第98話 ハインリヒ商会
ジゼルは大通りを西に向かってどんどん進んでいく。後ろをついて行くイリアの、さらに背後から蹄と車輪が転がる音が聞こえてきた。振り返ると馬車が迫ってくる。
真っ黒な毛並みの奇麗な馬。一頭で曳く馬車はイリアの良く知るものとは形が違っている。手綱を握る者が座る席の後ろに、縦長の箱のような物がついている。
箱の大きさは
道の右側を歩くジゼルイリアをゆっくりと追い越していったその馬車の箱には窓ガラスが嵌っていた。窓から中に人間が乗っているのが確認できる。
太り気味の着飾った中年女が扇で自分をあおぎながら座っていた。
「あれが王都の馬車なんですね。いいですね、幌なんかより見た目がいいし、雨だけじゃなく風も防げるし」
「そうですね。でもわたくしが子供のころからありましたし、王都以外でもああいう客室式馬車は走っていましてよ?」
「そうなんですか? 俺はあんまり外に出なかったのでわかってませんでした」
馬車が走っているという事は、建物が密集するこの王都ナジアでも馬を飼っている場所があるという事だ。厩舎があるような広い庭付の家があるのか、それとも壁外に馬車屋のようなものがあって、そこでまとめて飼育されているのかもしえない。
イリアは王都に来た目的を思い出す。馬が半魔物化するという話は聞いたことが無い。魔物には草食性のものも少なくないが、魔物化、あるいは半魔物化する生き物はどちらかといえば肉食ないし雑食が多いと聞く。
馬は完全な草食だがブタは雑食性。その養殖に苦労しているというデルモア牧場がどこにあるのかをまず調べなければならない。
ジゼルがどんどん先を行き、もう既に壁内に入ってから2キーメルテは来ているのではないか。感覚的にそろそろアクラ川にぶつかってもおかしくない。
「あの、ジゼルさんの、ご両親のお宅ってどのあたりに?」
「南に曲がってしばらく行けばあったんですが、その交差点はもう通り過ぎました」
「はい?」
「せっかく王都に来たんですもの、まずは大橋を見るべきだと思いますわ」
「第二のほうですか?」
「ええ」
とうとうそのまま東岸新市街の西の壁まで到着してしまった。東門よりもずっと小さな西門が見える。
西門門前広場にも市が立っていた。東の露店市場のような大規模なものではなく、せいぜい食べ物屋の屋台があったり、日よけ布のある展示台で魚が売られている程度。
アクラ川でとれた魚なのだろうか、数メルテの大きさのある奇妙な形の大魚が、吊り下げられた状態で
西門の左側に防壁と同じ高さの円塔がある。高さは8メルテ、直径は5メルテ程度。
狭い入り口が石壁に開いていて、中に入るとらせん状に階段が設置されていた。降りてくる男女の二人連れがあって、すれ違うのにイリアたちの荷物が邪魔になる。
塔の屋上はいわゆる展望台だ。チルカナジアを象徴する大河アクラ川。1キーメルテ先の対岸は少しかすんで見えた。
世界を東西に分けていたこの川に橋が架かり、その接続によってもたらされた経済的利益にこそ、この国の発展の礎がある。
イリアの見下ろす足元から真っ直ぐ西に、大橋の一本が伸びている。
橋板というか、人や車の通る平面部分は全て灰土で覆われ、その幅はかなり広い。
荷車や馬車が通るとき、すれ違うことが出来なければ困ってしまうだろう。橋の真ん中あたりでお見合いのようになったらひどいことになる。そうならないために、橋の幅は6メルテほどもあるようだった。
「この第二大橋はただの橋ではなく、大型の水棲魔物を通さないための水門にもなっていますの。下流のラウラ土橋のほうもやはり同じように水門化されて、間の6キーメルテの範囲内に外から魔物が入り込むことは無いのです」
「……それは凄いですが、水が流れている以上は卵や幼魚は入り込んでしまうのでは?」
「よくわかっていますね。その通りなので、水門の間の範囲は王都守備隊水警部がしょっちゅう魔物狩りをしていますわ。水棲魔物は陸のものより恐ろしいですが、中級格の魔石資源地が街の真ん中に横たわっているのなんてナジアだけでしょうね」
南の方に目をやると、水面の上にうっすらと黒い陰がはしっている。あれがラウラ土橋かと聞くと違うのだという。
ラウラ土橋と第二大橋の間にはもう一本架橋されていて、そちらは人がぎりぎりすれ違える程度の幅の木橋なのだとか。
下町地域の住民が東岸の農作地へと通うために使われる、通称「農民橋」という橋なのだそうだ。
観光も済んだので展望台になっている円塔を降りる。ジゼルは「空腹になりました」と言って市場の屋台を回った。先ほど見た、吊るして捌かれていたアクラ大ナマズの切り身を串にさし、甘辛く味付けして炙った物を買って来た。
「喉も少し乾きましたわね。輸入物の夏ミカンがまだ出回っている時期ですし、探してみようかしら」
「あの、ジゼルさん」
「はい?」
「何をするにしても、いったんお宅に帰ってからのほうがいいのではないでしょうか。高い夏ミカンなんて買わなくても、お宅にもお茶くらいありますよね?」
「……そうですわね」
手に二つ持っている串焼きの片方を渡してきた。アクラ大ナマズは巨大な魚であるが、魔石を持っておらず魔物ではないのだという。味は淡白で食べやすかった。
大通りを少し戻り、『真劇場カーラズ』と壁に大きく彫られた建物を南に曲がる。交差する南北に伸びる道は大通りよりも若干細くなったが、舗装は整い、接する建物の外観も変わらず洒脱である。
東岸新市街の街並みは板駒戦戯の板の目のようだ。30から40メルテおきに南北の道と東西の道が交差して四角く区分されている。
「ここですわ」
ジゼルの後ろをついて歩いて5分ほど。区画の東南の角を占める大きな建物。一階の外壁は黒っぽい石材で統一され、両開き扉の上に『陶器卸・ハインリヒ商会』と控えめに書かれている。
ジゼルが左側の扉の把手を掴み、扉止めから外すために軽く持ち上げると、急に中から引き開けられた。
「ああジゼル。帰って来たのですね」
そう言って、背中の荷物ごとジゼルを抱きしめたのは背の高い女性だ。ひらひらとした上下つながりの衣服。腰まで伸びている銀髪は豊かに波打っている。
「お久しぶりです。お母さま」
「背が伸びているわね。もっとよく顔を見せてください、わたくしのジゼル」
ジゼルの身長はイリアより少し高いくらいなので、16歳にして女性の平均身長に至っている。だが腰をかがめ、両手で包み込んで娘の顔をまじまじと見ている母親の身長はそれよりもかなり高そうだ。1.8メルテを超えているのではなかろうか。
イリアにはあまり知識がないが、卸売商というのは一般の客が訪れる店とは違うはずだ。だがハインリヒ商会の玄関からすぐに広がる広間には様々な食器や花瓶が美しく展示されていた。
東と南の壁に大きなガラス窓が開いていて明るい。
イリアが壁の棚や6つある展示台の上の商品の数を数えていたら、ジゼルの母親が近づいてきた。
「あなたがイリアなんですね? わたくしがハインリヒの娘で、ジゼルの母のカルロッタです。よく顔を見せてくださいな」
息がかかりそうなくらいの距離に顔を近づけてきた。どことなく雰囲気は似ている気がするが、ジゼルに比べて目鼻立ちの印象は柔らかい。
娘にしたように、顔を両手で挟もうとされ、イリアはわずかに体を硬直させてしまった。その態度でさすがに遠慮したのかカルロッタは手を止め、そして微笑んだ。
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