第103話 折りたたみナイフ

(まずいまずいまずいまずい…… まずいのか? まずいだろ!)


 路地を抜け、少し大きな通りに出て人波を潜り抜け、また路地に入って下町を駆け抜ける。

 東岸新市街とそん色ない立派な建物が多かったのは学園周辺だけのようで、南に向かって進んでいけば街並みはいたって平凡なものに変わる。

 防壁に囲まれていないためか、いくらかゆったりと土地を使っている印象はあるが、建物自体はソキーラコバルの下町とそう変わり映えしない。


(研究処があるから【賢者】が居るだろうとは思ってたけど、まさか学園生で保有者が居るなんて……)


 ≪賢者書庫≫の異能によって知識を蓄え、閲覧することのできる【賢者】は学問研究において当然有利であり、アビリティーや魔法、あるいは魔物。そういう研究をする賢者は多い。

 アビリティー学園がこの国の学問研究の中心地である以上、賢者に行き会う可能性は十分考慮していたし、それらしい大人が出てきたら識別されないくらいまで距離を取る心づもりはしてあったのだ。


 交差点を何度も曲がり、だんだん商店の少ない住宅地らしくなり、通行人が減る。人混みに紛れることが難しくなった。

 建物の隙間からアクラ川の水面が見えてきたので、いっその事と思い、人があまり立ち入らなそうなそちらの方に向かう。


 遠くから見る限りなら湖だと思うところだ。川というにはあまりにもゆったりとした流れ。

 広がる河原の草は一部を残して狩り払われている。土手のようになった斜面に腰を下ろした。


「賢者になったらヤズマブルに行くものじゃなかったのか……?」


 思わず独り言が口から漏れた。

 5万人が生徒として在籍するアビリティー学園本校なので、本来確率的には一人二人【賢者】保有者が居てもいい。だが実際【賢者】を発現した者は賢都ヤズマブルに留学するのだと聞いていた。

 ヤズマブルは本会議場が常設されており、賢者議会の本拠地になっている。

 【賢者】保有者は賢者議会への所属が義務付けられているのだから、一生に一度は所属表明のために賢都を訪れる必要がある。だから早くから留学してしまう方が面倒が少ないのだろうと、イリアは考えていたのだが。


「それは間違った認識ね」


 背後から声がして、イリアの心臓が跳び上がった。後ろを振り向くと、キノコ頭の女子がイリアを上から見下ろしていた。


「王国で【賢者】を発現させた子供でも、アシオタル州出身の子は学園の教授賢者に弟子入りする事が多いみたい。私もナジアの生まれだから、レベルも十分じゃないのにわざわざ遠くのヤズマブルまでなんて行かない」

「……」

「地方州出身だと学園に教授賢者が居ないでしょ? だから、【賢者】保有者に師事するにはどのみち親元を離れなきゃいけない。じゃあどうせならって感じで、留学することになるの。あなたも地方の出でしょ? だから誤解したんじゃない?」


 エミリアと呼ばれていた少女は軽く息を切らし、ずり落ちた眼鏡を元に戻しながらイリアのいる位置まで土手を降りてきた。

 よく見るとスカートではない。ハンナの履いていたような、太く膨らんだズボンのようなものを履いている。ジゼルとの日常の会話の中で、キュロットとかいう名称だと教えてもらった覚えがあった。


「それで? 魔石剤はちゃんとしたものだったのになぜ逃げたの? さっきの独り言からして、わたしが賢者だと気づいたからよね?」

「いや逃げてなんかない。用事を思い出しただけ」

「無理があるでしょ。河原で座り込むのが何の用事なの」


 動揺が顔に出ないようにイリアは演技力を振り絞った。まるで罪を犯して警士に尋問を受けるような気持ちだ。

 なにも悪事は働いていない。秘密を持っているだけだ。

 その秘密がばれてしまいそうになっているだけだ。


「あなた名前は?」

「……イリアだけど……」

「嫌、私の名前と似すぎてる」


 イリアとエミリア。確かに似ている。エミリアの後半だけを取ると、発音はほぼイリアになる。


「あなたの事は今からウーフって呼ぶわね」

「ウーフ?」

「伝統言語の語彙で麦の穂っていう意味よ。あなたの髪色って収穫期の麦みたいだし、ちょうどいいでしょ?」

「……」



 イリアという名前は亡き母ポリーナがつけてくれた名である。もともと弟のアレキサンダーという名は長男のイリアにつけられるはずだったのだ。

 だが、なぜかポリーナは生まれたばかりの赤ん坊のイリアを見て「アレキサンダーでは勇ましすぎる」と予定を変えさせたらしい。

 その名をないがしろにされるのは少し嫌な気もしたが、イリーナと呼ばれて過ごした日々もそれほど昔の事ではなく、怒るのも違う気がしたのでイリアは我慢した。


「ウーフ。あなたはすでに大きな失敗をしてるのよ」

「失敗って、なんのことか……」

「逃げた理由はアビリティー種がばれるのが嫌だったからでしょう? でも、異能で看破できると言っても、≪アビリティー干渉≫だけでそれをやってる賢者って今ではいないはずよ」

「というと……?」

「魔眼で相手のアビリティー構造を見ながら≪賢者書庫≫で検索して判定するのが普通のやり方だそうよ。そして≪賢者書庫≫はレベル20にならないと生えてこない異能なの。わたしもわざわざ半大人のうちにアビリティー判定ができるような訓練なんてしてない。系統がなんとなくわかる程度でしかないわ」


 ということは、イリアの【不殺(仮)】はまだばれていないことになる。

 最悪ばれたとしても研究処の研究対象になるだけのことだが、いちおうイリアは胸をなでおろした。

 まだ自分の秘密は自分のものとして、望んだ相手にだけ明かす選択権が残っているようだ。


「それで? あなたは【吸血鬼】? それとも【屍喰鬼】なの?」


 エミリアの右手にはいつの間にか、柄の長い直刃のナイフが握られていた。

 不安定な斜面にもかかわらず、少女の構えは道に入っている。


「然るべきところに突き出させてもらうわ。可哀相とは思うけど、社会の敵は放置するわけにいかないから」


 駄目なようである。逃げ出すべきでないときに逃げたことで、既に選択権は消滅していたようだ。

 イリアは大人しく秘密を話し自分が「人食いアビリティー」保有者ではないことを説明する決断をした。




 半刻後。イリアは小さな食事処の入り口の前に立っていた。エミリアが中に入って数分経つ。

 『喫茶・軽食アプリコス』とまるっこい文字で書かれた木看板が入口の横にかかっている。店は南北に延びる下町地域のちょうど中間あたり、中央大通りから西に一本ずれた裏通りにある。

 扉が開いたのでぶつからないように避けた。男の二人連れが店を出て、その後からエミリアが顔をのぞかせた。


「中に入っていいよ。個室が開いたから」



 内装や家具も店の外観と同じく華やかでかわいらしい。長卓で囲まれた調理場が客席から見えるようになっている。そこに居るのはエミリアと同じ髪形をした中年の男だ。イリアを見て微笑みかけてきたので会釈をする。

 エミリアに袖を引っ張られて、縦長の店の一番奥に行く。

 個室と言っても完全な部屋ではなく、三方を壁で囲まれた場所に二人掛けの卓があって、開いている一方を衝立で隠している感じの空間だった。

 ここはエミリアの家族が経営する店なのだという。向かい合わせに二人は席に着いた。



「昼食どきももう終わるし、しばらくこっちに人は来ないはずよ。ウーフが発現したっていう新種アビリティーのことについて話してちょうだい」

「その前に一つ聞きたいんだけど、君のその赤い髪って染色してるの? 根元はもっと暗い色だよね。昔の流行だって聞いてたんだけど、王都だとまた流行ってるの? 知り合いも青く染めてたんだ。国の仕事に就いてる女性で、一緒に王都まで来たんだけど——」


 エミリアは白金色の丸ぶちの眼鏡を指で持ち上げ、柄の中に刃の収納された折りたたみ式のナイフを音を立てて卓上に置いた。


「脱色してから染めてるわ。流行ってるかどうかは知らない。ごまかさずに話さないと、通報する」

「……ごまかすつもりはないけどさ……」


 ため息を吐いて、イリアは自分のアビリティーの秘密を話し始めた。

 判明した過程などを省いて現在分かっている性質を説明するのに、約半刻の時間がかかった。

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