第120話 執着
バイジスの服装は前に見た時と同じであるが、特に不潔な印象は無い。灰色の上下揃いで、見たところ仕立ては悪くなさそう。同じ服を何着も持っているのかもしれない。
店内には他の客が2、3人居て興味深そうに騒ぎを見ている。
真ん中の展示台の間でバイジスがロウマンを見下ろながら、右手の指で胸のあたりを小突いた。
「ですから、店長夫人がお客様との交渉を担当するのは特別な場合に限るよう、規定を作り直しましたので——」
「私との取引が特別ではないというのか? ひと月で金貨10枚も払う人間が他に居るって? いいかげんなことを言うなよ、貴様」
「奥様にも、ご都合というものがありますから」
「だから昨日は一日中待っていただろうが! それなのに、今日も会えないというのは他意があるとしか思えない!」
激しい剣幕でわめいている。
この男がどういうつもりで店に通っているかは直接聞き出せばいい。
一昨日イリアはエルネストにそう言ったわけだが、そうしないでも明らかになったようだ。どういう感情なのかはともかく、バイジスはカルロッタに対し異常な執着を示している。まともな取引のために訪れているのとは違う。
改めて店内を見渡せば、ロウマン以外に従業員は見当たらない。
誰かを呼びに行ったほうが良いと考え、イリアは階段へ続いている扉にゆっくりと向かった。その時。
扉が開きニコが出てきた。続いて用心棒のような役割もする、住み込みの雑用係アスラン。その後ろからアスランと同年代、この店の長のエルネスト。
背後から自分に迫る3人に対し、バイジスは素早く振り返った。その顔。
目つきが尋常でないことがイリアにも見て取れた。
「お客様。当商会の方針が受け入れられないという事でよろしいか」
「あんたか、カルロッタと釣り合わない、小太りの爺さん」
「ここは陶器卸商であっていかがわしい店ではない。女性と親しくしたいのなら他所へ行け。あんたの
エルネストの言葉にバイジスは青ざめ、憤怒の表情をうかべた。
やはり壁外地域に住んでいるという予想は当たっていたのだろう。
カルロッタに迫るほどの身長を持ち、肩や胸板は発達している。見た目はこの場に居る誰よりも強そうではある、が。
バイジスのレベルが25か6でしかないことはエミリアが看破していて、それはイリアから皆に伝えてある。
国軍中隊長補佐まで勤めていたアスランならレベルは40を超えているだろう。年齢と不摂生で多少衰えているとしても十分なレベル差であるし、人数差は4対1だ。もちろんイリアを抜きにしてである。
「このままでは済まさないぞ、エルネスト……」
「私の妻におかしな感情を抱くんじゃない。あんたと会わないのは妻の意思でもある」
「……嘘を吐け……!」
「ともかく出て行ってもらおう。もうハインリヒ商会はあんたと取引をしない。次またやってきたら警士を呼ぶ」
エルネストの宣言を受け、バイジスはゆっくりロウマンから離れた。
周りを見回しながら、店の東側、窓辺の展示台の所まで後退る。
癇癪を起して商品をたたき割ったりしないかとイリアはひやひやしたが、そういうことはなかった。
だが、何も言わずに店の人間を一人一人睨みつけた去り際の表情は、むしろ直情的に暴れまわられるよりもずっと強い不安感をイリアの胸中に引き起こした。
扉が外から閉められる。店の者4名と、3人の女性客が深いため息を吐いた。
「——という事があったんですよ。たまたまこの時間に帰ってきたせいで、えらい場面に出くわしました」
ジゼルと二人きりになるのにはいちいちエルネストの許可が要るわけだが、今は3階の廊下でジョージャが掃除をしているし、ジゼルの私室の扉は開いているので二人きりではない。
先ほど直面した緊迫する場面。大人同士が本気でいがみ合う様子を見た経験はそう多くない。まだ心臓の鼓動が高まったままだ。
「それはまた…… とんでもないというか、結局そのバイジスという人はお母さまが目当てだったという事? でも、人妻であるお母さまにいったい何を期待していたのかしら……」
「俺にはよくわからないですけど、カルロッタさんにはあれがあるんじゃないですかね。魔性の魅力とかいうのが」
「……」
女性の魅力の一つに、母性を感じるという種類のものがあるということは、イリアにもなんとなくわかる。母を恋しいと思うのに似た気持ちを、母ではない対象に向ける感覚はイリア自身、身に覚えがある。
あの無神経で無責任なハンナに対してさえ感じたし、恥ずかしながらジゼルに対しても少し。
もしバイジスが背の高さ、体格の大きさにそれを感じる
さらに言えば、やはりあの振舞いだ。
目があまり良くないから仕方がないとはいえ、子供でも年寄りでもない女性が息がかかるほどの距離に顔を近づけてくるというのは心臓が跳ね上がるような感覚になる。
「しかしこのままで済むものなんですかね? 結局壁外地域の住人だったってことでしょう? ソキーラコバルの壁外には真っ当な人もたくさん住んでいましたけど、ヤクザみたいなやつも居ました。こっちの壁外の治安ってどうなってるんですかね。住人の数はそこまで違いが無いみたいですけど」
「ソキーラコバルは半数が壁内、半数が外で暮らしていました。こちらは総人口40万人のうちの10万人が壁外住人ですから、割合は少ないことになりますね。けど、やはりこちらの方が混とんとしていると思います。向こうでは単にソキーラコバル周辺で増えた住民がはみ出してしまっただけですが……」
「こっちは全国からですもんね。あと、移民の人も」
大陸西側、つまりチルカナジア以西の世界という事だが、言語は同じである。
偉大なる原初の2賢者カノー・ヤスアキとマチルダ・ジョイノア。
≪賢者書庫≫を通じて彼らが初めて『書庫通信』を成し、その出来事がKJ暦の紀元とされている。
その当事者の片割れのマチルダが晩年、まだ魔境に分断されてばらばらの「人類生存圏」を巡り歩いて伝えたのが共通語。またの名を賢者言語と呼ばれている。
言葉だけでなく見た目にも、国による違いというものはほとんどない。
賢者たちの活躍により世界がある程度復興に向かった時から、高レベルのアビリティー保持者たちは世界をわたって血の交流をしている。
なのでチルカナジア国民と西部諸国からの移民は、言葉だけでなく見た目でも区別は難しい。むしろ東方の血が少し混ざっているイリアの方が王都住民と少し違っているとさえいえる。
『マナ大氾濫』以後、狭い城塞都市の中で少ない人口で世代を重ねてきた人類は、それぞれに血が濃くなっていた。それを良くないことだと伝えたのもまたマチルダであるとか。
他にもマチルダの功績は様々に言い伝えられてるが、文字通り、いわゆる伝説とされていて信憑性のほどは知れない。
その晩、店の者を集めてエルネストが今回の件の顛末を話した。
イリアにとって新しい内容はほとんど無かったが、カルロッタ自身は話の間、かなり落ち込んでいるように見えた。
真っ当に商売をしているつもりで付き合っていたバイジスが、ほんの二日間姿を隠しただけでああまでおかしくなってしまったのだ。
聞きかじった限りではこういう事態は初めての事ではないらしい。
夫婦仲の悪化の一因もその辺りにあるらしいのだが、イリアには今一つわからなかった。
カルロッタが店で働けるように計らったのはエルネストではなかったのか。それで問題が起きたのなら、責任の一端はエルネストにもある。お互い話し合って解決策を考えれば良いことではないのか。
中年夫婦の複雑ないざこざはともかく、今日取引停止を伝えたことで「バイジスのカルロッタへの執着問題」がどうなるのかイリアには見通せないでいた。
そして翌日。問題が解決どころか、より物騒なものに変異しそうな兆候が店に届けられた。
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