「もう一度言うが、居候する先を考え直すほうがいい。当てがないならうちに来るのも許さないではないよ。『白狼の牙』に居られないような残念なアビリティーになったお前でも、衣食くらいは世話してやろうじゃないか」
「……そんな親切をしてくれるくらいなら、もう一つ、別に頼みたいことがあるんですが」
「は? なんだ?」
最後の頼みだけは聞き入れられ、受け取った物を手にし、来た道をたどってイリアは東岸新市街に帰ることにした。
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