第31話 ある一つの事実
負けたことがない。これは事実だ。
カモーネの名は、生まれながらにして勝者の証。
貴族の中でも有数の領地を持ち、資産も潤沢。あらゆる家とのコネクションもあり、どのような状況であっても人の上に立てる。
それが、カモーネの名を背負う責務であり、権利である。
この俺、フィッツ・カモーネには類稀なる才能があった。
身の内に秘める魔力総量は一般貴族の比ではなく、頭だって周りを見下せるほどに回転が速い。
俺は負けたことがなかった。
他者を取り込み、弱みを握り、手ごまにする。俺にとっては日常茶飯事で、それは勝負ですらなかった。
俺は負けたことがなかった。
あの時までは。
「……うぅ、うぐあっ」
瞼の裏に、少女が写る。それは俺より二回りは小さい、歯牙にもかけないガキ。
そいつが手を伸ばす。俺に向かって、ゆっくりと。
俺はその場を動けない。
手はゆっくりと近づき、俺の顔を覆い、視界を暗闇にする。
その時俺は初めて気づく。俺が負けたという事実を。
「っは! ……はぁ、クソ! またこれか……」
目を覚ます。背中からは嫌な汗が大量に吹き出て衣服を濡らしている。
月明かりの位置は目を閉じる前から少ししか動いていない。
カタリと、何かが動く音がする。音のする方に目を向けると、従者が一人ベッドの近くに立っていた。
「……なんだお前は。いつ入った」
「いえ……! フィッツ様がうなされていたので、水をお持ちしようと……!」
震える従者の手には確かに水差しが握られている。俺がぎろりと睨むと従者は水差しをゆっくりと机に置き、そろりそろりと後ずさりする。
その一つ一つの動作が、俺の気に障る。
「誰が入っていいと言った! とっとと失せろ!!」
俺は衝動で手元にあった枕を投げつける。机に置かれた水差しにちょうどあたり、床に落ちていく。
パリン
何の感情もない音と共に、水差しは無慈悲にその機能を失ってしまう。
「あ……!」
「お前だ、お前のせいだ」
「フィッツ様……?」
従者は怯えた表情で俺を見つめる。
そうだ、俺が求めている顔だ。弱者は強者である俺を恐れて敬えばいい。
「それが壊れたのはお前のせいだ。明日、父様に言って貴様をクビにする」
「そんな……! お待ちくださいフィッツ様!」
「うるさい! 早く出ていけ!!」
張り裂けんばかりの怒号を投げかけると、従者は走り去るように部屋を出る。残ったのは水差しの残骸と静寂に包まれた部屋だけだ。
ふと、部屋の隅から異様な気配を感じる。そこには何もない。けれど、俺が目を離したすきにずるりと何かが飛び出して、俺を襲ってくるかもしれない。
俺は自分の足首を掴み、ベッドの中で小さく丸まる。
俺は強い。常に勝者の側に立つ。なのに、今の俺はずっと何かを怖がっている。
”大丈夫です。もし不安を感じたら、またこの言葉を思い出してください”
「そうだ……あの人は言っていた。手紙、手紙はどこだ……」
俺は
俺は急いで飛び起きて濡れた手紙を回収する。封筒を開け中を確認すると、濡れていたのは外側の封筒だけであり、中の紙の被害は少なかった。
俺は安堵し、手紙を開く。
『フィッツ・カモーネ様
全ては万事順調に進んでおります。
今回送らせていただいた品は、カモーネ様にしか十全に扱えない物となっております。故に、件のアリン・クレディットと決闘をする際にはその勝負内容を吟味する必要があります。
ですが、フィッツ様であれば必ずや勝利を掴むことができるでしょう。
告発文に関しては、そのままカモーネ家で保管するのがよろしいでしょう。その後のレイ家の処遇についても、カモーネ家のお好きなようにやっていただければと存じます。カモーネ家ほどの立場の貴族であれば、レイ家の財産を全て没収し騎士としての地位を剥奪することなど容易いでしょう。
この件に関して、書面でのやりとりはこれで最後に致します。また近いうちにお会いしましょう。
あなた様の幸運と勝利を願って ドラッグ』
俺は読み終えるともう一度目線を文頭に戻し、熟読する。すると、さっきまで逆立っていた精神が落ち着いてくる。
不思議だ。あの人と話していたり、あの人の文章を読むと自分でも驚くくらいに精神が安定する。
いつの間にか部屋の隅にあった存在感は消えていた。瞼を閉じてもあの女の影は見えない。
だが、まだ完全じゃない。俺の中から敗北を取り除くには、あの女に勝つ必要がある。
道具を用意した。場を整えた。状況も、あの女を追い込むためにレイ家を没落寸前まで追いやった。あの人曰く、正義感の強いタイプは自分が悪い状況に陥るより、他者が自分のせいで悪い状況に陥ったと知った方が”効く”らしい。その成果は見る間でもないだろう。
ああ、掴める! 目の前の勝利という光を、俺の手で!
このために俺は自分の持っている全てを対価にしてあの人に捧げたのだ。
「は、はは、ははははは!!」
次は俺が必ず勝つ。これも事実だ。
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