鏡の赤
@kazuomini
第1話
森本純平(22):俺。施設の新人職員。
俊哉(13):僕。黒髪切長の少年。
石橋(65):施設長
*****
児童養護施設、
それは家庭の様々な事情で上は高校生、下は3歳児までが共同生活するひとつの家庭の形である。
明るい喧騒とした表通りを抜けて、住宅地の奥、太陽が影を落とす静かな一角にその家はあった。
家庭と呼ぶには少し無骨な四角い煉瓦造りの古い建物は3階建て。
その一階、建物に入ってすぐの位置がエントランスになっており、透明なガラス戸の張った職員たちの事務所があった。
ここで働く大人たちは全員で5人。
小学校の職員室の様に大きな引き出しのついた机が4台並ぶそこで事務椅子に腰掛けた施設長である。石橋が職員である若手のホープに声をかけた。
「明日から新しい家族が加わるぞ。」
石橋は60代後半といったところだ。
白髪のなかなり混ざってきた頭を掻きむしると使い古されてぼろぼろになった四角いフレームのメガネを外してレンズを丁寧に拭き、またかけなおした。
若手のホープ。俺だ。
森本純平。
20代前半。癖のある短く固い黒髪。なんのこだわりもないポロシャツに身を包む姿はお金がありそうには見えなかった。
大学で心理カウンセラーの資格を取り、自身が昔育ったこの施設に帰ってきたのだ。
「写真でもまあ見てみてくれ。役所から届いたものがある。…俊哉という。
美しい顔立ちが黒髪に隠れていた。
目元まで伸びた髪は瞳を隠す様で、後頭部から襟足まですっかり伸びきっている。しかし癖はなくまっすぐ伸びているのが純平は少し羨ましく感じていた。
へぇ、写真でよくよく見れば綺麗な少年だ。と俺は少し見惚れてしまっていた。
仕方がない。綺麗な生き物は人類皆一様に好きに決まっているから。
明日、その姿を見られるのが少し楽しみになっていた。
翌日の午前中のことだ。
まだまだ朝日は東の空で穏やかな光を放っていた。
役所の人間に連れられてエントランスに美しい少年が立っていた。
写真で見るよりも美しく、ただ、彼はどこか影を背負っている様で目元まで伸びた髪の奥の瞳の色を正確に判別することは困難であった。
施設長である石橋が市職員からあれやこれやと話を聞いていた。本来なら本人がいない談話室などで話すべきだろうが、この役所の人間は配慮というものを知らないらしい。気まずそうにしている石橋のことなどお構いなしで彼の今までのことを話していた。
少し心配になり、俺が俊哉の顔をちらっと覗き見たが、不思議だ。自身のことを隣で話をされているというのに彼のその表情は変わらない。ただ一点じっとどこかを見ながら押し黙っているのだ。
彼は母子家庭に育ち、その母を病で失ってここに来たらしい。親戚たちに同居をと声をかけられたがその全てを断り、この施設を自ら選んだそうだ。
散々彼の出自やなにかを語り終えると役所の人間は満足そうに彼を託すとさっさと出て行ってしまった。
役所の人間が帰るとその場に残された彼はこちらに向かって一度、軽い会釈をした。
そして自身の持ってきた荷物を置く場所をキョロキョロ辺りを見渡しながら、探していた。
「ひとまず先に部屋に案内するからついてきて。」
石橋が書類を整理に事務所に向かうのを確認して、俺は俊哉を新たな部屋へと案内した。
簡単に施設の紹介をしていく。
1階には今来た玄関、その隣が事務所になる。
なにかあれば必ず大人がいるから声をかけにきてくれ。
それから奥が食堂と風呂になる。
食堂は食事の時間がみんなで決まっている。みんな一緒に食べるのが大事だといつも石橋が言っている。
ああ、石橋というのは今さっきみかけただろう?あのおじいちゃんだ。
一応この施設で一番偉い人になる。
風呂は男女で時間がわかれてる。
月、水、金、は女子が先に入る。
火、木、土は男子が先だ。
日は隔週で変わるから確認してくれよ。
「次は2階だ。」
古ぼけた木の階段を登り、2階に上がる。
2階は上がってすぐにある広い部屋。ここが談話室だ。テレビも見れるし玩具やなんかもここで遊べる。
その隣廊下沿いにいくつかある部屋が子どもたちの個人室になる。
個室というか…まあ全部四人で一つになるんだけどな。
部屋は全部四人部屋になる。
俊哉くんはこの一番手前の部屋にしよう。空いている奥の二段ベッドの2階を使ってくれるといい。気に入らなかったらルームメイトと場所を交換してくれて構わない。
自分の荷物は空いているロッカーに入れておいて。
俊哉は話に頷くと自身の背負ってきたリュックと大きな手提げ鞄を下ろす。小学生が持っているにしてはかなり少ない荷物だ。
荷物から衣服や学校の教材を取り出すと自身にあてがわれたロッカーのスペースを埋めていく。すぐにカバンは空っぽになった。
最後に彼がカバンの底から取り出したものは、男子が持つには少し異様な物だった。
ドレスが2着。
ふりふりでカラフルなそれはフラメンコを連想させる。
俊哉は視線に気づくと少し恥ずかしそうに
「母の形見なんだ。」
ポツリと答えた。
その日から新しく家族になった少年はすぐにみんなに気に入られていた。
一番下の3歳のおさげ髪。アンズもお兄ちゃんと慕っていたし、高校生、反抗期真っ盛りの難しい年頃のカナタだって無口だが可愛いやつだとよく遊びに誘っていた。
あっちへ、こっちへと細い白い腕を引かれていく彼はやはり表情を変えはしないがそれでも皆の話に入れてもらい何処か嬉しそうにみえた。
何ヶ月か過ぎた頃、施設のイベントがあった。
家族皆んなで遠出をしようというものだ。
本当の家族がそうするように、皆んなで日帰りで遊びにいくのだ。この日はよほどのことがない限りは皆出かけてしまうので施設は久しぶりに空っぽになってしまう。
俊哉にとってははじめての家族揃ってのお出かけの日になる。
しかしこの日彼は珍しく自分の意見を言ったのだ。家を出たくない。遊びには出ないと…。
「なに、強制するものでもない。」
俊哉の意見を汲み取った石橋が施設に残り、彼を見守ることで話は決まった。
夕刻、皆が帰ってきたのを見ると微笑みながら
「お帰りなさい」
と出迎える俊哉はいつもと変わりなく、まあ気が向かなかったのだろうと職員たちも特に気にすることはなかった。
それからまた何ヶ月か過ぎた。
家族が楽しみにしている揃ってのお出かけの日だ。
また俊哉は施設を出ていくのを拒んだ。
流石に続くと彼のメンタルやなにかが気になるなと職員一同に頭を悩ませた。
しかして彼ら子どもたちにとってここは日常生活の場所。誰か一人を置いてはいけないが皆を巻き込むわけにもいかない。今日は俺、純平が残ることにした。
みんなが出ていくのを二人で見送った。
特にやることもないので俊哉は自室に引き下がって行った。
俺はこの際だからと事務所で役所に出さないといけない記録を書いたり、書類を整理していた。
気づけば時刻は正午を過ぎた頃。
…少し、集中しすぎていたな、と事務椅子から体を上げて一つ、伸びをした。
施設の階段をゆっくり上がりながら、少し大きい声で話をする。
「俊哉、お昼が過ぎていたよ。…そろそろご飯にしよう。」
部屋の前までくると廊下沿いにある部屋の一番手前の部屋をノックした。
俊哉の返事はなかった。
出かけなかった俊哉のために食堂にはお弁当が用意されていた。まさか一人で食べていることはないだろうし…
申し訳ないなと思いながらも部屋のドアノブを回した。
ギィと立て付けの悪い木と軋む蝶番の音が室内に響いたのだが俊哉からのリアクションはない。
よくよく彼の二段ベッドまで見て気づく。
彼は部屋にはいないのであると。
驚いた。
集中して仕事をしている間に出て行ってしまったのか?いや、そんなことはない。前を通ればすぐに気づくはずだ。
玄関の扉には反抗期で怒って施設から飛び出して行ってしまう高校生カナタのためにドアに鈴がついている。誰かがドアを開ければさすがに分かるだろう。
慌てて談話室、そして一階の食堂から風呂、トイレまで覗きに行ったがどこにも居ない。
まさかと思い、普段は立ち入ることのない3階の倉庫ものぞいたがもちろんいなかった。
途方に暮れてしまい、2階まで戻ってきた時、一つの違和感に気づいた。
そう、子どもたちの個室は普段プライベートな場になるので自分以外は立ち入ることがない場所になる。もちろん彼ら、彼女らもプライベートに関しては緊張感を持っていて、侵されない様に細心の注意をはらっている。
そんな彼女たちの。一番奥にある女子たちの部屋の扉がうっすら空いていた。
違和感とともに確信した。
そう、俊哉はきっと中にいるはずだ、と。
静かにドアを開ける。
女子四人部屋。部屋の奥にある姿見の前に彼はいた。カーテンから漏れる光に照らされるように鏡を覗き込む彼は母の遺品であるドレスを体に巻き付けていた。
黒髪に隠れていた美しい顔立ちが顕になっていた。
目元まで伸びた髪を左右に寄せて黒い、黒曜石みたいな瞳を鏡に反射させている。
癖はなくまっすぐ伸びた髪がドレスのレースに埋もれながら彼の呼吸に合わせて見え隠れする。
赤いフラメンコのドレスが彼の強い黒と対比して艶に輝いている。
あっと声が出る前に室内に歩いて侵入した俺は、彼の細い腕を衝動的に掴んでいた。
そうか、これが彼が人を遠ざけていた理由か。
「痛いよ。…離して。」
俊哉が呟く。うっすら開いた赤い桜の様な唇が動く。薄く開いた瞳が懇願するようにこちらを睨んでいた。
このままではきっと俊哉は施設を出ていくだろう。なんとなくそんな嫌な予感が頭の中を蹂躙して、咄嗟に言葉が出た。
「ここは女の子たちの部屋だ。俊哉…出よう。」
「…勝手に入ってごめんなさい。その…」
「いいよ、俊哉。お母さんの大切なドレスだったんだろ?誰にも言わないから大丈夫だ。」
二人きりだ。
他は誰も知らないし、知ることはないと食堂まで俊哉を連れて行き、二人で食事をとった。
お互いにほとんど何も語らず、ただ黙々と食べるとまた午前中のようにそれぞれ部屋に戻っていく。
誰かが早く帰ってきてほしいな、と気まずさに時計を見るが時の進みは遅い。
心臓が早鐘の様に延々となっているのが邪魔で、仕事なんか手につかなかった。
それからだ。
俊哉も俺も実は変わることはなくいつもの日常に戻っていた。
日々が過ぎるのは早く、俊哉は気づけば小学生を卒業し、中学生に、中学から受験し高校生と順調に日々を過ごしていった。
大学は都内にある頭の良い学校に行くらしい。
彼はいつしか荷物をまとめてこの施設を出て行った。
アルバイトで塾講師をしながら下宿先で頑張っているらしく、時折手紙が届く。大学の友達と肩を組みながら楽しげに笑う姿が印象的だった。その写真に映っている成長した彼の白い腕をなぞった。
たくましく、少し筋張った腕だ。
あの時掴んだ枯れ枝の様な腕と同じだとは思えなかった。
*
施設で使わなくなった姿見を俺は引き取った。
窓辺に置いて朝日を反射させるとあの日を思い出す。
赤と黒の対比が美しい少年はまだ鏡の前にいて踊りでも踊っているのではないだろうかと脳裏を探す。
そう、確かにずっと彼は頭のどこかにいて、誰かを狂わせたのに写真の中幸せそうな彼に、苛立ちを覚えるのだ。
俺だけの彼は決して笑わない。記憶の底でただじっと黒曜石の瞳で前だけを見据えていたのだから。
鏡の赤 @kazuomini
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