忘れたくない

「でね、今日その人のせいで先生に怒られたんだよ?」


「それ……紫苑が男の子ばっかり気にしてたからじゃないの?」


 美弥乃に言われ、紫苑はぎくりと顔を引き攣らせた。紫苑は学校から帰って店のカウンターに座り、コーヒーを飲みながら美弥乃に愚痴を言っていたのだが、彼女に正論を言われ何も言い返せずに口ごもる。


「だって……ウワサ、気になるし」


「気になるのはウワサだけ?」


「ん、どういうこと?」


 紫苑が聞くと、美弥乃は興味深そうにふふふ、と笑う。


「男の子として、意識してるのかって話よ」


「ばっ……!」


 耳に突然入り込んできた言葉に、紫苑は危うくコーヒーを吹くところだった。


「ぐっ……、ち、ちがうし! そんなわけないじゃん!」


「あらあら、取り乱しちゃって」


 うふふふ、と楽しそうに笑う美弥乃を紫苑は軽く睨む。


「ほんと、そんなんじゃないから! 大体知り合ってまだ二週間ぐらいしかたってないし。それにあんなの、ぜんっぜんタイプじゃないから!」


「へぇ……でも聞く限り、仲の良い友達ができたみたいでよかったわ。よかったら今度、店に連れていらっしゃいよ」


「ええ!? なんでアイツを!?」


 紫苑は慌てた様子で声を上げる。思わず大きな声を出してから申し訳なさそうに首を縮めるが、幸い店に人は少なかった。


「……とにかく、彼の話はもう終わり! 勉強してくる」


 尚もにこにこしている美弥乃を尻目に、紫苑は席を立って店の奥へと消えた。




「っはあ……」


 勉強すると言ったが、イマイチ身に入らない。少しだけ昼寝をしよう。

 そう考えて、紫苑はベッドに身を投げて目を閉じた。


 ***


 白い天井。白い壁。白い床。白い照明。

 私はずっと、白に包まれて幼年時代を過ごした。


「七三八番、定期検診へ」


 無機質な声にそう告げられ、私は白い監獄から外に出る。どこまでも長い、白い廊下。人が住んでいるなんて到底思えない、生活感の皆無な建物。


 だが確かに人は存在している。過去に何人か、自分と同年代ほどの少年少女とこの廊下ですれ違ったことがある。ある者はいかめしい鉄の首輪をはめられ、ある者は両手の首を重々しい鎖で繋がれていた。

 そしてどの者も、目の中の光が褪せていた。


 いつか私もそうなるのだろうか。そんな恐怖を抱えながら、毎日毎日変わらない日々を過ごしていた。

 時計も窓もない部屋で日に日に感情の色が薄れていく。長い時間が経ったなと思うと、不意に名前を呼ばれる。「七三八番」と。名前を呼ぶ大人についていくと、腕に注射を打たれて意識を失い、再び気づいた時にはまた監獄に戻される日々。


 この無機質な日々が、ずっと続くと思っていた。ある日までは。


「今日はお前の担当医師に会ってもらう」


「え……?」


 いつものように大人の後をついて歩いていると、私は不意に言われた言葉に拍子抜けした。


「名は、神野こうの凪沙なぎさ。今日からお前たち『七百番台』の担当になる。彼女がお前たちとの対面を望んだ。だから、今から彼女に会ってもらう」


「は……はい」




 連れられるがまま一つの部屋に入ると、案内の人間は無表情のまま扉をバタリと閉めた。


「あ、来たね。たしか」


「七三八番です」


「ああそう、それ。それなんだけどね」


 室内の回転イスに座る女性は白衣を身に纏い、くるりと私の方へ向いてにこりと笑う。


「アタシ、七百番台の子を新しく担当する神野凪沙。で、さっそく相談なんだけど……アタシ、何をどう頑張ってもアンタたちを数字で覚えることができそうにないのよね」


 神野先生はイスから立ち上がり、私に近づくと目線を合わせるようにしゃがみ込んだ。彼女の桜色の瞳が、仄かに煌めく。


「だからね、アタシに名前をつけさせてほしい。アンタの顔と名前、アンタがどんな子なのか。そういうの全部、ちゃんと知った上で担当したいの」


 神野先生は私の両肩にそっと手をのせ、微笑んだ。その時、私は気づいた。私は生まれて初めて、人が笑うところを見た。人って、こんな風に笑うんだと思った。

 でも。


「でも。どうして、ですか」


「ん?」


「どうして、知りたいと思うのですか。私たちは知り合いでもないし、この場がなければ出会うこともなかったはずです。それなのにどうして、数字以外の名前をつけてまで私を一人の人間として認識しようとするのですか」


 神野先生は、驚いたような顔をした。


 実は私たちが囚われている部屋は、白一色だけではない。部屋の隅には、あらゆる色が置かれていた。たくさんの、無限の色を持つ物語が散らばっていた。


 私の親はその物語たちだ。たくさんの物語が、私を育てた。

 だからまだほんの子供といえど、その文章力や語彙力にはある程度自信があった。


「へぇ、ずいぶん難しい言葉を使うのね。七歳にしては上出来よ。本でも読んで勉強してるのかしら」


 神野先生の言葉を聞いて、私はようやく自分がいま七歳の子どもなのだということを知る。


「ふふ。あのね、七八三番。アンタさっき、変なことを聞いたわね」


「変、なにがですか? あと私は七三八番です」


「つれない子ね全く。七三八番、アンタはさっき、『どうして私を一人の人間として認識しようとするのか』とそう聞いた」


 神野先生は眉をひそめて右手の人差し指をたてる。そしてにやりと一笑してみせた。


「簡単な話よ。アンタが一人の人間だから」


「そういうことを言っているのでは」


「ちがうの?」


 私は何も言えず、口を閉じる。


「怖いのね。自分がこの世で唯一の、個人という対象として存在するのが」


 そしてそのセリフに、目を見開いて彼女の桜色の瞳を食い入るように見つめた。


「なるほど。なるほど、なるほどねぇ。要するにアンタは、自分に名前がつくことを恐れている。それはなぜかしら? アタシには分からない。だけどね……アタシは、困るのよ。アンタを呼ぶ名前がないと」


 名前がつくのが怖い。その理由はずいぶんと前に読んだ本にある。


 名前がついてしまったら、この世界から消えることを惜しんでしまう。そして消えたとき、人々の記憶に傷をつけてしまう。

 きっとその傷は、まるで雪景色の中に放り込まれてそこから一生独りで生きていくような、そういう真っ白な痛みを伴う。


 名前がない。それはこの世界に生きた証も残らないということだ。それはとても素晴らしいことだと。


「名前がないことは、この世界に存在したという証が残らないということ。アンタは、それが正しいことだと思っているのね。残念だけど、アタシはそうは思わない。あのね、人っていうのは、互いに影響し合うものなのよ。誰とも関わらない人間なんていない。アンタもね。実際に今、アタシとこうして対峙して話している。記憶には名前が必要なの。アンタは誰の記憶にも残りたくないのかしら? だけどね、アタシはアンタの記憶を残したいの。だから、アンタとの記憶に名前をつけたい。アンタの名前を、記憶の名前にしたい」


「記憶、の、名前……」


 私が小さく呟くと、神野先生は少し唸ってからハッと閃いたような顔をした。


「……うん、決めた。今日からアンタの名前は、シオンだ」


「しおん? ハルジオンとかの……?」


「そうよ。花言葉は、『追憶』『君を忘れない』。アタシからアンタに贈る名前だもの。アタシはアンタのこと、忘れたくないわ。だから」


 そのとき、知る。私が名前がつくことを怖がったのは、名前があったとしても忘れ去られてしまうことが怖かったのだ、と。


 だから私は。


 神野先生から「シオン」と名づけられた時、「アンタのことを忘れたくない」と言われた時、どうしようもなく胸が騒いで、その場で大声をあげて泣いてしまったのだと、思う。

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